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不屈の精神 3年 小林粋


皆さんこんにちは。今回ブログを書く機会を頂きました 3年 小林 粋です。

さっそくですが簡単に自己紹介を。。。
小学生時代は「でかい・速い・強い」無敵のレフティー?爆発ストライカー?なんて言われていた時代もありました。大学生の今となっては(梅津君からの紹介にもありましたが)自慢できるのはでかいケツ。コーチからも褒められるほどの立派なものです。ちなみにユニホームのズボンは破けたままです。。。これも長引くリハビリの賜物?チャームポイントとしておきましょう。
プレイスタイルは小学生から時代から敬愛する本田圭佑選手でしょうか。当時はスパイクまで一緒にしていました。

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さて、僕が東洋大学を選んだ理由。。。と言っても正直なところ当時の僕には大学を選ぶという選択肢はありませんでした。怪我のためセレクションどころか練習会さえ参加できずにいた僕は所属する大宮アルディージャと提携している東洋大学に縁あって入学することができました。

僕にはこれまでブログを書いてくれたみんなのような語彙力のある文章が書けそうにありません。
しかし、今怪我でリハビリ中の人、思うようにサッカーができずもどかしい思いをしている人、そんな人へ怪我でもがき苦しんだ自分だから書けること、自分にしか伝えられないこと、想いや経験をここに託したいと思いますのでよろしくお願いします。

さて、これを読んで下さっている皆さんは幼い頃、自分の大学生になる姿や20歳になる姿をどのように思い描いていましたか?僕の思い描いていた20歳の姿はもちろん、幼い頃からの夢であったプロサッカー選手として活躍している姿でした。しかし現実は怪我ばかりのとても厳しいものでした。

「前十字靭帯断裂、全治6ヶ月から9ヶ月」

この日から僕のサッカー人生は大きく変わりました。中3のゴールデンウィーク最終日。
初の全国大会を終えた翌日の関東リーグ。全国大会で良い結果を残すことができず、気持ちを切り替え新たな思いで挑んだ試合の後半に僕は怪我をした。ゴール前でキーパーと接触。その時左膝が「ボキッ」と鳴ったのは今でも鮮明に覚えています。ようやく立ち上がれたもののアレ?何か変だぞ。利き足の左膝に力が入らない。走れない。踏ん張れない。歩くのもやっと。今まで経験したことのない感覚。
それでもこれまでのサッカー人生、たいした怪我もしてこなかった僕は少し休んだらすぐに復帰できるだろう。そう考えていました。

あの時までは。。。

3日後、病院での精密検査。その後、主治医からまさかの告知。その瞬間僕の頭は真っ白。何も考えられない。何の言葉も涙すら出てこない。

なぜならこの怪我はサッカー選手が最も避けたい怪我の1つであることを僕は知っていたからです。

復帰するためには手術と3週間以上の入院が必要。
そう主治医から伝えられた最後に「今は何も考えず、この怪我を受け入れることだけでいい。」そう言われ診察室を出たことだけをなぜか今でもはっきり覚えています。
その直後、僕は急に不安や恐怖、色々な感情が溢れ出してきました。
入院だと?手術?勉強は?学校は?そして何よりチームのこと。
「こんな大事な時に何やってんだよ俺。」自分を責めた。
これまでサッカー人生12年、ボールを触らない日なんて1日も無かった。
そんな生活が僕には恐ろしく想像もできませんでした。

そんな滅茶苦茶な精神状態の中、病院から家に帰る車の中でなぜか心は不思議と前を向いていったのです。
「絶対に復活して全国制覇してやる‼」

1日でも無駄にしたくないと思った僕はすぐに手術日を決めてもらい、ちょうど怪我をした1ヶ月後の6月5日。左膝前十字靭帯再建手術を受けました。
手術はだいたい3時間。麻酔が切れるまでは全然余裕で過ごしていましたが、麻酔が切れた後の眠れないほどの激痛。。。もう忘れちゃいました。(笑)

