窮地に追い込まれた時、役に立つ教育

今回は、

今思えば、神学の思考が教育に役立ってたな

というお話をしていこうと思います。

「神学って役に立つんかい!?」

と思われる方も多いかと思います。

でも、こう言っちゃなんですが、

役に立たないと思っているものも、

役に立つノウハウを作ってしまえばいいのです。

神学の考え方は、

平穏に暮らしていては、役に立たないかもしれません。

しかし、窮地に追い込まれている時、

神学は、怒涛の威力を発揮します。

話は少し変わりますが、

受験生は、いよいよ直前期ですね。

あと、7日で共通テストです。

もう目の前ですね。

そんな受験生の中には、

もう成績が全然追いついていなくて、

諦めそうになっている人もいることでしょう。

受験時代、僕も何度も諦めそうになりました。

これに近い状況は、大学になってからも何度も訪れました。

頼まれごとがあって、全然終わっていない状況、

半年ほどやってきてもう残り少しだけど、

乗り越えられるか分からない……!という状況、

もっといい表現ができるなずなのに、全くうまくいかない状況、

そんな追い込まれている状況では、

つい、よくやってしまっていたなと思うことがあります。

それは何かと言うと、

善悪で、自分を裁いてしまうということです。

これをやっているうちは、幸せになることはできません。

例えば、勉強していると、知らないことがたくさん出てきます。

勉強すればするほど、知らないことがたくさん出てくるのです。

「ああ、自分ってなんも知らないな」と思った時に、

その自分を、ダメだと裁いてしまう。

それは、いわば、鬼滅の刃に出てくる「鬼」と同じです。

鬼の価値観で言うと、

強いのが善、弱いのは悪です。

弱さを認めない、完ぺき主義なのです。

それ故に「鬼」である猗窩座は、

人間の中でも鍛え抜かれた「柱」の一人である煉獄杏寿郎に

「お前も鬼にならないか?」と鬼に勧誘しました。

鬼になれば、不老不死になって、

より完ぺきな強さを手に入れられるぞ

というのです。

ですが、煉獄さんは、真っ向から反対します。

「老いることも、死ぬことも、人間と言う儚い生き物の美しさだ。」

煉獄さんは、”強さ”よりも、”美しさ”を求めるのです。

ですが、”強さ”を否定しているわけではありません。

”強さ”という言葉を、肉体に対してだけでなく、

精神にも対しても使うのです。

”強さ”に対しての考えの抽象度が一段高いのです。

では、”精神的強さ”というのは、

どのようにして育まれるのでしょうか?

煉獄さんは、

胸を張って生きろ。

己の弱さや不甲斐なさに打ちひしがれようと、心を燃やせ。

歯を食いしばって前を向け。

と言います。

ここで僕は、

「あっ、これって神学の考え方に似てるな」

と思いました。

神学というのは、

神について”語ろうとする”学問です。

「神について語る」というのは、矛盾しています。

そもそも、神というのは、無限の存在です。

神というのは、心理学者のユングが言う、

無意識のようなものです。

意識できる範囲は、限られています。

人間の潜在意識は、自分の今まで見たこと聞いたこと

などが全部詰まっていますが、有限です。

ですが、全人類の記憶までいくと、

もはやすべて表現することは不可能です。

無意識を表現することは、不可能なのです。

その不可能に挑むのが、神学です。

20世紀の神学者カール・バルトは、

それを、「不可能の可能性」と言いました。

なんでもそうですが、

100%にしようと思うと、打ちひしがれてしまいます。

どれだけうまく表現しようと思っても、

「なんでうまく表現できないんだ!」と思います。

どれだけ相手のことを理解しようと思っても、

「ああ、もう全然わからん!」ってなります。

ですが、そこに挑んでいくところに、

美しさや、カッコよさがあるのです。

神学は、美しさを求める学問なのです。

そうやってこれからも、”精神的な強さ”も磨いていこう

と思いました。

それでは、ありがとうございました。

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