見出し画像

Please God, Let Me Play Again

2021年3月15日
朝起きていきなり飛び込んだ訃報に心底驚き心乱された僕は、仕事が手につかなくなり今日一日の作業を諦める事にした。作業を中断して、本を読んだり映画を見てみるも全然頭に入ってこない。花粉のせいか涙もひどい。

しょうがないから文章を書く事にした。



音楽家なんだから音で表現しろって叱られるのかな。
でもこのやり方が、今のオレらしいのかな。



村上"ポンタ"秀一という人は、
音楽の前ではどんな人にも本当に対等で、愛を持って真摯に向き合う人だ。
それが、一流のプロでも若者でもアマチュアミュージシャンでも。
だから日本中のミュージシャンみんなが、ポンさんとの想い出を沢山持っている。
僕もその中の一人だ。



15.6年程前か。
まだポンさんが酒を浴びるほど飲んでいた末期の頃、よく飲みに連れて行って頂いた。
とある高級住宅街の中の、古い民家にしか見えない一軒家。看板も出ていないのに中に入ると、そこは狭いが洒落たバーになっていて、中には超ビンテージオーディオと秘蔵のレコードが一杯。スクリーンを下ろして、戦前のボリショイバレエ団の白黒フィルムや、何十年前の落語のフィルム、小澤征爾のウイーンフィルニューイヤーコンサートを見せられながら、
「裕介は自分の音楽をやった方がいい」と、言われた。
そして程なく僕は、当時の仲間と超実験的なトリオバンドを始めた。



失礼ながら当時は、過度の飲酒で演奏がままならない事も正直多く、
おそらくご本人にもその自覚はあったのだろう。
ある日群馬での本番が終わり、いつもの如く朝まで飲んでた中、
突然真顔で僕に向かいこう言ったのを強烈に覚えている。

「オレ、もう一回叩きたいんだよ...」

もう一回、の言葉がどれほど重い意味を持つのか。
そこに思いが至った時、涙を堪える事が出来なかった。


数ヶ月後そのトリオバンドのライブを、どこから情報を得たのか、
何の予告も無くポンさんは見に来てくれた。
ニューアルバムのマスタリング帰りだという。
そしてマスタリングしたての、その貴重なマスター盤をオレにくれた。


「Rhythm Designer」と名付けられたそのアルバムのサウンドは、当時の僕の音楽の志向性と絶妙にリンクし、勝手ながらシンクロニシティを感じずにはいられなかった。

そして13曲目、
アルバム最後の美しいバラードを聞き終え、
その曲のタイトルを見た時、
僕はまた涙を堪える事が出来なかったのだ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?