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『愛について アイデンティティと欲望の政治学』竹村和子著(岩波書店) 第5章〈普遍〉でなく〈正義〉を レジュメ

要約

発話のアポーリア

・スピヴァックの1980年代の関心は、文学や文学研究の非政治性や非歴史性を否定し、そこに刻まれている「価値をめぐる問題」の表象権力を明らかにすることに向かっていた。
・スピヴァックは70年代にデリダの『グラマトロジー』を英訳、序文を付して脱構築の旗手として目されていた。
・デリダの思想を使いつつ、脱構築にとって水と油のような正義の問題について格闘しようとしたのがスピヴァックだ。
「正義の始まりは、すでにロゴス、つまり言語活動または言語があるだろう」というデリダの言葉を予測するかたちで。
・スピヴァックが問題にするのは表象権力、つまり発話の可能性についてである。
・差異化そのものがすでに植民地主義と性差別に汚染されている。
・スピヴァックは主体がその存在証明のために他者を生産しようとする欲望を、デリダが「一般的な問題ではなく、あくまでヨーロッパの問題」とみなしたことに着目する。
・帝国主体の歴史記述の、「歴史の≪他者≫に引き渡さななければならない」空白は、どのように充当されるうるのか。
→テクストの空白は、帝国主体とサバルタンの権力内布置によってもたらされる。
※サバルタンの声の議論から一転して、「わたしたち」(帝国主体)のなかの他者の声にすり替えられている。
・テクストの空白を充当するはずの「歴史の≪他者≫」は「わたしたちのなかの内なる他者」となってしまった。
・『スピヴック読本』の編者ドナ・ランドリーとジェラルド・マクリーンは、スピヴァックの本領を4つに公式化し、第1に「自分が学んだ特権を自分の損失として忘れ去ること」を挙げる。
・ここでは「特権」は皮肉な意味で用いられる。特権こそ、わたしたちが≪他者≫の知を得ることを阻んでいるもの、と解説する。
・「サバルタン」という語は「概念-比喩」となり、「永遠に後退する可能性の地平」となって、サバルタンは消滅するどころか、増加し続ける皮肉が生まれる可能性もある。
・スピヴァックの論文の問題提起hが、対抗言説がかならず直面する困難さを示すものでもある。

共通性と差異

・「サバルタン・トーク」で明確にした点は「語る」ことは「物が言える」こととまったく同じではない。
・発話行為な成立条件は語ることと聞くことの2つであるが、90年代になってスピヴァックの強調するのは、「聞くこと」の方である。
・サバルタンの沈黙化の原因は、サバルタンが語りうるかどうかという点にあるのではなく、サバルタンの声が聞かれうるかどうかという点にある。
・レイ・チョウは、「語る」ことと「聞く」ことの間の権力関係を、「正当性/正当化」の問題だと述べた。
・語ること正当性/語る内容の正当性こそ、「ネイティブ」が帝国主義に出会うことによって、決定的に破壊されてきたものである。
・この絶望的な「出口なし」を断ち切る可能性があるとすれば、語る者こそが聞くことではないだろうか。
・サバルタンはサバルタンである限り、「純粋なサバルタン」はいない。
→副次的な位置は、主たる位置を前提にしたものである、サバルタンは主たる文化にすでに「邂逅している」からである。
・スピヴァックは「翻訳の政治」という論文のなかで「応答責任ある翻訳を通じて共通性を辿ることによって、私たちはさまざまな差異の領域や、相異なる差異化作用に入ってくことができる」と述べている。
・「共通性」は次のようなものであると考えられる。
➀共通性は差異の領域に入るための一種の触媒であること。
②「共通性」は共通善への楽観的な志向ではないこと。
③ひとつの「共通性」は別の種類の抑圧を覆い隠す場合があること。
したがって④「共通性に」よって可視化される差異は、差異の脱構築をかならず伴うこと。
・共通性は異なった文化が静態的に重なりあう共約可能性ではなく、複層化した差異を際立たせ、あるときは差異を埋没させるものである。
・共通性は、差異を差別を導いたり、差異を抑圧する内部暴力を秘匿しているものであり、つねに暫定的なものとして取り扱わなければならない。

