FF14パッチ7.0黄金の遺産(レガシー)プレイ感想その1


はじめに

 この感想文は、筆者がFF14のパッチ7.0「黄金の遺産(レガシー)」のメインストーリーをプレイして感じたことをまとめたものです。ほかにも書きたいことはありますが、まずは最も濃く感じたことを書き散らしてみます。

成長と成熟

 パッチ7.0のメインストーリーは、ウクラマトの「成長」と「成熟」の物語である。
 筆者が高校生の頃、卒業を間近に控えた先輩がこんなことを言っていた。「高校生までは〝成長〟の時間だった。これから先、大学生になって社会人になるということは、〝成熟〟していかなければならないということだ」と。
 成長と成熟――似ているようで異なるそのふたつの言葉の違いと先輩の真意が、その時はわからなかった。けれど、高校時代から幾年を重ねても覚えているこの言葉をメインストーリーのプレイ中にふと思い出し、「ああ、そういうことか」と理解に至った。

 言わずもがな、7.0のメインストーリーは大まかに二部構成だ。トライヨラ連王国の継承者を決める「継承の儀」を行う前半(Lv.95くらいまで)と、そのトライヨラ連王国の領土の一部と世界が交じり合ってしまった「新生アレクサンドリア連王国」の存続に対して新時代の武王ウクラマトがどう対応するのかを描いた後半だ。(対応していたのはほとんどヒカセンと暁メンで、「ウクラマトの対応」との表現はやや誇張だが)
 前半はウクラマトの(正確には4名の継承候補者全員の)「成長」の物語で、後半はウクラマトの「成熟」の物語だと筆者は感じ取った。

成長するウクラマト

 継承の儀が次代の王の器を「選ぶ」ためではなく王の器を「磨く」ために行われたことは、ストーリー内で連王グルージャジャが述べた通り。この継承の儀を通してウクラマトは、「理想の王として堂々たる姿であらねばならない」という虚勢を張ることなく、弱みを見せてもいいことを知った(例:船酔いをするから船が苦手だと言う、見知らぬものは怖いと思うなど)。偉大なグルージャジャ父王から受け継ぐべきものは、なにも「武」と「理」だけでないことを知った。次代の王になるには、トラル大陸にいるあらゆる民族の文化を知り、尊重し、それらを丸ごと守らねばならないことを知った。つまり、ウクラマトという王の器は「成長」したのである。あたかも、平仮名を知らなかった幼稚園児が小学校に入って平仮名を学び、漢字を学び、やがては外国語も学び、社会に出ていくように。

 そうして成長したウクラマトは武王を継いだわけだが、さて、人は「成長」だけしていればいいのだろうか。身長80cmの幼児が成長して180cmの立派な体格になれば、それだけで「人」として完成したことになるだろうか。幼児の頃は読めなかった平仮名が成長したことで読めるようになり、漢字も書けるようになり、外国語ですら少しは読み書きができるようになったら、「立派な大人である」と自他ともに認められるだろうか。
 継承の儀式が終わって物語が後半に入り、スフェーンという理王とやり取りを重ねるウクラマトを見ながら、筆者は思い出した。「この先は成熟していかなければならない」という高校時代の先輩の言葉を。そしてその意味がわかった。

成熟するウクラマト

 正確なシーンは忘れてしまったが、筆者が「ああ、なるほど、こういうことか」と思ったのが、ウクラマトと「連王」という立場を同じにするスフェーンが、ウクラマトの言葉を聞いて「はっ……」とした表情になり、心情に変化があったシーンだ。(たぶんソリューション・ナインをヒカセン含む3人で回っていた時だろうか) そのシーンで筆者が感じたのは、「ウクラマトはスフェーンに影響を与えるほどに〝成熟〟したのだな」ということだった。

 体格や心が成長し、ある程度の知識も身に付けた高校生、あるいは大学生が社会に出ていくと、そこで求められるのは「成長」ではなく「成熟」である。似て非なるこの言葉の違いとはいったいなんだろうか。その答えのひとつが、「他者に影響を与えられること」ではないだろうか。具体的に言うならば、「他者にこれまでの人生で気付き得なかった気付きを与え、意識を変化させ、次の行動にある種の方向性をも与えてしまうこと」、それができる人こそ「成熟した」大人である。それができれば、逆説的にその人は「成熟した」と言える。たとえば、連王グルージャジャは完璧に「成熟した」御仁であった。

