みんなのフォトギャラリー公開 初夏の花たち3
一気に猛暑ですね。
先週分のInstagram投稿語りのまとめです。
【信念】
ネットに載った知識や情報なら
いつでもどこからでもアクセスできる。
これだけ知識がオープンになれば、
理屈とは、誰の意見にも差がでない
もはや究極のコモディティ(汎用品)です。
個性的な理屈は、むしろ屁理屈と呼ばれる。
それくらい理屈は当たり前のものです。
人の道に外れるようなことは駄目ですが、
理屈をただこねくり回すことは、もう
皆がみなやらなくてもいい世界が
そこまで来ていると思います。
なにを信じて生きていくかは、
人からとやかく言われることでは無いし、
人の目を気にするものでもない。
そんな糠のようなものを
研いで研いで芯に残った信念が、
人生の味わいを純粋にする。
そうなれば、命に生きる喜びが還ってくる。
私はそう信じます。
だから写信家のシンは、信なんです。
【信頼】
人やものが、いちいち確認せずとも
全面的に依存しようと信じられることは
たいへん有益なことですね。
パソコンの中身がどうなっているのか、とか
自動車がどうして快適に移動できるのか、とか
いちいち確認する人は限られるでしょう。
信頼は多くの人の時間を節約でき、
時間の使い途を豊かにしてくれました。
ただ、機械的に同じことをたくさんできる信頼は
(信頼性は)、もはや人の手で処理する限界を通り越し、
機械化、自動化しなければ不経済です。
この辺はITやAIが得意な領域です。
では、人間にはどんな信頼を寄せたらいいのか。
そう考えたとき、ITやAIと同じことを
人間に頼ろうとは思わないと思うんです。
人を人として信頼するというのは、
その人と心理的に共感することが
できるかどうかだと思います。
そしてSNSやYoutubeでは、
共感の力で人同士が繋がりあっています。
これからますます、人は共感力に推移して
人としての営みを繋いでいくのではないかと
思います。
【絆】
絆はどこから生まれるか、という話。
絆とは、自然に生じる一体感、とあります。
自然の結果としてできた絆だから、
助け合いとか温かい声掛けが自然に起きる。
日本で一時「絆」がブームになりました。
「絆を結ぼう」とか「日本はひとつ」などの
掛け声が連呼されていたのを覚えています。
ある出来事をきっかけに、
絆をつくろうという掛け声が今更あがるのは
何故だろうと思うわけです。
確かに人は、一人では生きていけません。
絆が必要なことは情緒的にも理解します。
だからといって、人から絆に誘われたり、
国を一括りにしようとする掛け声には、
論理的な疑問が湧いてきます。
どうしてそこに連れていこうとするのか、
個人の意見はどう受け入れられるのか。
個人のための集団か、集団のための個人か。
集団を動かそうとする掛け声に接した時、
この二つの視点でバランスをとり
自分の考えが流されないようにしています。
【幸運に】
幸運をつかむのに必要なものは、
知識より行動ではないかという話。
幸運に恵まれた人を羨ましいと
思う気持ちは抑えきれませんね。
その人が運をつかむ備えを怠らなかった、と
わかっていても、自分だってそれほど
怠けているわけではありませんから。
人の生き方が多様になってくると
単に誰かの真似をするだけでは
再現性がないように思われます。
昔に比べてロールモデルや理想像を
つかみづらい時代なのだと思います。
一方で、公知の情報を得るだけなら
昔ほど時間を使わない時代です。
昔は長い時間をかけて学習したり、
その場にいって見るしかなかったことが、
たいてい手元の道具で得られます。
ここに運の差はほとんどありません。
だとすると、知識や情報を得ることに
ただ励んでも、運には恵まれないように
思われます。
そこに使っていた時間の使い方を変えて、
現地現物で一次情報を取材に行ったり、
新しい情報を発信して反応を得たりする。
そうした行動をきっかけに引き起こる
人間関係の化学反応から幸運をつかむ。
そんな環境に変わってきているのかなと
Instagramをやって思い始めました。
【悪戯】
本人に悪意のない悪戯は扱いに困りますが、
その行いに迷惑をしている人がいることは
本人に教えたほうがいいのでしょうね。
年齢にもよりますが、だいたいは
知らないだけではないでしょうか。
本人に迷惑をかける意図がなければ
行いに気づいて改めることができます。
良識を会得する機会にもなります。
知識社会は、知らないことに対して
しばしば厳しくあしらうむきが
あるように思います。
そして、無知を馬鹿にされないかという
不安が慢性的なストレスになって
生きづらくなっていってないかと
気になります。
命に関わること
他人を傷つけてはいけないこと
これらは必ず知らなければなりませんが、
それ以外の無知に対しては、
もう少し寛大に受けとめるほうが
成長しやすく、生きていきやすいのでは
ないかなと思います。
自分に知識がないことを自覚することを
「無知の知」と言いますが、
他人にも知識がないことを自覚して
普段の行動にゆとりをもてたら、
少し暮らしやすくなるんじゃないかなと
思います。
【優雅】
優雅だと言う時は、
ただ見た目のことではなく
行動や立ちふるまいを
言い表すようです。
そしてその行動に、節度があること。
節度とは、自分の欲でしたいことを
人の迷惑にならないよう調節すること。
節度は、この豊かな時代を迎え、
人間の力が増し増しになるなかで
いよいよ試される能力でしょう。
人間が持てる力を抑えきれなかった、
残念な歴史は枚挙に暇がありません。
自分さえ良ければ、とか
人より抜きん出て、というのでは
優雅とはほど遠い。
結果的に格差が生じることは甘受しても、
初めから格差を目指す人は優雅ではない。
かなり貧乏くさい行動だと思います。
他者に配慮し、
良識を持ったふるまいに対して
優雅だという表現を使いたいですね。
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