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清原なつの(1956.8.8- )『千利休』本の雑誌社  2004年11月刊 A5判 373ページ  Billie Holiday (1915-1959)"You Don't Know What Love Is" (1958.2.18)  日記 2018年10月26日  柴の戸に入日のかげはさしながらいかにしぐるる山辺なるらん 新古今和歌集 巻第六 冬歌 572  伊吹有喜『BAR追分 ハルキ文庫』角川春樹事務所 2015.7

日記
2018年10月26日
午前3時25分起床 室温16.7度 湿度64%
懸垂11回 スクワット46回
体重55.9kg BMI 20.8

Billie Holiday (1915-1959)
"You Don't Know What Love Is" (1958.2.18)
https://www.youtube.com/watch?v=WIHDUc-nZ9Y
Lady in Satin (1958.6)
https://en.wikipedia.org/wiki/Lady_in_Satin

https://en.wikipedia.org/wiki/You_Don%27t_Know_What_Love_Is

「場が静かになると、かすかに音楽が聞こえてきた。
ハスキーな声の女が英語で、
愛とは何かあなたは知らないと歌っている。」
伊吹有喜『BAR追分 ハルキ文庫』
角川春樹事務所 2015.7
p.24「プロローグ」

https://note.com/fe1955/n/n762a82771603

https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/2241255289282431
https://bookmeter.com/mutters/178030339

私のパソコンの
ウィンドウズメディアプレイヤーには、
2004年11月うつ病発症休職以降に
福岡市総合図書館から借りたCDによる、
ビリー・ホリデイの歌唱を
94曲収納してあります。

和田誠(1936.4.10-2019.10.7)
村上春樹(1949.1.12- )
『ポートレイト・イン・ジャズ』
新潮文庫  2003.12
https://bookmeter.com/reviews/3352784
https://www.amazon.co.jp/dp/4101001537

「でもビリー・ホリデイがどれほど素晴らしい歌手か
ということをほんとうに知ったのは、
もっと年をとってからだった。
とすれば、年をかさねることにも、
なにかしら素晴らしい側面はあるわけだ。」

https://www.amazon.co.jp/dp/4101001537

https://note.com/fe1955/n/n75d8967627f0

Billie Holiday (1915-1959)
"You Don't Know What Love Is" (1958.2.18)
Mal Waldron (1925-2002)
"You Don't Know What Love Is" (1959.2.24)
Miles Davis (1926-1991)
"You Don't Know What Love Is" (1954.4.3)
Eric Dolphy (1928-1964)
"You Don't Know What Love Is" (1964.6.2)
https://note.com/fe1955/n/n75d8967627f0


 

柴の戸に入日のかげはさしながらいかにしぐるる山辺なるらん
 清輔朝臣
 題しらず
 新古今和歌集 巻第六 冬歌 572
「柴の枝折戸に夕日の光はさし込み、西はすでに晴れているのに、どうしていまなおこの山辺はしぐれるのであろう。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.174
清輔集「山居時雨」。
柴の戸 雑木を折り曲げて造った粗末な庵の戸。
さしながら 「さながらなり」(奥義抄・上[おうぎしょう〔アウギセウ〕平安後期の歌学書。三巻。藤原清輔(ふじわらのきよすけ 1104-1177)著。天治元年(1124)~天養元年(1144)の間に成立])。
そのまま変ることなくの意。「射しながら」と掛詞。
西から慌ただしく晴れてくる時雨の通り過ぎるのを待つ間の気持。
「時雨」の歌

藤原清輔
(ふじわらのきよすけ
 1104-1177)
平安時代末期の公家・歌人。
藤原顕輔(詞花集撰者)次男。
九条兼実の和歌師範。
千載集初出。新古今十二首。勅撰入集九十六首。
隠岐での後鳥羽院による『時代不同歌合』では大伴家持と番えられている。
小倉百人一首 84
「ながらへば又このごろやしのばれん憂しと見し世ぞ今は恋しき」
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kiyosuke.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤原清輔

https://bookmeter.com/mutters/153791951
2013年の立春、
2月4日から毎日一首づつ読み始めた
新古今和歌集の通読(つぶやき)が
四年かかって終わりました。
https://bookmeter.com/mutters/153744722
全二十巻
(春夏秋冬賀哀傷離別羈旅恋雑神祇釈教)
1995首
 明日から再読
 2017.3.26



清原なつの(1956.8.8- )
『千利休』
本の雑誌社  2004年11月刊
A5判 373ページ
http://www.amazon.co.jp/dp/4860110390
http://www.webdoku.jp/kanko/page/9784860110390.html

「茶の湯とは何か、わび茶とは何か、
そして千利休とはいったい何者だったのか?
子供から大人まで楽しめる清原なつの版千利休伝。
哲学的なSF系ファンタジーを描く漫画家として、
性別を問わず幅広い読者に親しまれている清原なつの。
その清原なつのによる
<わび茶>の完成者・千利休の伝記漫画です。
財力も権力も手に入れながら、茶の湯の境地も開拓しつつ、
しかし常に「いったい自分は何者なのか」を自問し
激しく葛藤し続けた人間・千利休を、
清原なつのならではのソフトでコミカルな筆致と
しみじみする思索的な深みをもって描いています。
著者自身による解説(歴史的なイベントや茶器・茶碗など)も
充実しております。」


ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/清原なつの

によれば
1956年8月8日岐阜県岐阜市生まれな
清原なつのさんの第102作
『千利休』本の雑誌社 2004.11
描きおろし

2011年9月以来の再読。

「秀吉はキライですか 信長とどっちが好き?
「う 好き嫌いでは言いあらわせん関係じゃった
 信長のほうが男前でカッコ良かった
 秀吉が私を千利休にしてくれた
 私に自由な創作を許し権力も財力もくれた
 限られた時間だったが」
利休切腹七十歳は戦国時代にしては長生きですよね
「切腹させられなければ百までだって生きたかった
 せめて村田珠光没の八十歳まで
 早起きして水を汲んで湯をわかして
 枯れかじけた真冬の十年を歩みたかった
 長生きはいい」

切腹の原因は何ですか?
「秀吉がバカヤローだからだ
 秀吉も初対面の頃は素直で熱心な弟子だったが…
 見栄っぱりの二流の美意識の持ち主が
天下様ではしょうがない」」
p.12

「1502年
村田珠光(むらたしゅこう) 没
武野紹鷗(たけのじょうおう) 生まれる
1522年
千利休 生まれる」
p.25

「千利休は 堺の納屋衆 田中与兵衛を父として生まれた
 名は与四郎 納屋衆というのは 貿易に使う貸倉庫業者であり
 また ととや(魚問屋)も営んでいた
祖父の田中道悦(千阿弥)は 室町幕府の
八代将軍 足利義政の同朋衆だった 同朋衆というのは 頭をまるめ
僧形になることで 身分を越え 将軍のそばに使える事ができた
 文化人たちだった
同朋衆の中に 書院飾り 台子(だいす)飾りの 考案者 能阿弥や
侘び茶の開祖 村田珠光がいた」
p.27

堺で余生を送る田中道悦に遊んでもらっている
与四郎ちゃん(千利休)はまだ片言の可愛い幼児です。

「1534年
 織田信長誕生(尾張守護代織田信秀の子)
1535年
 与四郎(千利休)14歳
 堺念仏寺築地(ついじ)修造銭一貫文(十万円)奉納
1536年
 豊臣秀吉誕生
1537年
 与四郎16歳
 初めての茶会
 京都での朝会 松屋久政を招く」
p.33
「少年の日の利休は 北向道陳のもとで 東山流の
 書院と台子(だいす)の茶を習った
天性の物だろうか 所作に品がある 子供と思えない」
p.35

「父[田中与兵衛]はまだ存命であったが
 与四郎は十四歳で ととやの主になっていた
 茶の湯の稽古と 商売の勉強を
 なんとか両立させていた多忙な少年だった」
p.40

「1540年
 武野紹鷗(たけのじょうおう)に入門 父死去
 1542年 結婚 徳川家康生まれる」
p.43

「大徳寺で剃髪 宗易という号をもらう
 宗易が入門した時
 武野紹鷗は三十九歳 武具調製で財をなし 歌道を好み
 二十四歳で上洛 三条西実隆に和歌を学び 連歌にも長じた
 三十一歳で剃髪し紹鷗と号 禅的な教養を持つ
 珠光流茶道の中心人物だった
 紹鷗は侘び茶の心は 定家の歌
 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ
 にあるという
 花や紅葉を知らない人には 苫屋の侘びた世界は楽しめない
 まず花や紅葉である書院台子(だいす)の茶を知ることが先である」
p.45-47

「1543年 鉄砲伝来
1544年 古田織部生まれる
1546年 長男道安生まれる 信長元服」
p.55

「今井宗久さん[武野紹鷗娘婿]さんの所で
 鉄砲というものを 見てきたよ
それは何ですか
武器だよ 宗久さんは 絶対これは
 すごい商売になると 絶賛していた
 武野紹鷗先生だって 武具調製で
 あれだけの財産を 築かれた方だ
 これからの夜の中 まだまだ 戦は続くだろう」p
.56

「紹鷗門下となる戦国の数寄大名
 三好実休は東山御物「三日月の葉茶壷」など
五十種もの名物[由緒のある茶道具類]を所持した
のちに室町幕府の政権を掌握する兄の長慶も
 三好粉吹など大名物[利休の時代以前からの名物]を所蔵した
三好兄弟の家老
 松永久秀も 武野紹鷗から茶の湯を学んでいた」
p.57

「下剋上な人物 松永久秀は 主君の三好長慶を陥れるために
 一族のつながりを弱める作戦に出た
 三好実休が兄を討とうとしていると 讒言し
 兄弟の仲を裂こうとした
親兄弟 親族が戦うのは やりきれませんなあ」
p.64

「1549年
 フランシスコ・ザビエル来日、キリスト教を伝える
 1551年 信長、織田家の家督を継ぐ
 今井宗久 茶会デビュー
 神屋宗湛生まれる」
p.65

「1544年
 天文十三年二月二十七日
 千宗易二十三歳
 松屋久政を招いての茶会で 珠光茶碗を用いる
 足利義政や村田珠光の由来のものは とにかく 大変なお宝だった
 手広く事業を成功させて 宗易は少しづつ
 高価な茶道具を 手に入れる力を 持っていった」
p.68

「宗易が謡曲を習った 宮王三郎も いくつかの 茶道具を持っていた
 宗易さんには 二曲しか 稽古をしてあげられなくて 申し訳ない   「関寺小町」と「藤戸」 私はこの二曲を 大切にします
 百年(ももとせ)は 百年は 花に宿りし胡蝶の舞(関寺小町)
 春の湊の行く末や(藤戸)
宗易は中世の枯れた幽玄の世界を うたっている これらの謡曲を
 よく口ずさんでいた
 氷乃如くなる 刀を抜いて 胸の邊(あたり)を刺し通し
 また 能のこの二曲を知らないやつは 侘び数寄は理解できないと
 『松屋日記』には書かれている」
p.72-75

