上原正三先生の思い出②子どもに向けたまなざし

 『できるかな』(NHK)で、のっぽさんを演じた高見映さんは、とっくに番組を卒業した昔の”子ども”たちが、今もあの頃のまま、放送しているはずと思うだけで安心するような番組が『できるかな』であったというようなことを、番組終了後に書かれた『のっぽさんがしゃべった日』で書いていたように記憶する。

 私たちは少年少女ではなくなっても、少年少女だった日の風景にはいまだあり続けてほしいという気持ちがあるということだ。自分も変わる。周囲も変わる。世界も変わる。でも、幼かった日の風景には変わらずあり続けてほしい。そんな思い。

 上原正三先生から頂いた数々の言葉は、僕にとって、「あり続けた風景」だった。

 1980年代半ばは僕にとって生きづらい年代だった。

 再放送を中心に、新作は本放送で見ていた『ウルトラマン』シリーズもなく、大好きだった欽ちゃんのバラエティーもどんどん終了。代わりに放映されるアニメやお笑いの、殺伐さ、体育会系のノリ、色っぽさ…に当時の僕はついていけなかった。居心地の良かった風景みたいなものをブラウン管の中に見出していた僕は、その風景が急速に失われていくような気がした。時代は変わりつつあった。後に「軽佻浮薄の80年代」と言われるような「80年代」は実際は80年代初頭にはなく、半ばに表れ始める。新しい時代に僕はついていけなかったのだ。

 そんな中、救いだったのは『宇宙刑事ギャバン』に始まる宇宙刑事シリーズの存在だった。子どもの味方でいてくれるヒーローの存在。そして悪と正義との戦いの中に、人生の機微や社会模様が垣間見える点に、幼いながら『ウルトラ』シリーズに通じるものを感じていたようには思う。

 背伸びして特撮専門誌『宇宙船』などを読んでいた僕は、『ウルトラ』と宇宙刑事シリーズにつながる「線」を発見する。それが上原正三先生の存在だった。金城哲夫が物故し、佐々木守、市川森一、山田正弘、田口成光、阿井文瓶、飯島敏弘、長坂秀佳、伊上勝…といった、1970年代まで、特撮を手掛けていた各氏がすでに最前線を去った後も、上原先生は常に特撮の、そしてアニメのストーリーメーカーとして活躍されていた。そして、80年代の、殺伐、色っぽさ等に染まらない、子ども番組の風景を紡ぎ続けていた。

 生まれながらにテレビがあった我々の世代にとって、テレビの中の世界は一種の風景となっていく。

 時代が昭和から平成へと変わっても、上原先生はその作品数こそ少なくなるものの、時折、新作を世に出され、成人した僕は『ウルトラマンティガ』や『ウルトラマンダイナ』、『ウルトラQ倶楽部』等で、幼いころに馴染んだ風景にまた、まみえることができた。

 勇気を出して、手紙を書き上原先生とお会いすることができた。以来、私が上京の折にお会い頂いたり、またメールのやり取りもさせて頂いた。

 上原先生の言葉は、少年のころ、僕がブラウン管の中に見てきた風景そのものだった。過去の特撮作品の話のほか、僕の職業柄、教育の話をはじめ現代情勢について色々な言葉を頂いた。それらは、社会が変化しても、また僕自身が成長しても、変わることのない、あの郷秀樹や一条寺烈に息吹を与え続けてきた方の言葉であった。

 上原先生は過去を振り返られる以上に、現代と未来を見定めていられるように感じた。そこにはいつも現実を見つめるシニカルなまなざし、それでいて希望を失わない明るい姿勢があった。これらは、先生が作ってきた数々のコンテンツに内在するものでもあった。だからこそ、先生とのやり取りの中で、僕は少年時代に見てきた風景を見ることが出来たのだった。

 近年は、私が結婚し、子ができたこともあり、子育てに対する思いを伝えて頂いた。その一つが下記である。

 「子供を見れば、その子が両親にいかに育てられたかがわかります。
子供に必要なのは愛情だけではなく、安らげる環境が一番大事とのこと。最近記事で読みました。子供が安らげる環境、それは両親が見せる笑顔だと思います。」

 上原先生の作品は時にシリアスで重たい。しかしそれも含めて先生は、全国の、そして世界の子どもたちが安らぎ、笑顔になれることを願って、膨大な作品を紡ぎ続けたのだろう。

 子ども番組一筋で、子どもに何を見せるべきかを考え続けてきた先生の言葉は忘れられない。

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