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【コラム】ジョアン・パリーニャとバイエルン、3度目の正直

Man sieht sich immer zweimal im Leben
「いつも人生では2度は会えるものだ。」

2023年9月3日に行われたグラードバッハ戦前のインタビューでFCバイエルンCEOであるヤン=クリスティアン・ドリーセンはこう言った。

この2日前である9月1日、FCバイエルンはフラムからジョアン・パリーニャの獲得に動いていたものの移籍期間の期限に間に合わず、取引が破談となっていた。パリーニャはミュンヘンに到着し、メディカルチェックを終え、公式発表用の写真撮影も完了し、フラムからのゴーサインを待っていた。移籍の条件は残された時間内でフラムがパリーニャの後任選手を獲得することだったが、パリーニャの後任選手が見つかることなくドイツの移籍市場は期限を迎え、パリーニャは失意のままミュンヘンを後にした。

FCバイエルンが本格的にパリーニャ獲得に動いたのは移籍期限の3日ほど前だった。期限内に仕事を終わらせることで知られるクラブが、なぜこれほど失敗したのか。それにはいくつか理由がある。

スポーツ委員会の設立

ウリ・ヘーネスとトーマス・トゥヘル

リーグ戦最終節のケルン戦で逆転優勝を決めたバイエルンは、2017年からSDを務めていたハサン・サリハミジッチとCEOを務めていたオリバー・カーンの解任を発表した。後任にはザルツブルクのSDであるクリストフ・フロイントが就くことになったが、それは移籍市場終了後の9月1日からだった。
クラブは夏の移籍作業を進めるため、Ausschuss Sport - アウスシュース・シュポルト(スポーツ委員会)を設立した。メンバーはウリ・へーネス、カール=ハインツ・ルンメニゲ、ヘルベルト・ハイナー会長、マルコ・ネッペTD、ヤン=クリスティアン・ドリーセンCEO、マイケル・ディーデリッヒCFO、トーマス・トゥヘルの7人で構成された。

この夏、トーマス・トゥヘルは歴代のバイエルンの監督より強い権限を持っており、選手の入退団を承認することが出来たが、7人のスポーツ委員会との作業は遅く、度々複雑なプロセスとなった。トゥヘルは、9番と6番の獲得に向けて努力していたが、メンバーの1人は別の意見を言い、また別のメンバーはプロセスにブレーキをかけた。
そのため、パリーニャなどの獲得失敗後にトゥヘルは「これは大胆なチーム構成だ。今シーズンのクラブの目標に対して十分かどうか見てみよう。」と皮肉を込めて言ったのだ。かく言うトゥヘルも日によって選手獲得のリクエストが違ったようだが。

2023年夏の移籍期間

多くの労力と移籍金を費やしたケインの獲得

SDの不在でスポーツ委員会が設立されたが、2023年の夏の移籍期間は順調にスタートしていた。RBライプツィヒからコンラッド・ライマーをフリーで獲得し、ドルトムントからラファエル・ゲレイロを同じくフリーで獲得した。また、リュカ・エルナンデスの後任選手としてナポリからキム・ミンジェの獲得に成功した。

しかし、バイエルンがハリー・ケインの獲得に動いたことで事態は複雑化した。ケインを獲得するのに要した労力と資金の多さから、スポーツ委員会はトゥヘルの6番獲得の希望を後回しにしたのだ。バイエルンには、トゥヘルが希望していたデクラン・ライスのような選手を獲得する資金はなく、トゥヘルが望むような6番タイプの選手の必要性をクラブの全員が十分に理解していたわけでもなかった。
バイエルンのボスであるウリ・へーネスは「コンラッド・ライマーは我々にとって大いに楽しみな選手なので、6番の獲得は私にとっては問題ではない。」と8月初めに語った。しかし、トゥヘルの見解は異なり、ライマー、ゴレツカ、キミッヒはいずれも「8番」であり、「6番」ではないと公の場で語った。

6番問題について内部の議論が決着が付かずに続く中、バイエルンはDFのヨシップ・スタニシッチをレヴァークーゼンにレンタル移籍させることで同意した。シャビ・アロンソのような優秀な監督の下で出場機会が得られるという点では、この決断は十分に理にかなったものだった。それは契約が残り1年となっていたベンジャミン・パヴァールが契約を延長せずとも残留すると考えていたからである。
しかし、スタニシッチのレンタル移籍が決定した後、パヴァールに残留の意思がないことが判明し、クラブはすぐに後悔することになった。パヴァールが不満を溜め込んだため、トゥヘルはインテルへの移籍を承認した。トゥヘルは「パヴァールが去ると知っていたら、スタニシッチを手放すことはなかっただろう。」と認めている。