翌日、自分の足とは思えないほどに腫れあがった左膝を見て、本当に元に戻れるのかと不安に襲われました。しかし、そんなことを感じさせてもらえないような、忙しく厳しいスパルタのリハビリの毎日。歩くことから始まるイチからのスタート。そんな中、柔道で同じ手術を受けた大学生と仲良くなったり、南アフリカW杯の開催中ということもあり夜中にこっそり試合観戦をしたり、リハビリの先生に勉強を教えてもらったり、今思えば入院生活はアッと言う間に過ごせていたようです。

またコーチやスタッフ、学校の先生、たくさんの人が毎日のように会いに来てくれたのも楽しみの1つでした。そして何よりチームのみんなが試合で疲れた後にわざわざ病院に立ち寄ってくれたのには申し訳なさ半分、でも嬉しくて涙が出そうでした。
早く復帰してみんなのところへ戻りたい。ユニホーム着てピッチに立ちたい。改めて強くそう思う自分がいました。

その後、ユース昇格を受けたもののジュニアユースで9番のユニホームを着ることは一度もありませんでした。

そして高校へ入学、ユースとして寮生活を始め国体にも出場でき、充実したサッカー生活を送っていた高1の冬。新体制が始まった矢先のことでした。忘れもしない12月16日の練習中、接触でもなくジャンプの着地ミス。自分にしか聞こえないアノ音が聞こえたのです。その瞬間また同じことが起きたことを実感しました。今度は右膝でした。

現実を信じたくない僕は病院で診察を受けるまでの腫れが引く5日間、何とか無事でいてくれと願うことしかできませんでした。
結果はまたもや前十字靭帯断裂。
冷静に話をしてくれた主治医の元を離れたた瞬間、僕の心は壊れた。人目を気にすることもできず病院中に響きわたるような大声で泣きわめいた。
しかし、今思えばこの時の時間が無ければ僕のサッカー人生はここで終わっていたのかもしれません。少し気持ちがスッキリしたのか、翌日からは年明けの手術に向け少しずつできることを始める自分がいました。

2回目ということもあり、何もわからなかった1回目ほどの恐怖などは無く正月明けすぐに右膝前十字再建手術と1回目の左足のボルトを抜く抜釘と両膝同時に手術を受けました。

術後のリハビリも順調に進み半年後の高2の夏。
試合にも出られるようになり完全復活してから1ヶ月後の8月24日またもや練習中の接触でした。
何でまた?何でオレ?何で?何で?自分を責め現実を受け入れられず全てを否定する毎日。
3回目の前十字靭帯損傷なんて。しかもまだ1年も経っていない2回目の右膝。
僕の心は完全崩壊。もうこれで終わりだ。。。周りもさすがにそう思っていたに違いない。
このまま何もせずにチームを去るのか。かわいそうな奴で終わりか。やりたいこと。。。何もできてないじゃないか。。。

幸い何とか保存治療が可能だったため、稀に自然と治ることもあるという僅かな奇跡・希望を持ちリハビリを続ける毎日。しかし診察のたびに落ち込む自分。何とかサッカーはできてもいつどうなるかわからない爆弾膝ではボールを蹴るのも接触するのも正直恐ろしかった。そんなサッカー生活を送ること4ヶ月。

高2の12月20日リハビリ中にまたもやジャンプからの着地失敗。完璧にやってしまったことを実感した僕は悲しさ悔しさ通り越したのか涙すら出ない。
それと同時にもう時間が無い、迷いはない。これが残されたラストチャンスだ。手術を受け思いっきりサッカーしてやる。年が明けたすぐの1月4日に右膝前十字靭帯再々建手術を受けました。
今までの方法とは違い、自分の骨を使っての手術。3回目ともなると手術も入院生活もリハビリも熟知していると思いきやこの3回目が1番痛みと辛い出来事と戦う日々でした。

この3回目の手術と入院生活での忘れられない思い出が2つありました。
1つは入院中に発表された新体制での背番号。ユースに入りこれまで何の結果も残していない自分には番号なんて。。。と、あまり気にしていなかった自分に与えられたのは「11」
待っていてくれる人がいるんだ。それだけで気持ちが上がった。何が何でも復活してやる。
そして2つ目は僕のサッカー人生の大きな転機となる出会い。トレーナーの存在でした。
今の強靭な身体、そして精神を一から作り直してもらった恩人です。

