☆ "瞬間"を剥がす。 さらに分割し剥がす。 また分割し、、、 ★☆☆

今を、今の瞬間と次の瞬間の二つにわける
今の瞬間を、この瞬間と次の瞬間にわける
さらに、この瞬間を前半分の瞬間と残りの瞬間にわける
何かが、薄くなっていくような気がする
もっと、もっと、わけていくと
そこには、何もないのだろうか

子供の頃、ある絵本を見て、理解できずに
今でも、頭に引っ掛かっていることがある
全体のストーリーは思い出せないが、その見開きのページでは
確か、、、
羊がいっぱいいる大草原に、夕焼け空が広がり始めている
おじいさんの羊飼いが岩に腰をおろし、子供と話をしているのだ
「この草原の夕焼けの眺めは、一番好きだよ。世界中でここにしかない
からね」
「ぼくもそう思う」
「時間というものは、空間の入れ物なんだよ。夕日もよく見ておかないと すぐ消えちゃうからね」
「うん、、」
大概、こんな場面だったと思う
ここでおじいさんが言う「時間は、空間の入れ物」ということが、さっぱりわからず、今まできてしまった。

草原の景色は、時間とともに、うつろい変わっていく
奥行きのある今の景色、空間が変わっていく
瞬間、瞬間、違う景色になっていく
そう考えれば、多少わかるような気もしてくる
一瞬の中に、その景色の広がりがあって
次の瞬間の中に、別の景色と別の広がりがある
空間は、時間の関数ということにもなるのだろうか、、、
なるほど、そうすると
この世界は、三次元の立体世界に
時間の流れの要素を加えた4次元とも言われる時空間ということに
うなずけてくる
それでも、釈然としないものが残る

ここで、今の瞬間をどんどん分割し剥がしていくということは、
思考上、一旦時間の流れを仮止めし、ある一点の瞬間の事象の内部へ
分けいっていく、ということになりそうだ
大きさのない究極の一点の瞬間には何があるのだろうか

サルは、玉ねぎを与えられると、どんどんむき続けて、困惑するそうだ
最後には、玉ねぎを放り出すか、勢い余ってかぶりつく
ヒトは、なにかを疑問に思うと、頭のなかのヨゴレのようになって
ほおっておくのは、気分が良くない
だから、バカなくせに、さらに無理して考える、、、

時間の幅のない、もはや分割できない究極の一瞬は
時間の流れのない無い、無限に小さい一点となる
そこでは、景色、空間は成立しないのではないか、認識できないのではないかと、、、
人体に備わる、光、景色を認識する視覚の仕組みには、限界がある
時間の流れがなければ、眼球から脳への信号の送信も止まり、ヒトの脳の活動も停止するのだから、、、
しかし、元へもどれば、時間という概念も、物理的な世界で
ヒトが勝手につくった時計というモノで測る観念である

ヒトが思考する世界で、時間の幅のない一点で
全てが停止していると言わざるをえない状況においても
残ってるものはあるのではないだろうか
表現を替えれば、
そもそも、ヒトの思考以前からあるものは、そのままあるはずだ
確固として、リアルに存在するものがあるはずだ
そうでなければ、意識している世界、意識されているこの世界は
時間の停止とともに、消失するだろう、、、 

ヒトが、頭のなかで、時間の流れというとものをつくりだし
瞬間を分割するなどと言いだす前から、あるものは、あるのだろう

それは、はじめからあるものであり、今でもあるものでなければならない。
結局、『わたし』という意識を含む意識だ
時間を分割するとか、時間の幅のない一点とか、タワゴトを含め
それら全部を包括して、超越して、綿々と存在する意識、、、
これ、この意識だ

『わたし』という意識 、さらに、この意識を内包する大きな意識
『わたし』がいる、という意識、さらに、この意識を抱擁する大きな意識
なぜなら、『わたし』は無数にいるから、、、
今を感じる意識
『わたし』は感じる、
『わたし』はここにいる、という今を感じる意識
「Consciousness of me being 」
そうだ。きっと、、、

ひるがえってみれば
この『わたし』がいて、この世界が存在するのかもしれない
この『わたし』がいるから、この世界があるのだろう
この『わたし』がいなかったら、この世界は認識されず、存在しない
ならば、この世界は、『わたし』の固有の世界と言えるのではないか
この世界は、『わたし』に専属する無二の世界なのだ
この世界は、『わたし』が主人 Lord である世界なのだ
きっと、そうだ
違いない
、、、


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