汚染されれている普遍

・アイリス・マリオン・ヤング著の『正義および差異の政治』で、集団的差異が声を発することができ、またその声の集団内部の個人を代表しうるという正義が履行されるシステムを主張。
・ナンシー・フレイザーは差異が「肯定」されるのではなく、根本的に「変容」される「脱構築的」で「社会主義的」なプロジェクトこそが重要で、ヤングが見落としていると反撃する。
・そもそも問題は言説的で象徴的な差異が個人の身体として物質化され、社会化される仕組みのなかで、不正義が発生していることである。
・スピヴァックがが批判したような「他者に語らせながら、他者を占有する」という「透明な知識人」に逆戻りするものとなる。
・ヤングは差異が併存しうる異質な「公衆」を志向するためには、各集団の「自己組織」、「代表制」が必要だと述べるが、抑圧されている集団の声がどのように「聞かれうるのか」という点で楽観的だ。
・むしろ集団の「自己組織化」や「代表制」を通して主張される差異がはたして集団の内部でさえ、恒常的で普遍的な差異であるのか?
・ジュディス・バトラーは「共通性」と「差異」の往還について。普遍と個別という言葉を使って考察し始めた。
・コミュニケーションを可能にさせると思われいる普遍は、局所的差異を横断する超越的なものと考えられている。
・しかしバトラーはヘーゲルの『精神現象学』を再読しつつ、ヘーゲルの普遍概念はこの超越性を否定しているという。
・普遍はかならず具体を介して顕現するが、普遍は局所化・個人かされて普遍ではなくなる。個人の普遍化行為は、普遍という抽象的な形式を遵守するほど「形が崩れた」もの、「形を崩す」ものになる。
・普遍はますます「抽象的な自己意識」となり、ますます個人の普遍化行為を困難にしていく。
・普遍の形式生を維持するには、つねに個別的で具体的な事例のなかで再画定されることを認識しなければならない。
・バトラーが着目しているのは、この普遍の行為遂行的な性質であり、ここに民主主義の希望を置かれている。
・バトラーが焦点を当てているのは、普遍と個別のあいだに不安定で相互依存的な進行中の反復関係であり、普遍のダイナミックな変容の可能性を見る。
・プロセスを通じて、旧来の普遍の意味やそれを支えているシステムが確定ではなくて、いかがわしいものであるか示していくことである。
・バトラーは普遍を再定義するにあたって、「形が崩れた」もの、「形を崩すもの」を見逃さない。
・オルタナティヴな普遍の再構築という正義の場面に、不気味なもの、馴化しえない感情が必ず組み込まれていることを暗示する。
・普遍の再構築だけでなく、その再構築がはらむ制御不能性に目をむけておかなくてならない。

狂気の再演


・オルタナティヴな普遍が立ち上がったならば、その象徴界は表象不可能性とどのような関係を持つか。
・エルネスト・ラクラウは
➀システムの全体性は表象不能なもの、異質なものを不可避的に内包している。
②表象可能性を標榜する言語システムは異質なものをなんとかして表象しなければならない。
しかし③当然それは、表象不能なものの表象となり、「比喩による置き換え」によってしか成立しない表象となる。
・現実界は表象不能性や空虚な場所を指し示す「名前」であるだけではなく、名づけえないものを名付けようとする「試み」でもあり、現実界はこの2つを示している。
・ラクラウは「試み」を「裂け目を縫い合わせようとする比喩形象」だと述べる。
・ヘゲモニーは、意味作用を攪乱させる現実界と比喩的置き換えによる現実界の表象の試みの、2つによって構成されているとラクラウは言う。
・求めるべきものは、名づけえないものを名付けようとする「倫理的ふるまい」によって「たでぃかるに脱文脈化する」ことであり、絶対と詐称された「規範的/記述的な秩序」を歴史の文脈の中に位置づけ、解放を想像することができる。
・正義が表象可能なシステムの内部で、そこで共有されている方に依拠して履行されるなら、その手続きは法の内部ですでに認可された適切なプロセスにそって進められる。
・正義が要求されるのは、語る正当性を奪われ、声を聞いてもらえないものが、その放逐の不正義を放逐された場所から声をあげるときだ。
・語りえぬものの怒りとして発せられる正義への訴えかけは、言説化を求めながらも、狂気をその中に含むものとなる。
・正義はいつも一種の狂気の瞬間として、経験される。
・バトラーはラクラウとジジェク往還論文の最後を、言語の「非超越性」で結んだ。
・言語は、それが伝える真実を打ち立てるだけでなく。それがいとしていたのとは違う真実も伝えるがゆえに、普遍は再演され続ける。
・普遍の舞台で繰り返し上演されるのは、普遍そのものでなく、狂気であり、もっと正確言えば普遍を演じる狂気の挫折であり、挫折した怒りが発する正義への訴えかけではないだろうか。

論点

☆サバルタンの声をわたしは聞くことができるのか。
☆普遍と個別の事象を行き来することはできるのか。
☆狂気と怒りの違い。

                       レジュメ作成:柳ヶ瀬舞

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