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『女が国家を裏切るとき』 序章・第一部レジュメ

『女が国家を裏切るとき――女学生、一葉、吉屋信子』 管聡子(岩波書店,2011)

序章 文学的感傷と暴力――高橋しん『最終兵器彼女』を読む

『最終兵器彼女』は青年誌『ビックコミックスピリッツ』(小学館)で2000年から2001にかけて連載された人気マンガ。のちにTVアニメ化、ゲーム化、アニメ映画化、実写映画化、ノベライズ化。

「初恋のとまどいや切なさ、敵の攻撃に寄る家族や友人の喪失など、切々と展開されるこの物語の〈感傷〉的側面は、先述したように「ちせ」自身が物語中最強の暴力の主体であることを隠蔽する。そしてこのような〈感傷〉の機能こそ〈大東亜戦争〉下で、吉屋信子を代表とする女性文学において同様の機能を果たしたものであった」(p.9)

「物語のリリシズムはともすれば、彼女自身が暴力の主体であるという側面を隠蔽し、犠牲者としての彼女のみを前景化する」(p.9)

「種々のメディアを通して、『最終兵器彼女』が構造化する女性ジェンダーの暴力的消費は、膨大な数の人々によって「泣ける物語」として受容された。このことが示唆するのは、「泣ける」という〈感傷〉を共有する共同体は、その〈感傷〉が〈暴力〉と接続され結託したときに、〈感傷〉の側面によって〈暴力〉を隠蔽しながら、自己を正当化し、そしてまさに〈暴力〉の行使を担い継続するという事実である」(p.11 強調引用者)

←文学的感傷の機制という視点から書かれた『女が国家を裏切るとき』。


第Ⅰ部 明治日本国家が国民国家として自己形成するなか、どのようなジェンダー配備があったか。具体例:学問する女と娼妓の女の表象

第Ⅱ部 表現主体としての樋口一葉論。特に近代における女性性を担うものとしての和歌と日清戦争

第Ⅲ部 吉屋信子の文学 吉屋が貫いた女性同士の絆への信頼が、帝国の欲望にかいしゅされていくさまを、〈感傷〉に留意しつつ論じる。


第Ⅰ部国民化する/される女たち――明治期の女子教育の軌跡

第一章 学問か器量か――彼女たちの受難

1 〈学問〉する女のイメージ

豊原国周による『当世開花別品競』の「女子師範学校」という浮世絵

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「明治近代の一つの象徴としての女子師範学校生、すなわち〈学問する女性〉の風俗を描いてはいるが、(中略)別の意味が浮上してくる」(p.19)

「女子師範学校生とみすぼらしい黒犬の視線をぶつかり合わせたこの構図は、その結果、両者の存在をパラレルなものとして提示し、学問する女性の姿を暗に諷しているわけである」(p.19)

明治5年(1872年)学制頒布→明治日本における近代教育の歩みの始まり。

しかし中村正直、田中不二磨などの言葉で、明治30年代に至るまで「「良妻賢母主義」の色彩を鮮明にする」(p.20)

「女性師範学校生」観→服装からして質素で、卒業したら先生となり各地に赴任する、志を立てて学問に従事していた人たち

『新稿日本女性史』「女が師範学校に入って学問するのは、要望が悪いか、経済的貧困であるか、何かの欠陥がある女性のように考えられ、師範学校に入学することを出家でもするように思われ「女子師範さて縁遠い顔ばかり」(唐変木)と皮肉られた」(p.23) 揶揄や嘲りが一定方向を向いていた。

明治30年代における女学生バッシング→女学生の性的堕落について

小杉天外『魔風恋風』(1903年)が代表的なベストセラーに。

「明治10年代の政治小説においては、女子の学問・教育は(中略)積極的な要件であった。政治小説が後退する20年代以降は、政治参画という視点から女子の学問への要請は、少なくとも小説においては、ほとんどその影を潜める。」(p.25)

「また視点を転じれば、明治20年代は(中略)多くの女性作家を輩出した時期であった。(中略)先端の女子教育の恩恵を蒙った経験を持っているからである。」(p.25)

