私の無限列車編 思いの世界を突き抜ける。
最近、私が見た夢には共通するパターンがある。
今は会うことのない昔の仲間たちとどこか旅行にいく内容だ。
旅の場所も仲間も目的もいつも違う。
旅の途中で、何かのことでいつも自分だけ単独行動をとる。
そしてこれではいけないと、みんなのところに戻ろうとする。
戻ろうとするとき、来た道を戻ろうとするのだが、明らかにその道は来た時と変っている。
それでもそのことを不思議とも思わず様々な道を行きつ戻りつする。
そうこうするうちにやがて疲れ果てて「もう仕方がない」、
とみんなのところに戻ることをあきらめた時、
そうだ、これは夢だ、と気がつき、意識して目を覚ます。
起きると、気持ちと頭にかすかな疲労感が残っている。
そんなパターンの夢を見ることが、ここ1・2年に数回あった。
昨夜もこのような夢をみて、ふと思った。
夢の顛末はいつも結局、仲間のところに戻れない夢だなあ、と。
そして、疑問に思った。
一緒にいく仲間も場所も夢のたびに違うのに、なぜいつも戻れないという結末なのか?と。
結局あれこれもがいて、これは夢だと気づき、この夢の中で解決できなくてもいいんだ、と納得して目覚める。
つまり、夢の中ではいつも解決できないのだ。
夢の中でも精いっぱい解決の努力をしている。試行錯誤している。
それは夢から醒めた時にわずかに残る疲労感で実感できる。
なのに、なぜいつも解決できずに、
夢から醒めることで、問題自体が夢であってもともと現実にはなかったことだ、と気がついて安心することで終わるのだろう?と。
そこで、少し考えてみた。(もちろん、目覚めた状態の時だ。)
そして、思いついた考えは、・・・
この「解決できない」ということが、そもそも、それが夢である証拠ではないのか、ということ。
なぜなら、
目覚めている世界での行動と違って、
夢の中には新奇性のある情報との出会いがないはずだからだ。
また、
そのように、外部からの情報が遮断されている夢の世界では、
その時に抱いている感情が大きく影響していることも想像される。
新たな気づきとなるはずの外部情報の入手と実際の身体行動ができない夢
の中では、
いくら頭があれこれ試行したところで望ましい顛末ができるはずがない、
と。
実際、夢の中での出来事は、
かつての記憶にあるシーンのつぎはぎばかりで、そこが閉じた世界だと微かに感じさせる雰囲気が漂っていた。
一方、現実の目覚めている時間には、
実際行動による試行錯誤によって必ず何等かの新しい情報も、現実的な手掛かりも得られる。
つまり、夢と現実を区別するのは、
この新たな手がかりが得られず、成り行きが同じパターンになってしまい解決できないかどうか、にあるのではないか、
というわけだ。
とすれば、夢の袋小路を脱するには、夢から醒めるしかない。
実際に、毎回夢のたびにそう思い、夢から醒めることで安心している。
(なにやら、鬼滅の刃、無限列車編と同じになってきた。)
◆
そう考えているうちに、
夢と現実の世界の違いは、
目が覚めているときに、頭の中で考えているときの「思いの世界」と、
実際の行動で生きる「現実の世界」の違い
にも共通するのではないか、と思い始めた。
つまり、
夢の世界と同様に、目覚めているときの「思いの世界」には
求めている解答への新たな手がかりも解答そのものもない。
すでに頭の中の思考のすべての成り行きにおいて、
感情支配の手が回っている。
新しい素材の発見も現場で動かなければ得られないから、
困った状態の解決に向けた気づきの素材と現実の身体行動は
頭の中の「思いの世界」から脱した
「現実の世界」の中にしかない、
と。
私たちは、覚醒しているときにも、時に現実から離れて夢見ごちになることがある。そんな時は、現場には目を向けていないのではないか。
その世界は、その時の心の不安感情が大きく作用して極端な思考の結末を取るのではないか。
しかも夢と同じように、考えた感があるにも関わらずだ。
こういうわけで、
私の中で、似て非なる関係にある
夢と現(うつつ)の違い、
目覚めている時の「思いの世界」と「現実の世界」の違い
を明確にするための導きの糸の一つが見えたように思えたのだ。
ここで、気がつかれたかもしれないが、私は「現実」を二つの意味で使っている。わざとではない。区別する言葉がないからだ。
夢と対比した覚醒状態を、「現実」と言い
(すぐ上では現(うつつ))、
覚醒している中で、さらに思いと対比した状態を、「現実の世界」
と言い、とりあえず区別してみた。
※ ところで、夢だと思って目覚めることで安心するが、夢の中でみんなの所に戻れない事が少し悔しく感じることに我ながら少しおかしさも感じる。夢なのに。
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