 この「他者へ影響を与えられること」というのは、「成長」過程では特段必要ではない。幼児が高校生に「成長」するにあたって、他者に影響を与える必要はまったくない。他者から影響を受けることはあるだろうが、ひとまず自分の事だけに精一杯になっていれば「成長」はできるものである。しかし成長した大人がその先の人生を過ごす中で「成熟」したと認められるためには、他者に何がしかの影響を与えられるほどの知恵、知識、思想、経験、言動、実績、資産などを得て磨いていることが必要になってくる。

 想像してほしい。大学を卒業して大企業に就職した社会人一年目の若造から、「人生で必要なこと」なんてお題目で偉そうに語られて、「わあ、すごい!」と思えるだろうか? 彼のその語りによって自分の意識が変わり、「自分もこうしてみようかな!」なんて思えるだろうか。答えは否だろう。「成熟」していない若造の言葉は、誰にも影響を与えることのできないとても稚拙で未熟なものである。
 ではその語りを行うのが若造などではなく、たとえば起業と倒産と震災と、家族との離別や信じていた人からの裏切り……と、あらゆる人生の山谷、困難を乗り越えてきた老練の経営者ならば? 数多くの経験を積んだ人の言うことならば納得感が大きいし、なかなかに刺激や影響を受けるのではないだろうか。つまり若造と違って、そうした経営者は「成熟」しているわけである。

 継承の儀では当初、弱みを見せることができずに虚勢を張っていたウクラマト。しかし「成長」して武王になったウクラマトは、スフェーンに「気付き」や「影響」を与えられるほどになった。それは言い換えれば、「成熟」したということなのである。(ただし、残念ながらストーリー上では継承の儀からスフェーンとの邂逅までそれほど長い時間が経っているわけではないようなので、「そんな短期間で成熟するか?」というマジレスをしてしまいたいのだが野暮なのでぐっと堪えておく)

成熟した大人の終着点

 上記の感想を書くにあたってスクショを見返していてもうひとつ思ったことがある。「成熟」した大人がさらに行き着くのはいったいどこだろうか? ということである。
 冒頭に述べた筆者の高校時代の先輩はきっと、今頃は立派に成熟されて多くの人に影響を与えていると思う。筆者も、「なるほど!」と誰かに気付きを与えたくて稚拙ながらにもこうして自分の考えのアウトプットを行い、自分の心や思考を整理して磨いているつもりである。
 さて、そうして様々な形で「成熟」――つまり歳を重ねた先、人は最終的にどうなるのだろうか。

 その答えの一例が、クルルの両親だ。クルルの実の父ロボルはためらうクルルにこう言った。「この路でいい、進みなさい」と。
 様々な経験を経て成熟し、人に気付きと影響を与え、一線を退いて死が近くなった時、人はどうなるのか。どうあるべきなのか。答えのひとつとしては、ロボルのように「次の世代の背中を押す」という役割を担うことだろう。あるいは、連王グルージャジャが多くのものを子供たちに託したように「受け渡す」、「引き継ぐ」という役割を果たすことが求められるかもしれない。

「この路でいい、進みなさい」――この台詞は、おそらく「成熟しきった者」にしか言えないことだ。
 あえて意地悪い表現をするが、成熟しきってむしろ死が近い者は、その路を進んだ先で当人がどうなろうが責任はとらない。とらなくていい。なんなら、次世代の者たちが進んだ先でどうなるか結末を見ることもなく自分は死ぬかもしれない。最悪の場合、責任も罪悪感も背負わずに自分だけはこの世界から退場してしまう。成熟しきって死を間近に控えて逃げ切ることが可能な身だからこそ、「進みなさい」と次世代の背中を力強く押せるのだ。(もちろん、あらゆる経験をしてきたからこそ言える台詞でもある)
 前に進むように背中を押してくれて、しかし路を進むヒカセンやエレンヴィルたちの未来を目にすることなく消えてしまったカフキワも、間違いなく「成熟」しきった一人だ。

最後に

 成長と成熟という観点での感想は以上です。ほかにも書き出したい感想はあるのですが、ひとまずこれにて。時間と意欲があればまた書き散らそうと思います。

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