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上原正三先生の思い出

 今日は夕焼けが綺麗だった。

 2歳の娘が「真っ赤な夕焼け!」と言ったのを聞いていた人が「詩人さんみたいだね」と言ってくれた。

 昔の人の考え方の一つに、西に浄土があるというものがある。浄土は日が沈む方向にあると考えたのだろう。

 特撮の脚本を多く手掛けられた上原正三先生が浄土へと旅立たれた。

 初めてお会いしたのは15年ほど前になる。中央林間駅の改札前で待ち合わせていると、思っていた以上に大柄な上原先生が笑顔でいらっしゃった。

 多分、最初にお会いした時間は2時間くらいであったと思うが、先生が手掛けられた作品のこと、金城哲夫さんのこと、現代の社会のこと…いろいろお話しくださった。そして私の話を聞いてくださった。

 上原先生が偉大であるのは、これまでに膨大な数の脚本を手掛けられたこと、何本もの話題作を成してこられたこと、もちろんそういうこともある。けれども実際にお会いして感じたのは、何より先生のお人柄の素晴らしさであった。私のようなものにも丁寧に接してくださり、お気遣いの言葉まで掛けてくださる。

 その後も何度かお時間を割いていただき、メールのやり取りをしてくださった。私の住むところで一昨年、大地震があったのだが、その際にはお見舞いのメールをくださった。

 大巨匠でありながら、いつも等身大であり、社会は下からの目線で見るのが良い、とよくおっしゃっていた。後年はそれを『帰ってきたウルトラマン』に出てくる、頭が下にある怪獣ツインテールになぞらえられていた。そのようなご姿勢に共感せずにはいられなかった。

 お会いする以前は、「あの様々な作品を作った上原先生」という印象だったが、お会いした後は「優しくて、誰からでも慕われるであろう上原先生」という印象が強くなった。

 そんな上原先生が亡くなった。今すでにこの世に先生が存在しないという事実が信じ難かったし、また信じたくもなかった。

 先生が書かれた最後の『ウルトラ』の脚本。それは「M78星雲の島唄 金城哲夫37才・その時」(未映像化。『上原正三シナリオ選集』現代書館、2009年収録)だ。そこで、ウルトラ世界の生みの親、金城哲夫はウルトラマンにいざなわれて、ウルトラマンの故郷、M78星雲へと向かうのだった。

 今頃、上原先生も星雲で色々な方と再会されているだろうか。金城哲夫さんとも数十年ぶりに再会されただろうか。どんな話を交わされているだろうか――。

 いつも温かった上原先生がお亡くなりになったということが悲しくてたまらない。上原作品を見て育った世代にとって、この喪失感は小さなものではない。

 上原先生、ありがとうございました。心からご冥福をお祈りいたします。

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