「1550年
 武野紹鷗の長男宗瓦(そうが)誕生
 1554年 今井宗久[武野紹鷗娘婿]『茶湯日記』始まる」
p.81

「宗久さん 先日は鉄砲鍛冶屋を紹介してくださって
 ありがとうございます
 鉄砲産業は これから どんどん 盛んになりますよ
 儲けさせていただきます
十三世紀頃から 堺には 鋳物師(いもじ)が居住して
 金属工業が発達を始めた 今井宗久は 鋳物商で 財産をたくわえた
 今は 鉄砲産業で 大きく展開しようとしていた
 武野紹鷗とは 同じ 軍需産業の従事者どうしとして
 出会いがあったのかもしれない
 枯れかじけた境地は 生臭い血のにおいのする戦乱の続く
 表通りから隔絶された 庭の奥の隠れ家で 熟成されていった」
p.85-89

「天文茶会記
 『松屋会記』
 『天王寺屋会記』
 [津田宗達・宗及]
 『今井宗久茶湯日記』
の三つを言う。
茶会記は自分の会や呼ばれた会の、客の顔ぶれや、使われた道具、
出された料理の献立などが書かれている。
重要な事件なども時々記されていて、茶道歴史研究の重要な資料。
宗易さんは 茶会記は 書かないのですか?
私が 出席させていただいた会の事は 全部おぼえています
 書き記さなくとも だいじょうぶです
宗易にとって 茶の湯は わずかな文字表現では
 とうてい記録できなかった のではないか
 読み取り感じることが膨大で 受け取った情報を
 イメージのままに筆記できないのなら
 自分の頭の記憶だけに とどめておくしかなかった」」
p.88-90

「1555年 武野紹鷗 没
1558年
 宗易 [阿波の]三好実休茶会に招かれる
1560年
 桶狭間の戦い 山上宗二(やまのうえそうじ)宗易に弟子入り
1562年
 北向道陳 没」
p.91

「武野紹鷗は
[1555年]十月に自分の会を開くが
 十月二十九日 亡くなる 五十四歳だった
長男の宗瓦(そうが)は まだ六歳だったため
 今井宗久が後見人となり
 武野紹鷗の品々を手に入れる」
p.93

「一五五八年十二月一日(天王寺屋会記)
 わかさ屋宗可(そうか)松永久秀の茶頭(さどう)
 住吉屋宗端 宗無[松永久秀の子]の義父
 津田宗達[天王寺屋]
宗易さんも 三好の御兄弟や松永様に お近づきになれば
 ご商売にも 良い事がございますよ
ありがとうございます よろしくお願いします」
p.98

「一五六二年三月五日 三好実休 戦没 三十七歳
実休所持の 三日月の茶壷 珠光子茄子などの
 五十種の名物は また四散していく」
p.105

「三好家の重臣に 成り上がった松永久秀は
 奈良に 多聞城を築城する 松永の築城の才能は高く
 多聞城の櫓は 秀吉の大坂城にも 取り入れられている…が
 金色の薔薇で飾られた 装飾的な城でもあった
松永様という方は 恐ろしい方だが 派手好きですなあ」
p.106

「1562年
 北向道陳が亡くなり 堺茶人の世代交代が始まった
 宗易も四十一歳になっていた
金銭財産や 名物茶道具への 激しい執着の一方で
 一見 正反対の趣向ともいえる 侘び数寄の道も
 宗易は深めていった
それがうまく 両立できない宗二は 悲劇の弟子となる」
p.110

「一五六三年一月十一日
 松永久秀 多聞山城で茶会
一五六四年七月四日
 三好長慶「病没」
 親族兄弟と争って勝ち残ったものの
 跡継ぎ義興(よしおき)の早死(二十二歳)で すっかり弱っていた
 そしてもう一人の弟の安宅冬康(あだかふゆやす)も
 松永の讒言を信じて 殺してしまった
 長慶・義興親子は 松永が毒殺したとも言われている
 三好家も将軍も これで松永久秀の 思い通りになった
宗易は
一五六五年一月二十九日
 そんな良い気分の 松永久秀の茶会に 招かれている」
p.111-112

「松永久秀は室町十三代将軍足利義輝を殺してしまい
 十四代を足利義栄(よしひで)にした
 兄義輝が殺害された時 後に十五代将軍になる足利義昭は
 一乗院の門跡だった
 細川藤孝(幽斎)によって助け出され
 全国の大名に 京都を取りもどしてくれと依頼する
このころ宗易は 津田宗及 今井宗久らと
 ひんぱんに茶会を開いていた
松永様は恐ろしい 将軍様まで 殺してしまわれるとは
 戦が続いて 今井さんも 繁盛なさって
一五六六年 松永久秀と三好三人衆の争いが始まるが
 堺の町中では戦わないでくれという
 堺納屋衆からの要求を 双方が受け入れる」
p.114-115

「一五六七年
 八月十五日
 信長は美濃を手に入れた
 十月十日
 松永久秀と三好三人衆との戦いで東大寺大仏殿消失
 越前へお逃げになった
 一乗院様(のちの将軍義昭)はどうされてます?
 朝倉氏が頼みにならないとかで 美濃の織田信長を頼られるとか
 斎藤道三様の娘婿の いろいろと注文を お受けしましたなあ
 美濃の織田様 鉄砲ですか
 松永様の義栄将軍 対 信長の一乗院様か」
p.120-122

