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占有(仮)

 ピンヒールがモルタルを削る。一定のリズムが耳に心地よかった。早く家に帰りたい。その一心で歩を進める。
 家は好きだ。私の家。あそこには、怖いものは何一つない。安心と暖かさで満ちている。世界で一番安全な場所。
 デザイナーズマンションと言えば聞こえはいいが、私はこの冷え冷えとした床は好きではない。この床の良いところは、靴音がよく響くことくらい。カラフルな扉は隣の部屋と自分の部屋の区別が付きやすいくらいの利点しかないうえ、無駄に装飾の多い手摺は不用意に触れればその飾りで手を傷つけてしまいそうだった。それでも私はこの部屋が好き。ここが私の家だから。
淡いブルーの扉の前で足を止める。部屋番号を見て、もう少し先の、別のブルーの扉へと向かう。部屋番号を見ると、《808》と書かれていた。
 手を握り締めて、硬い扉を三回叩く。二回ではトイレになってしまうから、きちんと三回。私の家にトイレは存在するけれど、私の家はトイレではないから。淡いブルーの扉をじっくり眺める。今日も私の家は平和らしい。
鍵を取り出して、鍵穴に差し込む。ゆっくりと回すと鍵が開く。扉を手前に引くと、すんなりと開く。
「ただいま」
 一歩、踏み出す。きちんと挨拶をして、私は自分の家へと帰る。
「今帰ったよ」
 ピンヒールが、玄関の床とぶつかりあって、音を立てた。

 私は社会人だ。社会人とは社会に出て働いている人間のことを指すのだろう。私は大人だから、こうして自分を養うために働いている。更に、養うのは自分だけではなく、私のペットも含めてのことだ。
「ただいま、帰ったよ」
 私の可愛いペットにも聞こえるように、何度もそう言いながら奥へと進む。外履きのハイヒールを脱いで、肌触りのいいスリッパへと履き替えてしまったから、こうして私の存在を示さないと、鈍いあの子は気付いてくれないかもしれないから。
 さらに、ペットは気まぐれだから、お出迎えがある時とない時がある。今日はどうやらお出迎えのない日らしい。だからと言ってご機嫌斜めかどうかはその日に寄る。疲れて寝てしまっている日もあるし、私のために色々用意してくれている日もある。いじらしくて可愛らしい。
「どこかな? もう寝ちゃった?」
 ミラくん? と声を掛けると、小さく返事が返ってくる。ワンともニャーとも付かない、文字にすると「んぁ」みたいな。可愛い鳴き声。
「ミラくん、ただいま。帰ったよ」
 私のペットは大人しくソファの上で丸まって、私の顔を見るとやんわりと微笑んだ。
「おかえりなさい、千夜」
「うん、ただいま」
 荷物を床に落として、勢いのままミラくんへと抱きつく。ミラくんの香りがした。小さな少年の、甘い香り。良い香り。
「一人で寂しかった?」
「そうでもないかな」
「私は寂しかった。可愛いミラくんに合えなくて、今日も外は地獄みたい」
 本当はずっと家の中にいて、ペットと二人で暮らしていたいけれど、そうもいかない。だって私は社会人で、大人だから。私がこうして働いている限り、ミラくんには贅沢な暮らしをさせてあげられる。それは今の私のモチベーションだった。
「晩ご飯は食べた?」
 首を振るペットに、きちんと意思表示ができて偉いと頭を撫でる。
「じゃあ、今から準備するね。ちょっとだけ待てる?」
「大丈夫」
「良い子」
 ミラくんの頭をもう一度撫でて、可愛いつむじにキスをした。ミラくんの毛も伸びてきたから、そろそろ切らないとならないかもしれない。自分の毛で怪我してしまったらいけないし、目の中に入ったりしたら痛い思いをするのはミラくん本人だ。
「じゃあ、美味しいの作ろうね」
 エプロンをして、キッチンに立つ。わたしのペットは好き嫌いを言わないから、餌には困らない。私と同じものを同じように食べる。シンクには、結構な量の食器が溜まっていた。そろそろ洗わないとならないかもしれない。
「そんなことより、今日もミラくんに食べさせる美味しいご飯を作らなきゃ」
 何を作ろう。何を作ったらミラくんは喜んでくれるのだろう。冷蔵庫を開いて、私は頭を抱えた。空っぽだった。