以下。女性の教育・学問をめぐる言説が小説テクストにどのような文脈をを形成したか。

2 教育という新しい抑圧

末広鉄腸『雪中梅』(1886年)のヒロイン富永春 「女子の教育・学問への情熱は、「男子を助け、欧米諸国と肩を並べる様にする」ために必要とされる、新時代を担う男性の妻の条件なのである」(p.27)

しかし排除の力学も伴う。北田薄氷『鬼千疋』(1895)のお秋は小姑に学がないことを責められ、姑と小姑にいびられて庭の井戸に身を投げたことを暗示し、物語が終わる。

樋口一葉『十三夜』(1895年)も教育のないことを嘆く妻・お関の姿を書いている。「(夫の)勇が求めているのは新時代の女性教育を受けた良妻賢母なのであり、「教育」をキーワードにした二人の認識には大きなずれがある」(p.29)

『鬼千疋』のお秋、『十三夜』お関はともに新時代の教育は受けていなかったが、美貌の妻たち。それからも排除されているのが尾崎紅葉の『袖時雨』(1894)の不器量なお敏だ。「妻の実家の援助によって学問を修め、出世を遂げた夫が、その暁には妻を離縁してしまうという事態は(中略)明治期の家父長制度の問題がある」(p.31)

山田美妙『嫁入り支度に 教師三昧』(1890年)は女子師範学校・容貌・嫁き遅れを組み合わせた作品。「このテクストは「女教師」をとりまく視線に潜在する嘲笑を前景化して見せている」(p.33)

「女子の学問・教育に対する不信のみならず、「教育」と「醜貌」といった記号の連繋が自ら形成する一つの文脈も、その多くは女性自身によって語られる。」(p.34 強調引用者)

次節 坪内逍遥『細君』、泉鏡花『X蟷螂鰒鉄道』から読み取れる女性同士の関係性に着目。

3 「あんな学問をしていなかつたら……」

「(清水)紫琴は第1節でふれたようなこの時期の女学生への攻撃に抗して書かれたものと考えられるが、実際のところ、女学校から外の世界へと出、結婚生活に入った、元女学生は、学問・教育とは別の評価軸において批判にさらされるねばならなかった」(p.35 強調引用者)

坪内逍遥『細君』(1889)「女学生上りの妻」のお種。「お種をめぐる噂はすべて同性の口から語られており、それらは何らかの形で彼女の「教育」「学問」、あるいは「女書生」あがりといったことに収斂するような文脈を形づくっている。だが一方、お種自身の言葉にはこれら記号に対応するような発言はまったくみられない」(p.38) 「記号だけでしかお種を語ろうとしない女性たちのに対して、(小間使いの少女)お園ただ一人だけが、本当の意味でお種を見ていた。」(p.39) 「いわばお園の死は、女性同士の関係性から排除された「細君」の孤独よってもたらされていたのである。」(p.39~40 強調引用者)

泉鏡花『X蟷螂鰒鉄道』(1896~97) 女学校を出て妻になった山科品子と作家になった畠山須賀子の会話がテクストを占め、須賀子の小説「X」についての言葉の断片によって、テクストの空白を読者は埋めねばならない。「その身につけた「学問」に不釣り合いな品子の現状、という把握のしかたは、やはり「学問」という枠組みによって外部から現在の品子を規定する視線である」(p.42 強調引用者)

島崎藤村『老嬢』(1903) 「学問を修め、一時は女学校の教頭までつとめながら、独身主義と恋の間で葛藤したあげくに「私生の児」を産み、失い、最後は狂気の姿を見せる「老嬢のなれはて」を描いている」(p.43)

「女子教育は女性たちに「新しい知恵」をあたえ、「精神の自由」を獲得させる。この真実こそは、時代の言説や国家の欲望と交錯しつつも、女性たちが自らの可能性を信じうるよりどころとして、現在にいたるまでその意義を失ったことはないからである」(p.44)



第二章 「教育勅語」と女学生――東京女子高等師範学校を事例として

はじめに

「明治8年(1875年)、日本最初の〈官立〉女子教育機関として東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)は設立された。(中略)明治日本が近代国家国民として自己形成していくにあたり、急務とされていたのが国民教育の確立であり、それに際して、次代の小国民の教育を担う役割が女性に付されていたことはまず明確にしている」(p.47)