1日でも早く復帰したい。試合で結果を残さないことには先は無い。焦る気持ちを押し殺しながらひたすら続けるリハビリ。
しかし、公式戦に1度も出場することなく僕のユース時代は終わりを告げました。
「11」のユニホームを着たのはただ1度だけ。最後の公式戦の前の週に行われた練習試合。高2の夏にユニホームを着てから462日目のことでした。
選手交代で呼ばれピッチに入る時のこと。メンバーをはじめコーチ、周りのみんなが拍手をして送り出してくれたのです。僕は鳥肌が立った。その時のことは今でもこれから先も絶対忘れることはない。そして今でもその時のことが僕を熱くさせる。

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3回も大きな怪我をするとかわいそうに。大変だな。辛いな。頑張れ。などと気を使って声を掛けてくれる人もいました。しかしその頃の僕は「何言ってんだこいつら。全然かわいそうなんかじゃないし。」とか試合中にメンバーの中途半端なプレイや日常生活を見ていると腹立たしく思うことや逆に羨ましく思うことも。孤独で辛く長いリハビリ生活の中では何度も自分を見失いそうになることもありました。

それでも諦めずにここまでこれたのは
「単純にサッカーが好き、仲間とサッカーするのが大好き」
ということです。
決して孤独なんかじゃなく寄り添ってくれる人、待ちわびてくれる人の存在があるということ。
そして
「3度も甦らせてもらったこの足で今まで支えてくれたたくさんの人達に新たな自分で恩返しをしたい」
その想いが今僕がここにいる理由です。

怪我で支えてもらう側から支える側になって気付いたこと、苦しい思いをしたから気付いたこと、そして悔しい思いをしたからこそ学んだこと。

それは何気なく当たり前に過ごしていた毎日が何事にも変えられないということ。
そうです。まさに新年度、新チームで動き始めにばかりに起きたコロナウイルスによる活動休止も。怪我以外でサッカーができない日が来るとは思いもしませんでした。

だからこそ自分と同じ思いをしている人や、そうでない人達にも伝えたいのです。
何気ない毎日を思いっきりやり切ってほしい。思いっきり生き抜いてほしい。
こうしていれば。。。ああしていれば。。。など絶対に後悔はしてほしくないのです。
諦めず、少しでも前に進めば必ずチャンスは訪れます。
その限られた時間の中で、チャンスを掴むのも人や社会から信頼を積み重ねるのも自分次第という事も。

今回、初めて自分の今までの経験や想いを打ち明けることができたこのブログにとても感謝しています。
今までの経験を絶対に無駄にはしないよう、そんな自分だからできることをしっかりこれからの人生にも役立てていければと思っています。

「やってやれないことはない やらずにできるわけがない」
「Endless  Challenge」

2014年5月6日 左膝前十字靭帯断裂(中3)
6月5日 左膝前十字靭帯手術
2015年12月16日 右膝前十字靭帯断裂(高1)
2016年1月14日 右膝前十字靭帯手術
12月20日 右膝前十字靭帯再再断裂(高2)
2017年1月5日 右膝前十字靭帯再再手術

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東洋大学にお世話になるようになって早3年。
何も無かった自分をここまで成長させてくれました。
後はやるだけです。残された時間に全てを出し切りたい。
このチームのために。自分のために。そして支えてくれた全ての人のために。
何が何でも頑張ります。

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かなりの長文に。。。お付き合いいただき本当にありがとうございました。


次回は、
・和歌山が生んだ何でも全力MG
・グランドを駆け回る姿は選手以上???
・東洋が生んだマシンガントーク

僕たちの学年で唯一のMG神谷真由香がお届けします。
お楽しみに!


東洋大学体育会サッカー部  3年  小林粋

小林粋(こばやし・いき)  1999年7月28日生まれ
東京・清瀬VALIANT→大宮アルディージャJr.ユース→大宮アルディージャユース


#東洋大学 #fctoyouniv #小林粋

#僕が東洋大サッカー部を選んだ理由

#東洋サッカー部のいいところ

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