「一五六八年九月七日
 岐阜出発
 鬼神[織田信長]は十五代将軍足利義昭を奉じて
 京都をめざした
 戦うこと 風の発するがごとく
 攻めること 河の決(さく)るがごとし
 町を焼き払い 戦(いくさ)の血しぶきをあびて上洛
 この時 松永久秀や今井宗久が あいさつの手土産にした
 大名物(おおめいぶつ)が 信長と 名物茶道具との
 本格的な出会いだった
 松永は 茶道具欲しさに 主君を次々に
 毒殺したっちゅうのは ほんときゃ?
 信長にしてみれば
「松島の葉茶壷」
「紹鷗茄子」
「九十九茄子」より
 鉄砲のほうに 心躍らせていた
 が 茶道具の利用価値は 十分 わかっていた」
p.125-127

「この頃
 今井宗久[武野紹鷗娘婿]と
 武野宗瓦[紹鷗の子]は財産相続争いの訴訟を起こしている
 信長から武野紹鷗の財産は「すべて宗久が相続せよ」と
 決裁をもらったが
 今井宗久は堺衆の手前 紹鷗名物を宗瓦に渡し
 屋敷も譲り 相続争いを終結させて 和解茶会をもよおした
 今井さんの本心は こんなゴタゴタはかたづけて
 信長との 商売に専念したいのですよ
 その茶会の日
 三好三人衆が将軍義昭を討ちに京都に向かった」
p.132

「堺の旧勢力が頼みにした三好三人衆が負け
[信長への矢銭(やぜに 軍資金)]二万貫(二億円)上納を
堺衆は受け入れた
 一五六九年二月十一日
 信長の堺接収の役目の上使衆百人あまりを
 津田宗及が自邸に迎え接待する
 ようやってくれた 矢銭受け入れの説得ごくろう
 こうして 今井宗久 津田宗及は
 信長の茶頭(さどう)として 取り立てられた
 千宗易はあとで」
p.133-134

「信長様は恐ろしい
 代々受け継いだ物や せっかく手に入れた名物を
 取り上げておしまいになる
 あの方は 価値がわかっていらっしゃるのか 疑問だが
おわかりだから 集められるのですよ
 名物収集は 時の権力者は 皆やってきた事
 信長に限った事じゃない ただ 信長のやり方は
 今までとは ちょっと 違う気がします 信長を見たいな
先日 今井[宗久]さんとご一緒した時に 信長様に
 宗易さんの事を お話いたしました 上様は たいそう
 興味をお持ちのようでした」
p.138-139

「四月二日 宗易手前にて薄茶
(今井宗久茶湯日記抜書)
この男が信長
千宗易も 鉄砲を 商うんか?
今井宗久様ほどの規模ではありませんが
 多少は御用意できます」
p.139-140

「六月 姉川の合戦 石山合戦開始
今井さんは 姉川の合戦で また おかせぎになったそうで
商売でございますから どちらのお殿様も 大切なお客様です
 信長様の本願寺攻めは ひどいですね
一五七一年九月十二日
 延暦寺焼き討ち
 朝倉義景・浅井長政と通じた延暦寺を焼き払う
 信長の徹底した宗教粛正が行われた」
p.143-146

「1573年 室町幕府消滅
 宗易 信長の茶頭になる」
p.147

「なあ宗易 おみゃあさんは 茶道具の善し悪しを 何で判断する?
値段でございます と言うと ミもフタもありませんが
金か あはは
茶道具は 生活用品や 骨董品などから 使い易い大きさや形
色や姿の美しさを 代々の持ち主たちに選ばれ続けてきた物たちです
選ばれるたびに 値段があがります という理由で
値段と申し上げました」
p.149-150

「一五七三年七月
 木下藤吉郎は羽柴姓に変える 36歳
羽柴様は 茶の湯は お好きか?
あ…う わ…
信長様の一番の お気に入りの方だと聞くが 田舎者丸出しだな
 いや… 何か この方には 不思議な魅力がある
この頃 宗易と秀吉が連名で書いた書簡がある
秀吉が宗易に 金を借りた礼状には 「宗易公」という 敬語で
相対していた のちに二人の 上下関係は 逆転する」
p.154-155

「一五七三年七月八日
 信長は朝倉義景・浅井長政を滅ぼす
一五七四年正月朔日(ついたち)信長新年会
 朝倉、浅井らの首を 漆で固め 金泥で彩色したものを
 折敷(おしき)にのせ飾った その前で謡い踊る 宴会をした」
p.156

「一月二十八日
 津田宗及 正月挨拶に岐阜へ出かける
 たくさんの茶道具を拝見し茶事をする
朝倉の一乗谷には ええ茶室が 作ったったよ
 悔しいやろなあ こんなふうに 茶道具と並ぶのは
 あんたら堺衆も 逆らったら 頭蓋骨で 茶碗作ったるよ」
p.158

「一五七四年三月二十四日
 京都相国寺方丈にて信長茶会
 信長が今まで集めた名物を堺衆に披露した
 松本茄子
 藤波平釜
 柑子口柄杓立(こうじぐちひしゃくたて)
 犬山天目茶碗
 茶会後 宗久宗及宗易に 千鳥の香炉を 特別に拝見させた
 今度 正倉院にしまったる 蘭奢待(らんじゃたい)ちゅう
香木をちょこっと もらうことにしたでね
 ざわっ
足利義政以後の足利将軍からの所望は 受け入れられなかった
信長は 足利幕府に代わる征夷大将軍の地位を
 許されなかった腹いせに 公家社会への威圧の意味で
 所望したという」
p.159-161

「三月二十七日
 宗易宗及[山上]宗二
 奈良へ信長と同行する
 正倉院を開く
 蘭奢待を 松永久秀が信長に譲った多聞城へ運ぶ
 皆が見守る中 一寸八分切り取られた
 えっ
 いただけるのですか
 ちょびっと やる
 津田宗及と千宗易は ええ香炉を 持っとるからな
津田は不破 宗易は珠光の 香炉を持っていた」
p.162

