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「焙煎してるお茶」2024年3月30日

叔母が家に遊びに来た。ミスドを買って来てくれたので、私がこないだ友達と行った中国茶カフェで仕入れた大紅袍(ダーホンパオ)という烏龍茶を振る舞った。

焙煎してるお茶なので、口にすると一瞬ほうじ茶とか番茶のように感じるんだけど、そのあと華やかな香りがして、そしてスッとした甘さがある。何煎でも飲めるのでお得でもある。

叔母には私がこないだ行った鉄道旅の写真とか、本棚を導入した私の部屋を見せるなどした。他にも色々なことを話した。


永井均『哲おじさんと学くん』(岩波新書版)を読み終えた。最後、このまま哲おじさんについて行ったら私の周りから(本当の意味で)誰もいなくなるんだろうっていう予感がして恐ろしかった。

永井均さんの本は好きで何冊か読んでいるけれど、いまだにすんなり読めない。すんなり読めないことが書いてあるからなんだけど…。理解しようとすると頭に引っかかる部分があって、そこを無理に行こうとすると却ってわからず、そのたびに頭の何かを外し緩めることで進めるようになる…というのが私の読み方になってる。

でも永井均さんの哲学の中心概念である独在性は、この私の読み方に重なる構造をしていると思う。世に存在する数多の「私」たちの中に、そこからだけ世界が開けているような「私」がただ一人だけ存在する…そういう特別なあり方をした奴、つまり「この・・私」という奴の備える独在性は、絶対に客観的に伝えることができない。

たとえその性質を言葉にしても、それを聞いた人それぞれにとっての「私」あるいはめーめ(私のここでの名前)にとっての「私」へと直ちに意味が変質してしまう。このようにすべての人に同じ意味で理解されるという意味での客観的性質に対して「いや、それはこの・・私だけが言えることで…!」と否定することでしか、本当に言いたいことが言えない(でも言ったらまた客観的意味になっちゃう、以下同様…)

この客観的理解と、そこからのはみだし(否定)という繰り返しがまさに、文章を読んでいる私にそのまま起こってる。だからただ文字を追うだけでは済まないようなスリルがあるというか、徹底的に素直(と言っていいのかな)にならないといけないというか…その難しさがある気がする。


溜まりに溜まりまくってた日記を数日分更新した。危うくnoteからフェードアウトしそうになった私の日記がすんでのところで息を吹き返した。これからはちゃんとします。多分ムリですが!

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