「泣かないで……」
「うええ、うぅ、ごめんねえ……」
「いいから、大丈夫だから」
 ミラくんのためにご飯を作ることができなくて、悲しくて、その場に蹲って泣いてしまった私を介抱してくれたのはミラくんだった。よくしつけられたペットだ。私が拾う前、この子がどこで何をしていたのかは知らないけれど、しっかりとしつけられていたことは確かなのだろう。もしかしたら、元々どこかで飼われていたのかもしれない。
「疲れたでしょう。お風呂入って今日はもう寝たら?」
「でも、でも、ミラくんのご飯が……」
「大丈夫」
「でも、お昼食べてないでしょ? お腹空いてるでしょ?」
「大丈夫」
 冷たい床の上で、泣き続ける私を抱きしめて、背中をぽんぽん叩いてくれるミラくんは、フランダースの犬や、忠犬ハチ公みたいに甲斐甲斐しい。犬も猫も人間が悲しい時には寄り添ってくれるものらしい。ミラくんもきっとそういうものなのだろう。
「でも、私はミラくんのご主人だから、ミラくんにご飯あげて、お風呂に入れてあげないと……」
「大丈夫」
「でも、でも」
「大丈夫」
 大丈夫と鳴くミラくんに背中を押され、立ち上がる。ミラくんは私をお風呂に入れることを諦めて、ベッドルームに直行するらしい。
「一緒に寝てくれる?」
「大丈夫」
 そう言って、少しだけ笑ってくれたミラくんが愛おしくて、彼をベッドに上げる。普段ならこんなことしないのに、今日は人肌恋しいのかもしれない。ミラくんは自分の寝床から枕と毛布を持ってきていた。
「ミラくん、大好き」
「うん」
 ミラくんは甘い香りがして、暖かい。心臓の音がする。幼い頃飼っていた、猫を思い出した。あの子も、こんな風に丸まって眠っていた。この子を迎え入れる前にも、何匹かペットを飼ったことがあるし、何匹ものペットとお別れしてきた。悲しかった時も、仕方が無い時もあった。どちらも、私を構成する大切な想い出たち。
「おやすみなさい」
 ミラくんを抱きしめる。ミラくんは猫みたいに喉を鳴らすことはなかったけれど、私の言葉を反復するように「おやすみなさい」と鳴いた。

 私の仕事は、他人の悩みを聞き、それに対する的確な答えを返すこと。他人の運命を予想すること。占い師として、売り出し始めて数年が経った。電話相談やメール相談の顧客は一定数から減ることはなかったし、私の占いがないと生きていけないとすら言ってくださるお客様もいる。社会人として、人の役に立っている自覚がある。誇り高い。素晴らしいことだと思う。
「先生、本当にありがとうございました。私、これからも頑張ってみます」
 とある地方都市のファミリーレストラン。平日の人気の少ない時間帯に、私はお得意様である女性と向かいって座っていた。女性の目の前に置かれたコーヒーは殆ど減っていないままに冷め切っていた。
「はい。頑張ってくださいね。きっと貴女なら大丈夫です。何もかも上手くいきますよ」
潤んだ瞳で、私に尊敬の眼差しを向けてくる女性の肩に優しく触れる。女性は嬉しそうに何度も何度も頭を下げた。パサついて潤いも艶もない髪が、動きに合わせて上下に揺れた。
「こんなところまで来てくださってありがとうございました。こちら、お納めください」
 テーブルの上に置かれた封筒を受け取り、中身を検める。ゼロが四つ描かれたお札が数枚収まっていた。
「また、何かあればいつでも呼んでくださいね」
 微笑んで、優しくそう言うと女性は感動したように両手を胸の前で組んだ。キリスト教の祈りのポーズのようだった。私は神でも何でもない、ただの人間なのに。頼られることに悪い気はしない。私は必要とされる存在であり続けられるし、この人は私に依存して幸福で生きていられる。誰も損しない、素敵なシステム。
 女性に軽く会釈し、ファミリーレストランを出る。右手に付けた腕時計を見ると、思ったより時間が経っていて、私は急いで駅に向かう。駅まで行けばタクシーを拾うことができるだろう。この後の予定を思うと、嬉しくてスキップしてしまうそうだった。
 こんなところまで来たのだ、少しくらいご褒美があってもいいだろう。予想通り、駅のロータリーに止まっていたいくつかのタクシーの中から、一番良いオーラを持っていそうなものを選ぶ。乗り込むと同時に、今日の目当てであるライブハウスの名前を告げた。

