見出し画像

思い出の時効

日本への帰国が迫ってきた。正直僕は日本よりもイタリアの方が合っているんじゃないかとすら感じるほどに、イタリアでの生活は楽しかった。

そんなわけで絶賛逆ホームシックに陥っていた僕を見兼ねた友人がこの前「google earthで東京散歩しようぜ!」という提案をしてきた。

なんだか楽しそうだったので僕はその提案にとりあえず乗ってみた。


7年間通った大学、休日に読書してた公園のベンチ、可愛い店員さんがいた神保町の古本屋、etc
一年ぶりにみた画面越しの東京は僕が知っているものと何一つ変わっていなかった。

僕は不思議な感覚に陥った。僕はこの1年間で内的にも外的にも劇的な変化を経験したのに、この東京という街は僕がイタリアに行く前から何一つ変わっていないのだ。

東京という大きな記憶媒体が「一年前の僕」を保存していて、それを久しぶりにディスプレイに繋いで再生してみたかのようだった。

一年前の僕は自分以外のことどころか自分のことすら何も考えていなかった。大好きな彼女がいて、お金の心配もなかった。

幸福であるための秘訣は馬鹿になること、なんて言葉をどこかで聞いたことがあるが逆だと思う。幸福が人を馬鹿にするのだ。

幸福だった頃、もとい馬鹿だった頃の自分をディスプレイ越しに見ながら、僕はなんて多くのことを忘れていたのだろうと驚いた。それと同時に、東京での思い出は楽しいことばかりだったのに、それを思い出すのは何故こんなにも全然楽しくないのかと不思議に思った。

理由はすぐに分かった。僕はこの1年間で自分の夢の為に捨てたものを東京に見て、自分のしでかしたことの重大さを思い出し、罪悪感に苛まれているのだ。 


思い出したくなかった。僕はまだこの罪悪感に苛まれなくてはいけないのか。  

自業自得なのに勝手に自罰に浸って許しを乞う自分が卑しくて嫌いだ。

いつまでこの感情を抱えて生きればいいのかと考えると絶望すら覚える。だが、解放されたいとも思えない。この思い出を完全に忘れたとき、人として最低限の何かが僕の中で失われる気がするからだ。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?