「一五七五年
 五月
 長篠の合戦 織田・徳川連合軍が武田勝頼をしりぞける
 八月
 越前一向一揆平定 信長と本願寺の和睦成立
千宗易も武器商人だった 越前一揆攻めの時
 鉄砲玉を調達したことへの信長の礼状をもらっている
 堺は国産鉄砲の有数な産地だった
 また南蛮貿易で鉄砲玉や火薬の原料となる
 鉛や硝石も入って来た
 当時の貿易業者はほとんどが軍需産業にかかわっていたと言える」
p.166

「一五七六年正月
 安土城築城が始まる
 一五七七年閏七月七日
 宗易 安土城茶屋開きの茶会に
 津田宗及、松江隆仙らを招く
 宗易は 信長の茶頭の中で
 特別な地位になっていた」
p.169

「一五七七年八月十七日
 松永久秀謀反 奈良信貴山城にたてこもる
 十月一日 信貴山城下に火がかけられる
 激しい攻防の末 本丸にしりぞいた
 松永久秀は天守に火をつけ
 秘蔵の和漢の宝を 火に投げ入れた
 信長め これだけは やらんぞ!
 あちゃー 松永のくそだわけ[大バカヤロー]
 天下の名物お宝を 全部燃やしてまったやが」
p.172-175

「秀吉は中国平定に向かった
 結果出せよ サル!
 上月城を落とした際には 残党婦女子幼児らを
 敵方への威嚇のために 国境で磔にした
 なりふりかまわぬ 必死の働きで
 但馬播磨を押さえて帰って来る
 サルは ようがんばってくれたで
 茶の湯 許したっても ええかなあ
 乙御前釜(おとごぜかま)やるわ
 戦で手柄をたてるということは
 多くの首を取ってくることであり
 茶道具は信長によって
 血への報酬の役割をあてがわれていた」
p.177-178

「名物と討ち死になさる方が 続かなければいいが
 この頃私は 名物茶道具を 疎ましく思う時があります
 どんなに すばらしいものでも
 命をかけるほどの事でしょうか
 ただ美しいだけの物ではないのですから
 だれそれが命をなくした 身代を失った
 そんな物語が邪魔になります
 名物道具は恐ろしいです」
p.180-186

「一五八〇年天正八年
 雪の新年 正月挨拶に来たおみゃーさんに
「浅井の髑髏で茶を点てやぁ」って
 おどかしたったことがあったなも
はい 天正二年でした
おそぎゃあことは あらへなんだか?
恐ろしかったです ですが 今では
 大名物の茶道具も 恐ろしいです
あはは それで 変なかっこうの茶碗を
 あれこれ 新しく作らしとるんか
お嫌いですか?
いや かまわへん おもしれえ」
p.188-189

「十二月九日 宗易朝会
 びくっ   はっ
「かたのたれたる釜」「ハタノソリタル茶碗」を用いる
(天王寺屋会記[津田宗及])」
p.190

「一五八二年三月十一日
 信長は武田勝頼を討つ
 凱旋の帰り道を 徳川家康は
 道路工事をしたり 館を作ったりして
 信長に礼を尽くす
あーりがとー どえりゃー 気いつかってまって 悪かったなも
何言っとりゃーす あたりみゃーのこと しただけだがね」
p.201

「今度 家康が安土に来るで ぎょうさん もてなしたってちょ
はい
久々に おだやかなお顔を なさっている
 よほど家康様のご協力を うれしく思われたらしい
 家臣の裏切りが続いて お疲れだったからな
本能寺の変まで あと一ヶ月」
p.202

「1582年
 明智光秀による五月十六日夕方の安土での家康接待料理
 魚の塩漬け 豆 焼き物 あえ物 香の物 干し鯛 かまぼこ
 強飯(こわいい) からすみ 鯉汁 鳥のホルモン焼き 青鷺汁
 鴫やき うどと鯨の汁 ばい貝 点心 菓子」
p.204
鳥のホルモン焼きって何だろう?

「徳川家康は五月十五日から十七日まで信長の招待で安土訪問し
 明智光秀が接待をまかされていたが
光秀! どえりゃあ 臭せえがや! なんやね このにおいは
 家康をもてなす事を なんやと思っとるんやね このどだわけが!
信長の味付けの好みを無視して 京風薄味に料理を用意した光秀の失敗
えっ 光秀様が御接待役を降ろされたのか?
光秀の決心がいつだったのか
五月二十六日明智光秀中国出陣 途中の愛宕山で連歌会を行う
ときは今あめが下知る五月哉
(今こそ土岐氏出身の私が天下を取る五月が来たがや) 光秀」
p.204-205

「一五八二年六月二日 本能寺
 信長はその前日 安土城から運んだ多数の名物茶器を
披露する茶会を開いた
茶湯御政道か 今頃は茶道具にかこまれて のんびり寝ているんだろう
 そばにいるのは わずかな人数の小姓と御馬廻
 私が信長を討てば 信長の天下統一に
 不満や不安をいだいている公家や堺商人や大名たちが
 支持してくれるにちがいない
大誤算
「是非に及ばず(しかたがない)」
 光秀謀反と知り信長は言い捨てた
茶道具が道連れか これじゃあ 松永[久秀]の爺様と同じだな
 質も量も 勝ったかな」
p.206-208

「信長様~~ 信長様が死んでしまったがや~~
 わっちは これから どうしたらええんや
 なあ 宗易~~
秀吉様が 信長様の夢を継がれる事が 御供養かと思います」
p211-212