インテルに移籍したパヴァール

パヴァールの移籍公式発表は8月30日で、バイエルンは期限内でのDFの獲得が急務となった。トゥヘルはチェルシーで一緒に働いた経験のあるトレヴォ・チャロバーを推薦したが、バイエルンはチャロバーの実力に納得せず、レンタル移籍しか検討しなかった。チェルシーは完全移籍での売却を望み、バイエルンの熱意の欠如が相まって、期限が迫っていたにもかかわらず、取引はまったく進展しなかった。
サウサンプトンのアルメル・ベラ=コチャプの場合も同様だった。バイエルンが本気でコチャプを追及できなかった、あるいは追及する意志がなかったため、移籍期限最終日に事態は沈静化してしまった。さらにはジョアン・カンセロの復帰にも取り組んだが、彼は既にバルセロナへの移籍を決めていた。その中途半端な試みの結果、結局DFは獲得できなかった。

8月29日にかねてより移籍を仄めかしていたフラーフェンベルフが移籍に向けて急速に動き出した。フラーフェンベルフは移籍先にリヴァプールを選び、獲得時の約2倍となる移籍金でクラブ間合意に至ったことで、後回しにされていた6番の獲得の道が開かれた。その6番に選ばれたのがジョアン・パリーニャだった。
9月1日にフラムと€65mの移籍金で合意し、パリーニャはミュンヘンに到着していたが前述の通りフラムがパリーニャの後任選手の獲得が出来ずに取引は破談した。取引の破談後、バイエルンは冬に向けてDFの補充と6番獲得が課題として残り、バイエルンの幹部は1月の移籍市場でパリーニャ獲得を仄めかした。

なぜバイエルンはもっと早くフラムと交渉してこのような悲惨な結果を避けなかったのかと多くの人が疑問を抱いただろう。その答えはスポーツ委員会の遅い仕事ぶりと、トゥヘルとスポーツ委員会メンバーの方向性の違い、そしてスポーツ委員会の意思決定者の多さにあったのだ。ケインの獲得から半月以上の時間があったにも関わらず、獲得候補の選定に時間がかかり、トゥヘルと他のメンバーの意見が相違することが多かったため、何日間も時間を無駄にしてしまったのだ。

冬の移籍市場

クリストフ・フロイント


夏の移籍期間が終わり、スポーツ委員会は解散し、9月1日にザルツブルクから招聘したクリストフ・フロイントがSDに就任した。トゥヘルはフロイントと緊密に連携し、早い段階で1月にパリーニャ獲得に動くことで合意した。

一方で、パリーニャは移籍市場が閉まった2週間後にフラムと新しい契約を結んだ。この契約はバイエルンのアプローチの前からすでにテーブルにあったもので、彼の活躍にふさわしい昇給をもたらした。この新契約は直近での移籍の可能性を排除するものではなく、パリーニャのバイエルン移籍希望は変わっておらず、バイエルンもパリーニャ陣営との連絡は絶やさなかった。

冬の移籍市場が近づき、パリーニャはバイエルンが再度獲得に動き出すことを期待していたが、バイエルンの優先事項はDFの補充にあった。さらにユース出身のアレクサンダー・パヴロヴィッチが頭角を現し、ゲレイロが中盤起用されていたこともあり、1月が近づくにつれて冬の6番獲得の優先度は下がり続けていた。バイエルンはパリーニャに関心を持ち続けていたものの、冬に高額な移籍金を支払うつもりはなく、1月の中旬には冬の移籍市場では移籍は実現しないことをパリーニャ陣営に伝えた。この時、パリーニャはバイエルンへの移籍を人生最大のチャンスと捉えており、悲しみ失望したとされている。

2月にはパリーニャ獲得の原動力となっていたトーマス・トゥヘルのシーズン終了後の退団が決定し、パリーニャとバイエルンに関する噂も少なくなっていった。一方でバイエルンはトゥヘルの内部分析に遅れて同意しており、サリハミジッチの後任としてやってきたマックス・エバールやクリストフ・フロイントも、3年前に退団したハビ・マルティネスの代わりがいないと考えていた。23-24シーズンが進むにつれ、バイエルンは中盤での守備の堅固さが欠け、バランスの取れた組み合わせを見つけることに苦労していたこともあり、2023年の夏に多くのクラブ関係者が納得していなかった純粋な6番タイプの必要性を疑うものはいなくなっていった。

3度目の正直

新監督のヴィンセント・コンパニ

12年ぶりの無冠が確定し、トーマス・トゥヘルが去り、監督招聘に苦戦しながらもヴィンセント・コンパニを新監督に据えたことで2024夏の補強がスタートした。冬から春の間にレアル・ソシエダのマルティン・スビメンディ獲得の動きも見せていたが、これはシャビ・アロンソ招聘に伴う動きであったため、アロンソがレヴァークーゼン残留を決めた後、リストから外れていった。エヴァートンのアマドゥ・オナナなども候補に上がったが、最終的に選ばれたのはジョアン・パリーニャだった。パリーニャにとってはバイエルンに移籍する3度目のチャンスだ。