東京女子師範学校→明治18年(1885年)東京師範学校に合併され東京女子師範学校女子部→1886年高等師範学校女子部に昇格→明治23年(1890年)に女子高等師範学校に独立。「単なる教育育成機関の位置をこえて、学問に志を持つ女性たちふぁ全国から集う、女性のための唯一の最高学府となった」(p.48)

近代日本において「国家有用の人材」とはすなわち何を意味したのか。

「明治の〈学問〉する女性として、女性の教育に対する種々の攻撃と戦わねばならなかった。(中略)〈官立〉ゆえに「教育勅語」の遵守をはじめとする国家との連携に与しなくてはいけなかったことも事実である」(p.48~49)→キーターム・明治天皇皇后・美子教育勅語日清戦争の三点と東京女子高等師範学校との関連を見る。

1 皇后さまの女子カレッジ

大正4年(1915年)、開校40周年記念式典挙行に際し、東京女子高等師範学校には「明治記念室」が設立される。「まさに明治という国家のなかの同校の位置とアイデンティティの自認を示すものである」(p.50)

明治10年(1877年)クララ・ホイットニーの日記「母に皇后様の女子カレッジの勤め口の話があったが、それは、今まで外国人の婦人が勤めたことのない所(=東京女子高等師範学校)である」

美子皇后は開校式から明治45年(1911年)6月3日まで12回の行啓。開校にあたり、「御内庫金5千円」を下賜。和歌を下賜。「学問を奨励し、切磋琢磨を要求するこの歌は、同時に女性たちが本来「玉」や「かがみ」であることを前提としている。すなわち女性たちが可能性と能力を潜在させた存在であることを確信し、そのうえで切磋琢磨を呼びかけているのである」(p.51)

「東京女高師生たちは、忠実に「女性の国民化の理想的モデル」として皇后の行為を模倣し、「国民」としての自己形成をとげていくのある」(p.52)

その一例。明治25・26年に行われた「養蚕・製糸」の体験授業。

若桑みどり『皇后の肖像』(筑摩書房,2001) 皇后が関わった国家的事業の領域として女子教育・看護・織布製糸産業育成奨励。「「養蚕・製糸」は、伝統的な女性の美徳と近代殖産興業への関与を融合させた、明治近代における女性のジェンダー・ロールの典型であり、それは皇后美子から東京女高師生へと教授されたのである」(p.53)

「東京女子高等師範学校における教育のあり方については、その〈官立〉ゆえの側面がしばしば批判的言説の対象となっている」(p.53) → 「漢・和・洋の三変化」に翻弄された。それが一つの方向にまとまるのが「教育勅語」

2 「教育勅語」と東京女子高等師範学校

「東京女子高等師範学校の生徒たちは、「国家有用の人材」たるべく、何よりも国家の期待する女性教員として自己形成をせねばならなかった。その指標となったのが、「教育勅語」である」(p.54)

「「教育勅語」への直接の応答は、まず、毎年の卒業式における卒業生謝辞にあらわれる」(p.55)

加えて明治27年(1894年)に制定された「東京女子高等師範学校教育要旨」では、教育の方向性は、明白に「教育勅語」のそれを受けてたものとして一元化された。勅語への忠誠=美子皇后とのつながりにおいてより具体的に意識。

美子皇后の誕生日5月28日「われら国民が、母とも母とあふぎまつる皇后宮の御誕辰」として、東京女高師でも例年授業を休み、祝賀会を行っている。講和は、皇后の思し召しも最終的には「教育勅語」に収斂する。「このような構造の講和を通して、女高師生たちは、「教育勅語」と美子皇后の女子教育奨励の志を直接結び付けながら受容したと思われる」(p.57)

「国家有用の人材」であること示す、日清戦争の開戦。

3 「国民」たることの証

明治27年(1894年)、日清戦争の開戦。「人々は戦時における「皇后の独自の公的役割」、すなわち戦時看護に携わる美子皇后の姿を見た。ひとつは負傷兵のための「包帯作り」であり、ひとつは度重なる予備病院への行啓である」(p.58 強調引用者)