「大きな声では言えないが 泥臭い田舎者と
 秀吉様を 軽く見ていた 私たちとは
 宗易さんは 目のつけ所が違う
 刀剣の目利きでいらっしゃるが
 お武家の目利きも名人でしたな」
p.215

「一五八三年九月
[山上]宗二が?
 秀吉様のご機嫌をそこねて追放になりました
 不器用なやつだ!」
p.225

「だんな様?
 宗二! おまえは がんこすぎる!
 秀吉という 権力者の そばに仕える意味がわかっとらん
 私たちは 道具も持たない 知恵も経験もない
 何もない 貧乏人の侘び茶を やりたいのではない!
 秀吉のそばにいれば どんな名物茶道具も
 茶の湯巧者の名も自在だ
 名物贅沢を 山ほど見てから始まる 侘び茶の深遠を
 追究したくはないのか 宗二!
 権力者は利用しろ 秀吉の機嫌はそこねるな!
 だんな様は ご自分に 言い聞かせて いらっしゃる
 翌年六月 津田宗及や住吉屋宗無の
 とりなしで宗二は秀吉に許される」
p.226-227

「一五八五年七月十一日
 秀吉関白就任
九月下旬 「利休居士号」正親町(おおぎまち)天皇より勅許
 禁中茶会に秀吉の後見で参内できるよう
 有位の僧になる必要があった
十月七日 禁中茶会
 利休(宗易)は大徳寺の春屋和尚に禁中茶会の様子を報告
 「一世の面目これに過ぎず候」
 身に余る光栄なことだと手紙を書いている」
p.240

「なあなあ 宗易… いや利休 あのな 今度はなあ
は? 黄金で?
頼んだぞ 利休!
黄金の… 茶室? 組み立て式の黄金の茶室か…
十一月二十日 秀吉は大坂城内の
「黄金の茶室」を毛利の使者に見せ 利休に茶をふるまわせる」
p.241-244

「一五八六年四月五日
 大友宗麟 秀吉に島津の討伐をたのみに来て大坂城を見物
「内々の儀は宗易…
 宗易でなければ 誰も秀吉様に意見できる人はいない…」
利休は細川幽斎と連名で
島津の家老に大友との和睦勧告状を送る
利休の権力は絶頂期であった
同時に茶人として 矛盾が膨らんでいく」
p.247-248

「この頃の利休の手紙には いろんな茶道具の
 目利き鑑定結果の返事がたくさんある
 人々が利休に価値判断してもらう時代だった
そして「宗易形ノ茶ワン」「今ヤキ茶ワン」が登場する
 "目利き利休" は超高級ブランド品となる
利休が焼かせた茶碗や茶道具が大流行する
茶道具の値段は利休が決める 名誉ではあるが 危険」
p.249-250

「一五八六年
 十月二十三日
 大和郡山の尾崎喜助の茶会に
「今ヤキ茶ワン」が用いられる(松屋会記)
 いかがですか?
 ああ いい赤が出た
 黒は…
 もっともっと 無に近づけてくれ
 もっと柔らかく ゆったりと深く
 すべてを包み込むような おおらかな無作為」
p.254-255

「十月二十八日
 博多の豪商神屋宗湛[1551-1635]
 唐津より上洛の旅に出発
 十二月三日
 神屋宗湛
 大徳寺で古渓を導師として法体となる(宗湛日記)
 宗湛は堺で年末をすごし 連日 堺茶人の所をめぐり
 茶の湯修行をした 宗湛日記のお道具メモは
 道具の様子だけでなく 由来や価値、宗易目利きなど
 勉強熱心で詳しい
 家康様と和睦成立で 今度は 九州征討ですからね
 博多商人たちには いろいろ働いてもらう事になる」
p.256-257

「十二月十九日
 秀吉 太政大臣に任ぜられ 豊臣秀吉となる

 一五八七年
 正月三日
 大坂城にて関白様御会
 神屋宗湛のための茶会や たんと もてなしたるわ
 宗湛を 筑紫の坊主と呼び
 四十石の茶壷の茶や新田肩衝の拝見など特別扱いされる」
p.261-262

「一月十二日
 宗湛日記に 利休との対話を 御雑談として
 十二項目のメモを残している
 赤ハ雑ナル ココロ也 黒ハ古キ ココロ也
 え? どういう意味でしょうか?
 赤い色は雑念が一杯
 黒い色は 長い年月を
 侘び茶の道に 精進する気持ち」
p.265-266

「一五八七年
 三月一日
 九州遠征軍出発
 五月三日
 島津義久降伏 剃髪して秀吉に拝謁した
 博多筥崎は堺に劣らぬ豪商が多かったが
 十余年に及ぶ戦乱で 荒れ果てていた
 秀吉は
 神屋宗湛、島井宗叱を筥崎茶会に呼び
 博多復興に尽力させる」
p.267-272

「宗二は秀長[秀吉異父弟]茶頭の地位を捨て
 脱サラして高野山に入り 『山上宗二記』を書く
 どうしても高野山へ行くのか?
 はい 秀長様のお茶頭は これでやめます
 私も 地位も名誉も 投げ捨てて 隠遁生活をしたいな
 秀吉様は お許しにならんでしょう
 死ぬまで茶頭か…」
p.268-269

「利休の弟子として有名な
 細川三斎[忠興。幽斎長男]と
 古田織部は 互いに違う方法で 利休に習う
 織部は「利休の革新」をも 「革新」して
 利休とは別の世界を創造した
 利休のあと 秀吉の要求にしたがって
 大名茶を考案 利休の静に対し 大胆な動中の美を求めた
 細川三斎は 「利休の革新」を大事にし
 すぐれた師匠に似せる事が大切とした
 利休の茶の湯を忠実に習い守る事を一番にした」
p.276