(楽しかった……)
 本日二度目のタクシーの中、私はうっとりと目を閉じた。ぎゅうぎゅうに客が密集したライブハウスの中、ステージの上でキラキラの笑顔を浮かべて歌い踊る男の子。きっと私を見て笑ってくれたと思う瞬間がいくつかあったし、手を振ったら振り替えしてくれた。パワーが増したように感じる。私はこれで明日からも皆を幸せに導く占い師として活動していける。
(可愛い、可愛い男の子……)
 ライブで会うのは初めてだったけれど、一目見た瞬間これは運命だとわかった。きっと私は彼と出会うために今日まで頑張ってきたのだ。触れ合うことができないのが少しだけ残念だけれど。夜景を見ながらそこまで考えて、一つのことを思い出す。
「ミラくん!」
 運転手のおじさんが、「え?」と声をあげる。
「知り合いでもいました? お客さん?」
「急いで‼」
「は?」
 鈍い運転手は何があったのかわからないと、ちんたら走り続ける。私にはこんなところで油を売っている時間なんて少しも無いのに。なんて酷い運転手だと憤っても、よくわからないという風に首を傾げるのみ。
「新幹線の乗り場まで!」
「こんな時間に? 今からじゃもう新幹線なんか乗れないですよ?」
「なんでも良いから! 早く!!!」
 運転席を後ろから揺さぶると、嫌そうに腕を振り払われた。
「乱暴にしないで!」
「それはお客さんのほうでしょう!? ここで降りてもらってもいいんですよ!?」
「酷いこと言わないで!」
 悲鳴を上げる。狭い車内で反響して、耳が痛い。私には今すぐに家に帰らないとならない理由があるのに。
「じゃあ、いいから××市まで連れていってよ! 帰らないとならないの!」
「そんなところ、今からじゃ朝になりますよ? お客さん、大丈夫?」
 運転手の言葉に、あまりに酷いと顔を手で覆う。今にも泣き出してしまいそうだった。酷い、なんて酷い。今頃私の可愛いペットが家でお腹を空かしているかもしれないのに。今すぐに私を家に連れて帰って。ただ黙って家まで運んで。私は声を上げて泣いた。足をじたばたさせると前のシートに当たった。幼い子どもみたいに、どうすればいいのかわからなくてただ叫んだ。
「うああああああ」
「ちょ、あんたどうしたんだよ!? 警察呼ぶよ?」
「うあああああああああああああああ」

 気がついたら、予約していたホテルの前に立っていた。泣き疲れて、泣きはらした顔で、どんな風にホテルへと入ればいいのかわからなかった。そもそも、チェックインできる時間なのかもわからない。
(……)
 目が痛い。頬に流れた涙が乾いてカピカピする。最悪だ。社会人なのだから、人前に出るならきちんとした身なりをするのは最低限のマナーだろう。
 ぐらつく視界に、重い足取り。酔っ払いのようにふらつきながら私は歩く。スマートフォンの地図アプリを開いて、一番近くのコンビニの場所を探す。こんなの、お酒を飲まないとやっていられない。最悪の運転手だった。後でタクシー会社にクレームを入れてやらないと。
「それが、大人としての振る舞いでしょう……?」
 ライブハウスの中で、他の女の子たちよりも目立つように、よく見えるようにと履いてきた七センチヒールが痛かった。今すぐに脱ぎたかった。
「さいあく……」
 綺麗にセットした髪を掻き毟る。こんなのってない。もうお酒を飲んで寝てしまおう。お酒を買って、ホテルの部屋で、飲んで寝よう。私は大人だから、他人に当たることはしない。自分でなんとかするのだ。大人なのだから。