6月に入る頃にはパリーニャとバイエルンの間で個人合意が成立し、フラムとのクラブ間交渉がスタートした。フラムの要求は2023年の夏に合意した移籍金と同じ額である€65m-€70mほどで、バイエルンは€45m-€50m程度での獲得を望んでおり、EURO開幕までにクラブ間合意を得ることが目標だったが、ここから移籍金合意を巡って交渉が難航する。

6月9日に提出された1度目のオファーは€35m + add-onで、もちろんフラムは拒否したが、これはいわゆるオープニングオファーだ。2回目のオファーは6月11日に提出され、€42m-€45m程度の価値があったが、これもフラムに拒否された。バイエルンは法外な移籍金を支払うつもりはなく、€45m-€50mをラインとして設け、それでも合意に至らない場合はパリーニャを諦め、別の選手獲得に動き出す予定だった。

当初6月14日のEURO開幕までに合意する目標だったのが、気づけば6月も終わりに近づき、交渉は停滞していたが、パリーニャはバイエルンへの移籍を強く希望し、あらゆる方法を取り移籍を実現させようと働きかけていた。7月に入り、遂に交渉の突破口が開かれ、€50m + €5mの移籍金で大筋合意に達した。おそらくパリーニャ自身が移籍金を補填したか、契約にあるボーナス条項を破棄し、クラブ間の隔たりを埋めたのだろう。それだけバイエルンに移籍したかったということだ。

パリーニャの背番号は16番

パリーニャはポルトガル代表として参加していたEUROが終わり、次の日の7月6日にはミュンヘンでメディカルチェックを完了した。7月10日には再びミュンヘンに向かい、契約書にサインする予定だったがパリーニャ側とフラム側で明確にすべき詳細があったため、契約は予定より遅れてしまった。しかし、心配はない、移籍期間の期限までは約2ヶ月もある。
最終的にパリーニャは再びミュンヘンに来ることなく、そのままポルトガルでの休暇に入ったが、オンラインで署名を行い、バイエルンへの移籍が成立した。
そして7月10日にバイエルンへの移籍が正式に発表、過去2回の移籍期間で実現しなかったパリーニャのバイエルンへの移籍は3度目の正直で遂に実現した。

フラムの監督であるマルコ・シルバは2023年夏の移籍失敗時に、「彼の人生の中で最も厳しい日々の1つだっただろう。」と語ったが、約1年後の7月11日にジョアン・パリーニャは「私の人生の中で最も幸せな日の1つです。」と語った。

ジョアン・パリーニャという選手

ジョアン・パリーニャについて特筆すべき点は、彼が誰に対しても自分のプレースタイルを妥協しないということだ。試合中に見られる彼のプレースタイルは、チームメイトが毎回のトレーニングセッションで対峙するものと全く同じである。スライディングタックルの連続、デュエルの連続。友人であろうと敵であろうと、誰も例外ではない。

The Athleticのインタビューで元チームメイトであり、学校でも同級生だったフランシスコ・ジェラルデスは、「彼のタックルで100回は「洗礼」を受けました。時には本当に怒ったこともあります!彼はプロフェッショナルです。トレーニングのときは本気で取り組みます。だから友達であろうとそうでなかろうと関係ありません。」と語った。

パリーニャにとってタックルは生命線だ。彼は2シーズン連続で欧州5大リーグで誰よりも多くのタックルを成功させている。EURO2024のスロベニア戦では、HTまでに7回のタックルを行い、12回中12回のデュエルに勝利した。つまりバイエルンはワールドクラスのタックラーを獲得したことになる。フラムのケニー・テテは「ジョアン・パリーニャは私が今まで見た中で最高のタックラーだ。本気だよ。彼のタイミングは素晴らしい。特にスタンディングタックル。信じられない選手だ。」と語っている。
パリーニャはそのプレースタイルから猛牛のような人物像を思い浮かべるかもしれないが、彼は控えめで慎重な性格を持ち、フラムの同僚からはその真面目さでからかわれることもあった。「パリーニャは常に非常に集中していて、非常にプロフェッショナルで、チームでは非常に謙虚な人物でした」とThe Athleticのインタビューでジェラルデスは回想している。

パリーニャはサポーターにも愛される選手だ。
フラムでは、ピッチを囲む広告板を激しく破壊しながら、1人でホームサポーターと祝う姿が撮影され、その数週間後のフォレスト戦では、得点を挙げた後、アウェー側でサポーターと祝うために、看板を飛び越えた。
パリーニャはサポーターについて、「私は彼らの応援をピッチで発揮しようと努めている。それが私の姿勢だ。ファンが私の名前を歌うと、それは私にとってガソリンのようなものだ。」と語っている。

今夏の補強について「革命」ではなく、「進化」を求めていると語るマックス・エバールはパリーニャのメンタリティを高く評価している。"Mia San Mia"という独自のメンタリティを掲げるFCバイエルンにとってもピッタリな選手となるだろう。

パリーニャは7月9日に29歳の誕生日を迎えた。彼のキャリアは遅咲きで、バイエルンへの移籍は1年待たなければならなかったが、遂に人生最大の一歩を踏み出し始めたのだ。

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