足跡:原体験「アフター留萌」
5歳になる年に幼稚園に入園した。これ以降留萌に預けられるのは学校の長期休みの時だけになる。
留萌での野性味あふれる生活を経験したおかげで、とても内気な病弱な子供に仕上がった。いや、病弱なのは元々で、病院で生まれて、母はさっさと退院しても私は1ヶ月近く入院したままだったそうな。
幼稚園に入った私は早速、なかなかやらかしていたそうで、母は先生から、お母さん様子を見にきてくださいということで何度か呼び出されていたそう。
自分でも覚えているのは、お絵かきや工作や粘土いじりなどの時。お絵かきはお題を与えられるとまずはしばし検討タイム。検討タイムでその日は終わってしまうことも多々あった。感覚としては描くものが決まると、というか覚悟が決まると、一気に息を止めて描き始めるスタイル。この頃描いた一枚が今もたぶんどっかにあるけど、クレヨンの全色を使った全体がマーブル模様のような絵。完全にサイケデリックで今見直すとまぁしっかりとイカれている。
粘土いじりについては、母の証言だと、粘土をひとなでしてはしばし粘土を凝視の繰り返しで、見ていて恐ろしかったそうで。
自分としては粘土をいじるのにあたって、いじる前をキチンとしないと、と。作り始める前に粘土をまずは完全な立方体にしておきたい。その後、粘土を取り分ける際も取った粘土も残った粘土も両方きちんとした立方体にしないといけない。作りたいものがいくつかのパーツに分かれているときは大きい順にきれいに並べないといけないから、これが大変で難しくて。でもやるしかないわけで。球体を作ろうとしたときはそれはそれは大変だったな。まぁ、大抵はこの準備の段階で時間切れ。
これら作業系の授業前や最中はよくトイレに行って吐いていた。お腹が痛くなって寝ていることも多かった。ちなみに体操の時間は楽しかった。英語の授業は全く面白くなかった。
まぁこんな調子だから後にデザイナーになるのも無理もない。
もう一個この頃の話として関係あるかどうかはわからないけど。誕生日とかクリスマスとか、まぁ同じだけど。親からプレゼントをもらうと、中身を取り出すのに数日かかった。
ちょっとうろ覚えなんだけど、母に言わせると、まずは包装紙を剥がしたら紙をきれいに畳んで、貼ってあったシールをきれいに貼り直して。包装紙を持って家の中をしばし練り歩く。その後、中身の箱を持ってまた練り歩いてその日は終了。次の日、箱を開けて、すぐには中身を取り出さないで箱だけ持ってまた練り歩き、中身を持って練り歩き。ようやく中身を出してまた練り歩き、今度は梱包材を持って練り歩き。その数日間はずっと寝る時も全セット枕元に。
う〜ん、やっぱりちょっと変でしたかね。まぁでも親にモノもらって嬉しかったんだと思いますよ。ムショ暮らし長かった訳ですし。
幼稚園以外にも保育園にも時々行っていた。当時はゆるくてなんとなく行くことができた。そういえば留萌でもたまに保育園に行っていた。留萌のは保育園というかまぁ、ただの家に近所の子がちょっと集まるってだけだけど。
それでも留萌の野生児のプライドがあったので、運動は得意だった。運動会のかけっこでは一番を取った。
そんな調子で小学校に上がり、はじめて触れた楽しいものに出会った。早速鍵っ子だったこともあったので、学校から帰るとすぐにその楽しいことにお家で一人没頭した。おかげで学校の勉強は全く問題なかった。
小学校では今で言う学童に入っていたんだけど、同学年がいなかったのでとてもつまらなかった。そんな中、担任の先生は授業が終わるといろんな作業を教室でやっていた。みんなが帰って一人教室で先生が作業してるんだけど、私は学童に行きたくないので、ずっと先生の作業を見ていて、その内手伝うようになった。ポスターを作ったり、授業で使う小道具を作ったり。
先生はとてもよくしてくれて、いろんなことを教えてくれた。クラスでは背が高い方だったのに、背の順に並ぶのもなにをやるのもいつも先頭。クラス代表みたいなものになっていた。
この先生の特別レッスンと自宅での自習で随分と頭が良くなった気がしている。のちに学校の成績はジェットコースターのような浮き沈みを経験するんだけど、勉強に関する原点はこの1〜2年生の時にあった気がしている。
そういえば後に高校ぐらいまで続くひとつの現象があって。
主に歩き始めるときとか、何かしらの手作業を始める時。例えば右足から歩き始めた場合、今度は左足からも歩き始めないと不公平だと思い、足をスキップして入れ替える。でもそれだけだと右→左の1工程なので、今度は左→右もやらないといけない。私の場合、右→左の次に左→右、をやったあと、左→右の次に右→左。大体ワンクールやるのに16歩かかる。はたから見るとやたらスキップして歩いている変なおじさんに見えたと思う。おじさんではないけど。それに右に曲がったり左に曲がったりするのも混ざるので、なかなか目的地にたどり着かない。室内とか近距離だと特に難しかった。それでも家で一人でいることが多かったのでいい時間潰しにはなってたかもしれない。
この状況をシンメトリーコンプレックスと呼ぶのを知ったのはだいぶ大人になってから。
こんな感じだとさぞやイカれた仕上がりにと思われそうだけど、小学校後半ぐらいから普通に人々の暮らしに馴染んで、いい感じにクソガキになって、いい感じに勉強が嫌いになって。
まぁでも恥ずかしながらイヤなガキだったとは思う。たぶん結構嫌われていた。友達も少なかったし、その友達にも色々メンドくさいことを言ったりやったりして、恥ずかしく振り返る。いやもちろん、いじめとかケンカとかには無縁。なんならいじめられる方に属していたと思うけど、体は弱いけど運動神経がいいのと、あと気が強かったのでいじめられることはなかった。
長くなるので続く。
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