FF14パッチ7.0黄金の遺産(レガシー)プレイ感想その2


はじめに

 この感想文はテーマごとに書き出したものなので、必ずしもストーリーの時系列に沿った感想ではありません。前回と同じくメインストーリーをプレイして感じたことを書き散らしていきます。

描いてほしかった「兄弟」のこと

 王位継承の儀の真っただ中でバクージャジャが「兄弟のためにも負けられねえ!」的なことを言った時、筆者の中のでは「バクージャジャは15人くらいの大家族の第一子長男でなんか苦労してるのかあ」といった感じの、なんとも的外れな画がふわっと浮かんだ。まさかそんなわけはないだろうと思ったが、のちに「双頭」がどのようにして生まれるのか、そしてその生まれゆえにバクージャジャ自身が少なからず苦しみを抱えていることが明かされ、「いや、あの台詞じゃそこまで想像できんがな」と思った次第。
 同様の声を上げている方もいらっしゃると思うが、バクージャジャ、ゾラージャの2名に関しては過去や生い立ちなど、抱えているものをもう少し先に描いていてほしかったなとは思う。

 たとえば、最初のIDを超えたあとだと思うのだが、負傷した仲間(というより従者か?)を「知るかよ」と突き放してまったく心配しないバクージャジャを描いたムービーがあった。あのムービーを見ていた筆者は「お? この無慈悲な扱いを受けた従者があとでバクージャジャを裏切ってヒカセンを助けるとかなのか? そのための伏線か?」なんて想像していた。しかし蓋を開ければあのシーンの意味は、「バクージャジャって仲間にも冷たい奴なんですよ~」というだけのシーンだった。あのムービーがなくてもバクージャジャのことは普通に悪役で酷い奴だ、と見ているから、あのシーンでわざわざ補強する必要はなかっただろう。
 あのシーンの代わりにたとえば、「〝犠牲になった兄弟の割れた卵の殻〟に思いを馳せるシーン」にするとか、何かしらバクージャジャが抱えている「苦しみ」を描けばよかったのでは、と思う。そうすれば、マムーク付近での話にもう少し深みが出ただろう。

ゾラージャが得られなかったこと

 前回の記事で、「ウクラマトは成長した。〝理想の王として堂々たる姿であらねばならない〟という虚勢を張ることなく、弱みを見せてもいいことを知った」と書き散らしたが、「弱みを見せてもいい」という一種の弱点晒し、これはウクラマトが得られた強さで、そしてゾラージャが生涯得られなかった強さである。

 筆者が考えるに、ゾラージャはその育ちや生来の自身の性格ゆえに、自分の「弱さ」を人に見せることはできなかった。王の実子として生まれ、育ち、次の王には自分がなるのだという期待、プレッシャー、自分自身の意思。それらの重さはいかほどのものか。それはその境遇の者にしかわからないだろうから文字通り想像にすぎないが、「やがて王になり得る自分の弱いところ」など、他人に見せることができなかった。絶対に見せたくなかった。それはゾラージャの矜持であり、選択であり、本人は自身の強さである、と考えていただろう。

 リアルで「王位」に就いている人間の数は少ないが、しかし大なり小なり「リーダー」の地位に就いている人間は多い。そして筆者が思うに、「より良いリーダー」とは自分の弱さを人に見せることができる。
「良いリーダー像」は組織の目的や状況によって変動するので一概に言えないが、「困った、助けて」とすぐに言える(=弱みを見せられる)リーダーは、それができないリーダーよりもメンバーからの協力を得やすい。窮地に陥った時に原状復帰が早い。もちろん、弱さばかり見せつけられてしまっては困るのだが、「できないこと、怖いこと、失敗したこと、自信がないこと」を表明できた方が、マイナス事項がより小さなマイナスで済む。それができないリーダーは最悪の場合、自身の弱さを隠すために組織をあらぬ方向へ導いてしまう。そう、ゾラージャのように。

 ゾラージャは「弱みを見せてもいい」と思えないまま成長しきってしまった。自分のある一部分を徹底的に硬くさせ、そこに対する変化を一切受け入れなかった。だからゾラージャは強かったと言えるだろう。そしてそれはスフェーンも似ている。スフェーンを普通の人間と同列に語ることはとても違和感があるので彼女の存在を普通の人間として語りたくはないのだが、彼女も「家族同様の民を守る」という一点の意思だけを硬くさせていた。ゾラージャもスフェーンも、「凝り固まって」しまった人なのだ。
 そうした頑なな人は強い。だが、とても脆い。「強さ」の定義は様々あるが、そうして凝り固まった人たちはおそらく、しなやかな強さを持った人にいつか敗れるだろう。 

うさちゃん村に行きたかった

 継承の儀が終わり、ストーリーも後半。もったいぶられて気になっていたサカ・トラルにやっと行ける! しかも目指すはエレンヴィルの故郷。仮にそこを「うさちゃん村」と呼ぼう。どんな場所なんだろう。エレンヴィルのお母さんはどんな人なんだろう。そこでどんなストーリー展開になるのだろう。ラケティカ大森林みたいな森だろうか。ギャザラーで採集できるのはどんなものだろう。ああ、楽しみだなあ、うさちゃん村……。
 まったく自覚していなかったのだが、サカ・トラルに足を踏み入れて以降、筆者は上記のようにたいそう「うさちゃん村」への到着を楽しみにしていたようである。ゆえに西部劇パートについては「さっさと終われ」と冷たく思っていた。
 さあ電車が動くぞ、からの行き先に謎のドーム出現。その瞬間筆者はNPCたちの無事や今後の展開などよりも、「えっ……うさちゃん村は……うさちゃん村は!?」とたいそう取り乱した。そしてヘリテージファウンドエリアに到着した瞬間、筆者は膝から崩れ落ちんばかりに落胆した。自分は「うさちゃん村」という目的地(というか新しいエリア)に対して何やら並々ならぬ期待を抱いていたのだと、そこで気付いた。

 力技でドームの中に入る方向となっても、筆者はどこかで期待していた。ラケティカ大森林のような、ヴィエラ族に似合うエリアを。豊かな採集物を。気持ちの良い空を。しかしIDを超えて足を踏み入れた場所は、理想の「うさちゃん村」ではなかった。そこが期待していた「新しいエリア」だなんて思いたくなかった。雷がずっと鳴り響き、画面はずっと暗く、不穏な空気がただよう場所。「平和」や「安寧」という言葉が決して似合わない場所。なんなら別の鏡像世界と融合してしまって、おまけに30年も時間が経ってしまったとかで、とにかくもう、ヘリテージファウンドというエリアに対して筆者が感じるのはただただ「不安」だけであった。その不安を強く強く感じて筆者は自覚した。「ああ、自分は明るくて平和なうさちゃん村に行きたかったのだな」と。
 漆黒のように、ストーリーが進んだらこの雷模様の空が浄化されることはないだろうか……。メインストーリークリア後何度もヘリテージファウンドを訪れているが、そのたびに強くそう思う。ヨカ・トラル同様に広大な大自然を感じられると思ったサカ・トラルの行き先が、まさか雷がやまない薄暗い雰囲気のエリアだなんて……。(シャーローニ荒野という場所には行けたが、あのエリアは「うさちゃん村」とは違うのだ)
 正直、「不安な気持ちになるから行きたくない」とこんなにも思ったエリアは初めてである。雷の霊災、恐るべし。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?