 スキップにならないくらいに跳ねながら、モルタルの床をヒールで抉る。今日も私は綺麗だし、靴音のワルツは最高だった。私の住むマンションの、八階の、二個目の淡いブルーのドアの前でぴんと立つ。社交界デビューするレディみたいな心持ちで、部屋番号を確認する。《808》、私の部屋だ。
 ドアを三回叩いてから、鍵穴に鍵を差し、回して、ドアノブを手前に引く。慣れた手順だった。いつもと変わらない。二日ぶりの私の部屋はきちんと平和らしい。
「ただいま、帰ったよ」
 そう繰り返しながら部屋の奥へと進む。
「ただいま、私だよ、帰ったよ」
 私の可愛いペットがちゃんと気づけるように。
「ただいま」
「……」
 ミラくんは、床に座り込んでいた。部屋は空調が止まっていて、快適とは言い難かった。私が家を出る前に消してしまったからだ。
「ごめんね、一人で寂しかった? 帰ってきたよ」
「……うん」
「お仕事頑張ってきたから、褒めて?」
「……おかえりなさい、千夜」
 私の名前を呼んで、そして、両手を広げて待っていてくれるペットの腕の中へと飛び込んだ。
「ミラくん、ぎゅー」
「ぎゅー……お疲れ様」
「うふふ、ミラくん」
 ミラくんが居てくれるだけで私はハッピーだ。暗く、空調も効いていない部屋だけれど、ミラくんはちゃんと生きてここに居てくれた。私はミラくんに頬ずりをした。
「くすぐったい……」
「ミラくん大好き! 世界で一番可愛い!」
 ミラくんは大人しい。無駄吠えはしないし、トイレも直ぐに覚えたし、私の言うことをちゃんと聞いてお留守番もできる子なのだ。だから、ペットを一人放っておいても、部屋は私が出て行く前と変わりない。汚すことも、散らかすこともない、とても偉いペットなのだ。
「疲れたからちょっとだけ寝るね。その後に、ご飯作ってあげるから」
 ミラくんは大人しく頷いて、私から一歩離れ、ベッドルームまでの道を空けてくれる。そして、先ほどまでと同じように床に座り込んだ。
「お座りできて偉いね」
 私はミラくんの頭を撫で、微笑む。ペットに愛される笑顔を作る。
「じゃあ、おやすみ、ミラくん」
 そして、名前を沢山呼んで、挨拶はしっかりする。そうして、大切に育てるものなのだ。私は、世界で一番正しい飼い主だ。

「ミラくん?」
 今日もお仕事を終えて、家へと帰る。いつものルーチン通りに家へと帰る。淡い青色のドアは、今日も変わらず私を迎えてくれる。そのはずだったのに。今日は何かが違った。
「ミラくん?」
 ペットの出迎えがないことはそれ程珍しいわけではないけれど、今日は何か可笑しかった。
「ミラくん?」
 何度呼んでも、どこにもミラくんがいない。ミラくんはどこにいるの。ミラくん。
「ミラくん、ただいま、帰ったよ」
「ミラくん」
「ミラくん」
「ミラくん」「ミラくん」「ミラくん」「ミラくん」「ミラくん」「ミラくん」「ミラくん」「ミラくん」「ミラくん」「ミラくん」「ミラくん」「ミラくん」「ミラくん」「ミラくん」「ミラくんミラくんミラくんミラくんミラくんミラくんみらくんみらくんみらくんみらくんみらくんみらくん」
 ミラくんの声がしない。ミラくんの姿が見えない。ミラくんの気配がない。ミラくんの匂いがしない。ミラくんはどこにいる? 何度も何度も名前を呼んで、リビングをぐるぐると回る。どうしていない?
「ミラくん、」
 今日はミラくんに抱きしめてもらう予定だったのに、今日は家に帰った後、ミラくんとハグをして、美味しいご飯を食べて、偶にはミラくんをお風呂に入れてあげて、一緒に眠ろうと思っていたのに。どうして私は上手くできないのだろう。こんなに簡単なことばかりなのに、何一つ達成できていない。ミラくんがいないから。
 ミラくんがいないせいで、私は何もできなくなる。
「ミラくん……どこ……」
 座り込んだ床は冷たかった。ミラくんがいないお家は、とても寒い。ミラくんがいるだけで、あんなに温かいのに。涙がぽろぽろ流れて、頬が冷たい。脳みそが熱を持ったみたいに頭の中が熱いのに、表面は凍っているみたいに冷たい。私の全てが空っぽになってしまったようで、つらくて、つらくて涙が止まらなかった。嗚咽を漏らしながら、震える手で涙を拭う。
「ミラくん」
「はい、おかえりなさい、千夜」
 これで最後にしようと思って呼んだ名前に、返事があった。勢いよく顔を上げると、貧血になったみたいに目がかすんだ。二度、瞬きをした先にミラくんはいた。
「ミラくん……」
「ごめんなさい、少し眠っていたせいで気付かなくて……」
「ミラくん!」
 ミラくんの軽い体が吹っ飛んだ。ダイニングテーブルにぶつかり、鈍い音を立てる。私は起き上がろうとするミラくんの体を鷲掴み、何度もその顔を殴る。ミラくんは何をするでもなく、されるがまま殴られる。お人形みたいに静かなままだ。
「どうして!!」
 白いお腹を足で蹴りつけ、踏みつける。何度かそうしているうちに、お腹よりも腰のほうが蹴りやすいことに気付いた。
「どうして!!」
 先ほどまでの出先で持っていたバッグで殴る。バッグで殴ると自分の手や足が痛くないことに気付く。
「どうして!! 私が呼んですぐに返事しないの! 私のいてほしい時にいてくれないの! どうして良い子にできないの!?」
 そうして殴り続ける度に、頭の中が空っぽになって、すっきりするような、私自身が真っ白な存在になるような感覚になる。
 肩で息をしながら、ぐったりしたミラくんをソファに寝かせる。今になると何故あんなに激高したのかわからなくなってしまう。いつもそうだった。ミラくんだって、わざと私を悲しませようとしたわけではないのに、どうして私はこんなに罰を与えてしまうのだろう。
「でも、でも、ペットのしつけはきちんとしましょうと、本に書いてあったから」
 リビングの端にある、小さな本棚に視線を写す。そこには、ありとあらゆるペットの買い方についての本が置いてあった。犬、猫、ハムスター、うさぎ、オウム、チンチラ、ヤモリ、イグアナ。そして、隠れるようにある子育ての本と、私の書いた占いの本。
「……」
 ミラくんは、先ほどまで寝ていたと言っていたはずなのに、また眠ってしまったようだ。床で眠ると体を痛めるかもしれないのに。それに、そんなに眠ると、夜眠れなくなるのではないだろうか。
「……でも、ミラくんって夜行性だったかもしれない」
 わからない。どんな本を読んでも、正解がわからない。書いていない。
 ミラくんのことが好きだ。可愛い。大切にしたい。私だけを見てほしい。だからミラくんには幸福でいてもらいたい。その可愛い顔が、苦痛で歪むところなんて見たくない。私にだけ笑いかけてくれればいいから、その代わりに悲しい外を教えないで生かそうと誓った。
 ミラくんのことが大切だから、占いのお客さんにするみたいに接しなかった。正解を教えることも、楽になるように道を指し示すこともしなかった。「どうして」と問いかけて、ミラくん自身に答えを求めてもらうように務めた。話を聞いて、その人の求める最も優しい言葉を吐く。それを繰り返してきた私にとって、相手の幸福のために、自分の都合の良いよう相手を誘導しないように接することは、酷く難しかった。
 私は、世界で一番ミラくんのことが好きなのに。
「……」
 仕方が無いから、ソファで眠るミラくんに毛布を被せた。なんとなく、離れがたくて私はミラくんのお腹に腕を置き、床に座り込んだ。
「おやすみ、ミラくん」
 顔を伏せると、ミラくんの匂いがした。

