自分にも、「ありがとう」
「自分は自分で他人は他人」
あるいは
「我思う、故に我あり」
そういう人間観も、ある側面から見れば正しいんだと思う。
どういう側面か?
それは
社会的最小単位の個人としての側面。
客体としての私。
でも、一方で私は主体として存在している。
主体としての「私」を考えたとき、
「私」は「あなた」なしには存在し得ない。
主体は、客体なしには存在し得ないから。
だから、「君あり、故に我あり」
「私」を取り巻く様々な存在に、ありがとう。
主体としての「私」とは何か?
それは、現れては消えていく光。
夜に眠り、朝に起きるまでの間
主体としての「私」は消える。
夜に眠り、朝に起きるまでの間
「私」の身体はそこに横たわっているけれども
主体としての「私」はそこにはいない。
「私」の身体は必ずしも思い通りにならない。
「止まれ」と命令しても心臓は止まらないし、
「緊張するな」と命令しても鼓動は早いまま。
だから、「私」の身体は「私」じゃない。
主体としての「私」も、
「私」の身体も、
いつか返す借り物。
「私」もまた、他者である。
だからこそ、
自分自身にも「ありがとう」
自分の身体も、ゆっくり癒そう
自分自身に感謝することは、
他者に感謝するための第一歩。
自分自身を赦すことは、
他者を赦すための第一歩。
いつか私が死ぬとき、
きっと、
「私」がいなくなるのは初めてじゃない。
そう思うのだろう。
忘れたくないけど、
忘れがちになることだから、
ここに書き留めておきます。
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