「北野の天神さんは 唐国へ渡らせてくれる
 神様やそうやで わっちはいずれ
 朝鮮 唐国にも行くでね
 前田玄以[、石田三成]たちと協力して盛大な茶会にしてちょ
 利休 利休 なんでも利休が中心になる
 目障りな茶頭だな」
p.278

「一五八七年十月朔日(ついたち)
 北野大茶湯は利休一族が中心になっていた
 秀吉の茶頭になった息子の道安のほか
 養子で娘婿の少庵 円乗坊 万代屋(もずや)宗安ら
 娘婿たちが ずらりとオープニングセレモニーに並んだ
 北野茶会は利休の会ではありません
 上様の大茶会でございます
 何が気に入らんのや
 上様に必要な茶頭はもう
 利休ではないことを お気づきでしょう」
p.281

「山里にひとりもの思う夕暮れは風よりほかに訪う人もなし
(利休書簡)
 秀吉は[宗湛を]気に入ると
 片時もはなさない 子供のような人だ
 利休の 絶対的な権力は 終わりかけていた」
p.286

「なんや 朝顔の茶事という案内なのに
 一輪も 咲いとらへんがや
 さすがの利休も 思い通りに咲かせる
 花咲爺さんにはなれんかったか
 さてと
 利休め…
 たった一輪の朝顔か
 華麗過剰を喜ぶ わっちを
 田舎もんと あざ笑うか
 お前の 極限まで 削ぎ取れる
 美意識がにくたらしい」
p.289-290

「一五八八年
 古渓宗陳[大徳寺住持]は
 前田玄以や石田三成たちともめ
 秀吉を怒らせて 筑前太宰府へ配流になった
 流された先で
 神屋宗湛と島井宗叱が築いた大間庵に住んだ
 流刑とはいえ 丁重な扱いを受けた」
p.294

「一五八九年一月
 利休は大徳寺聚光院に 永代供養米七石を寄進し
 菩提寺と定める
 また以前から 大徳寺山門の修築を 開始していた
 利休の美意識で 大普請が行われた
 まるで 極楽行きの準備を
 お始めになったみたいですね」
p.296-297

「五月二十七日
 淀君
[1567-1615 浅井長政長女、母は織田信長の妹]
 鶴松君出産
 茶々も大人になりました
 ひゃっほーっ
 おめでとうございます
 上様は 生まれ変わったように 若返られましたな
 お前みたいに あちこちに 娘や息子を 持っていると
 わしの喜びも わかるまい
 やっとさずかった子だ かわいい かわいい
 ところで
 わかった わかった 古渓の事だろう
 許してやる 早く迎えを出してやれ
 利休の尽力により 古渓の配流は赦免になる」
p.299-300

「秀吉が鶴松誕生で
 生きる喜びに満ちあふれている時
 利休は静かに
 墓を整え死の準備をしていた」
p.302

「一五八九年
 さあいよいよ 北条[氏直]征討やでね
 富士山見物 さしてもらうわ
 もちろん 利休も いっしょに行くんやぞ
 富士の山麓で 茶の湯じゃあ」
p.304

「一五九〇年
 三月朔日(ついたち)
 秀吉出発
 北条氏に身を寄せていた山上宗二は
 皆川山城守広照に「伝書」を伝授
 広照と宗二は
 富士山陣中の細川三斎のもとに駆け込んだ
 四月十日付で
 利休は秀吉の祐筆(書記)を勤め
 小田原陣の様子を知らせる手紙を 大政所に送っている
 皆川山城守が百人ばかりで逃げ込んで来た事も書いている
 その中に宗二もいたのだが…
 秀吉に 広照は許されたが 宗二は死刑となる
 秀吉から台子の点前を 命じられ拒否したとも
 スパイに失敗したとも 理由は不明である
 秀吉の命令と 自分の美意識との
 バランスを保つのが上手かった利休
 不器用に がんこで意固地だった宗二」
p.306-307

「韮山の竹で 花入をつくってみました いかがですか
 ガッ
 宗二を殺した事を 責めているんだろう
 利休!
 その竹の割れ目は不吉だ!
 刃傷を思わせる!」
p.311-312

「利休はこれを少庵[養子で娘婿]の土産に持ち帰った。
床柱にかけ花を生けたら水がもれた。
客が畳がぬれるといったら
「此水のもり候が命なり」と答え
園城寺(三井寺)の割鐘によせて銘「園城寺」とする。
のちにヒビは金粉で塗りつぶした。」
p.313

「一五九〇年八月十七日
『利休百会記』の記述始まる 利休晩年の茶会記録。
原本がなく誤写が多い。
翌年閏正月の徳川家康を客とする会まで、
九十三会ほぼ毎日記録されている。利休の直筆ではなく
弟子の誰かの記述と言われる。
古田織部という説もある。」
p.316-317

「九月十日 利休の聚楽邸昼会
 神屋宗湛ら招かれる(宗湛日記)
上様は 黒茶碗は お嫌いです 瀬戸物に変えます
「赤ハ雑ナルココロ 黒ハ古キココロ」と宗湛に教えた利休だが
 今は秀吉の好みを まるで遺言のように伝える
 利休は 若い宗湛に 自分の侘び茶を伝えようとした」
p.317-319

「一五九一年
一月二十二日
 利休と秀吉の緩衝地帯だった
 秀吉の弟の秀長が五十二歳で病没する
一月二十六日
 利休と秀吉の最後の茶
 織田有楽[信長の弟]相伴
唐御陣の お供は お許し下さい
利休!」
p.322-325