皇后が初めて負傷兵のために「包帯作り」を行ったのは明治10年(1877年)の西南戦争。日清戦争時の美子皇后の行動は、雑誌・新聞記事を通じて国民全体に伝えられた。東京女子高等師範学校の生徒たちも美子皇后の動きに呼応した。

予備病院を訪れ、負傷兵を見舞った美子皇后の「涙」という「感傷」。それに倣った東京女子高等師範学校の生徒たち。

「芸娼妓」の女性たちも日本国民の「婦女子」たるべく「包帯作り」に専念。

明治28年(1895年) 明治天皇の〈凱旋〉 樋口一葉は特に何も書き留めず、安井てつは奉迎パレードに出かけた。それに疎外された「芸娼妓」たち⇔美子皇后をジェンダー・モデルとした女子高等師範学校の生徒たち。「東京女高師の女性たちは、私的領域においてはしばしば制度から逸脱し、一方公的領域において制度に寄与する、二重の存在様態を持っていたのである」(p.63)

おわりに

「「国家有用の人材」たらんとした東京女子高等師範学校生たちは、美子皇后を具体的モデルとし「教育勅語」を奉じながら、女子教育者として全国に散っていった」(p.64)

同校の卒業生たちが、植民地において、女性教育者としてどのような教育を行ったのか、そのことを問われねばなるまい。(中略)侵略国と植民地と、絶対的な支配関係のなかで、女性たちの連帯は生まれようもなかっただろうか。それとも、不可能性を抱え込みつつ、たまさか、国家的支配を無化するような女性たちの関係性が夢想される余地は残っていただろうか」(p.64 強調引用者)

第三章 国家のための女たち――娼妓たちの日清戦争

はじめに

「吉原遊郭で全盛の娼妓になることが少女にとって実現可能なただ一つの「親孝行」の道である、という思考回路は『たけくらべ』(1895~96)の美登利の造形に投影されている」(p.69~70)

「本章は「お国のため」という物語と「娼妓稼」がどのように交差するのか、日清戦争を視野に入れて考えてみたい」(p.73)

1 遊郭と〈国民〉

木下尚江『お鯉物語』(1927年)に描かれる花柳界と日清戦争。花柳界の景況を日清戦争の戦況と関連付ける。しかし単純ではなかった。

「娼妓稼」の女性たちが〈国を大事〉に自主的に関わっていこう→献金・脱脂綿作り

しかし「「娼妓稼」の女性たちもまた、「日本国民」の「婦女子」として「綿撒糸」の製造に精を出した。そのような彼女たちの「殊勝」さは、〈国家〉によって受け止められていたのだろうか」(p.78)

明治天皇の〈凱旋〉(1895年)。このイベントに「娼妓稼」の女性たちは排除されていた。→「卑賤」「聖駕を汚す」から

2 放逐される女性の国民化

「「ハルビン市在住の日本人は男性292人、女性335人、計627人」で、「女のうち約半数にあたる176人が売春婦であった」」(p.83)

国木田独歩『少年の悲哀』「「からゆきさん」として海外に送られる女性の心情と〈家〉への幻想がどのように交錯しているか(中略)「明治の娼婦」のありようについてさらに考えてみる」(p.84)

「『少年の悲哀』の女は「流の女」と呼ばれ、定住する場所を持たない「漂泊の存在として語られる」(p.86)

「そのような故郷(補:ただ一人の家族がいる日本)の物語を仮構することによって、女はかろうじて「朝鮮」での「娼妓稼」に耐えようとしている。だが同時に、その故郷である日本〈国家〉こそが、女性たちを植民地支配の一つの道具としてとらえ、積極的ではないまでも、彼女たちがアジア諸国へと流出することを黙認し続けていたのである」(p.86~87)

おわりに

「「娼妓稼」の女性たちの「親のため」「家のため」ひいては〈国家〉のためという物語の交錯」(p.88)

「明治近代という時代のなかで、意図的に周縁においやられつつも同時に〈国家〉の搾取の対象とされた女性たちの生のかたち」(p.89)

レジュメ作成 柳ヶ瀬舞

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