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生きていると

とっても美味しい安倍川餅が食べれます。

ではなく

有り得ない馬鹿げた出来事が起きる。

何れも実生活には支障がない軽微なものだが、その体験と記憶が積もり積もっていくと漠然としたドス黒い糞玉に変わる。

これが精神衛生上、芳しくない。

この糞をどうにか解消できないものかと日々考えている。

元号が令和になってから碌なことが起きていないだとか、永遠の愛を神父の前で誓った二人が翌年には別れて親権で揉めているだとか、殺人を犯して終身刑になった人間が塀の中で充足した毎日を送って笑っているだとか、自分の好物が世界の何処かで貧困者が死物狂いで作り出したものかも知れないだとか、それら事実を知って消極的になってしまう世論の偏りだとか。

こいつらは実体を為して襲い掛かるパワーのある出来事だ。人間は弱い生物だから到底どうにもならない。これが、

洗車をしたのに即日に台風が直撃しただとか、恋人からプレゼントを貰ったのに死ぬほど要らないものだっただとか、奮発して寿司を食ったら寄生虫に中ったりだとか、気分が良いときに足の小指をぶつけたりだとか。

挙げれば切りがないが、起こりうる他愛も無い出来事が散見されてくるもの。重いものに比べれば糞の解決が気楽そうである。勿論、人によっては冗談で済まされない事もあるが。

ラブラブな夫婦が別れようが寿司食って食中毒になろうが他人事ならどうでも良い話題である。しかし、自分の身に訪れたらどうなるか、イメージや実体験を思い出して忌避する者もいるだろう。

上例をあげれば、夫婦仲の悪い家で生活を強いられている子供は最悪だ。愛情が欠落して非行するリスクが上がる。子を慮れば非情だと思うはず。 光り物に中たればアニサキスが恐ろしい。コイツは胃に入ると、人間の体温が高すぎる為、体外に脱出しようと内臓壁を食い破ってくる。これは笑えない。

このように極端な事象でも、境遇によって千差万別なのがなんとなく分かると思う。

軽んじてる事は無意識として流れるし、重んじてる事は気が気でないということだ。

キルケゴールは、人は知れば知るほど絶望すると言説しているが、気が気でない事柄が多様化していくと、先には絶望が待っているかも、ということになる。この絶望とやらを巨大な糞玉と捉え、日々の溜まった糞粒を少しずつ浄化処理するべきだと感じる。便意に近い。出したいから出すのだ。

普通ならば仲間と家族と酒食を交わして騒いでいれば解消できそうなものだが、それが出来れば何の苦労も無い。もどかしいことに、それはそれで新たな問題が生じてくる。不知の自覚さえ及ばない人は能天気そうでいい。しかし、それは飽くまで主観論に過ぎず、周囲の人らは苦悩している可能性もある。いや、皆同じ人間なのだから少なからず悩んでいるはずだ。こうなると自分が不知と言うことになってくる。だが、同じ人間ならば周囲の人らは悩んでいないかも知れないし、自分自身も悩みなんて本当は無いのかも知れない。なんだかヘンペルのカラス問題のような不毛に苛まれる。命題が糞のように溢れ出してくるからだ。

このパラドクスから脱するには笑顔で便通をすればいいのではないか。ニッコニコでうんこをすればいいんじゃないのか。前述した、浄化処理を不毛だと嘆かず、気楽に排していくのだ。トイレでリラックスしてうんこをするでしょう? 待てよ、痔持ちや大腸の病気を患ってる人は一大事か。いや、でもこれは比喩であるわけだし。なんだかよく分からなくなってきたが、一つの契機が出来たのは間違いない気がする。まあ、とりあえず

不条理、ありがとうございます。


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