「もうすん 宗易が おんさるで
 座敷を一つ 工夫してまう つもりや
秀吉の金の茶室 ゴージャスさが
 もひとつなんだなあ 私なら
信長様と 松永[久秀 住吉屋宗無の実父]…様?
宗無 気にしやすな 利休は こっちへ 来たがっとるで
お前はそのまま 世俗にまみれて生きよ
 長生きしろ わしの夢は百二十年 生きる事じゃった」
p.331-332

「一五九一年二月
 秀吉はまだ 本気で利休を
 殺すつもりではなかった
 利休め なかなか あやまりに来んな
 イライラ
 あらゆる手をつくして 秀吉の前にひれふせば
 利休は許された
 なんで来んのや わしに謝罪する気がないのか
 何かが 利休の中で そうさせなかった
 これ以上 秀吉に頭を下げても
 もう おもしろい茶の湯はできん
 秀吉の好きな茶の湯は
 私が 逃れようとあがいてきた
 古臭い 形式ばった茶の湯だ
 貧乏育ちの成り上がりが
 必死で身を飾る滑稽さは
 名物茶道具欲しさに
 汚い商いもやってきた
 若い頃の私自身の
 鏡を見るようで
 ほとほと うんざりだ
 金の茶室 美しかったなあ
 金は好きだ だが そういう自分は嫌いだ
 金だろうが 木屑だろうが
 まどわされない自分には ついになれなんだ
 謝罪はしない
 利休!
 死が望みか
 ほんなら かなえたる!
 切腹や!
 なんでやね なんで頭下げんのや
 利休!
 あやまりゃ 許したったにぃ
 黒茶碗でもなんでも 許したったにぃ
 わっちを 捨てるな!!」
p.347-354

「お茶の稽古というより、
おまんじゅうや金平糖の食べ方の練習を、
十数年してきただけの私が、
千利休のまんがを書いてみませんか?
 というお誘いを受けたのは1998年の秋でした。
 …
 最初の企画では、しかるべき監修者をお願いして
マトモな作品にするはずだったのですが、私の力不足で、
最初の出版社での出版準備はいったん中止になりました。
手元に残った、監修無しで好き勝手に作った
まんが「千利休」は、いいかげんなモノではありますが、
それなりにカワイイ出来なので、
お蔵入りは淋しいことでした。
 … 
千利休の『芸術』は書けていません。
史実と虚構や伝記をまぜて、
一つの物語にまとめました。
まんがという手に取りやすい形で、
「千利休ってどんな人なのだろう」
という謎を解く、一歩にしていただけたら幸いです。」
p.972「あとがき」

清原なつの作品リスト
http://www8.plala.or.jp/colo/natuno.htm
清原なつのコミックス一覧
http://www8.plala.or.jp/colo/natuno2.htm
による全作品発表年月順読み直し
第102作まで進行中。

読書メーター
清原なつのの本棚
登録冊数28冊
https://bookmeter.com/users/32140/bookcases/11091278

『芸術新潮』
2008年3月号
特集 樂吉左衛門が語りつくす茶碗・茶室・茶の湯とはなにか
村田珠光(じゅこう 1423-1502)
織田信長(1534-1582)
千利休(1522-91)
古田織部(1544-1615)
本阿弥光悦(1558-1637)
清原なつの(1956.8.8- )による肖像画
https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/pfbid02zSUDf2YbANgxS7BWjrs7AGZ523n1ntKdETwifAURjhMqUkPnwEwCNpwyriYiDxLql

昨日拾い読みした雑誌記事。 『芸術新潮』2008年3月号 大特集 樂吉左衛門が語りつくす茶碗・茶室・茶の湯とはなにか 新潮社...

Posted by 山本 鉄二郎 on Thursday, January 24, 2019

https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/pfbid0BEuEMyWB9tZrNmHZvix8KJuQLLCYCD46SwA5v5DkgqQv3PArQC7JedpxBNByccNwl

昨日拾い読みしたマンガ。 清原なつの『花岡ちゃんの夏休み (ハヤカワコミック文庫)』早川書房 2006年3月刊。 https://bookmeter.com/books/568287...

Posted by 山本 鉄二郎 on Monday, November 13, 2017

https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/pfbid0ruQqhwMbRE2dUjCndSEgA1kx3QPo1jMdzhrN2UAdhwR8MjficCGPdULmUL57Tt9Tl

昨日拾い読みしたマンガ。 清原なつの『花岡ちゃんの夏休み (ハヤカワコミック文庫)』早川書房 2006年3月刊。 https://bookmeter.com/books/568287...

Posted by 山本 鉄二郎 on Saturday, November 25, 2017

https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/pfbid029KPy3q27repaC26phBjasnsBgCAzyCoSsUGVA6nf2H92K3YytGqLYEnNC1xrMm4Al


昨日拾い読みしたマンガ。 清原なつの『花岡ちゃんの夏休み (ハヤカワコミック文庫)』早川書房 2006年3月刊。 https://bookmeter.com/books/568287...

Posted by 山本 鉄二郎 on Friday, December 1, 2017

https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/pfbid02nxcfG8Hb46KPqVFgVjjq5vZUBxTZ5egMAjinqwbKFLtJgcR3CP52h79LA6syHfVjl

九年前に読んだマンガ。清原なつの 『花岡ちゃんの夏休み (ハヤカワコミック文庫)』 http://goo.gl/pPs3AM #bookmeter 早川書房...

Posted by 山本 鉄二郎 on Thursday, February 26, 2015


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