 物音で、目が覚めた。回らない頭で自分の状態を確認すると、自分の肩に毛布が掛かっていることがわかった。昨日、ミラくんに掛けてあげたものだった。
「ミラくんの匂い……」
 吸い込むと、それは麻薬みたいに幸せで満たされる。
「そうだ、」
 麻薬で思い出した。今日は薬物依存から抜けられないと言っている女性との約束があったのだった。占い一つで物事への依存がなくなるわけなんてないのに、みんな私に答えを求めて縋ってくる。そんなことしても、依存の矛先が私に向くだけで、お金がどんどんかかるだけなのをわかっているはずなのに、誰一人それを理解しようとしない。私も含めてそうだ。
「お仕事に行かないと。準備しよう」
 時計を見ると、待ち合わせ時間にはまだ充分あったが、社会人らしくきちんとしたフォーマルな姿で行くのはマナーだろう。とりあえず、昨日浴びられなかったシャワーを浴びるところから始めよう。今日は何となく気分がいいから、お気に入りのボディミルクも出しておこう。お風呂から上がったら、ミラくんに塗ってもらおう。
 そこでふと、気付いた。ミラくんはどこにいるのだろうか。

「ミラくん、ミラくん、ここにいるんでしょう? 昨日は怒っちゃってごめんね。もう怒ってないから、一緒に朝ご飯食べよう?」
 ミラくんが潜伏していると思われる、客間として置いてある、空き部屋をノックする。きちんと三回、ノックをする。それでも、部屋の中からの返事はなかった。
「ミラくん、今日の朝ご飯はフレンチトーストだよ。ミラくんの為に作ったんだよ」
 何度呼びかけても返事はない。ボディミルクは仕方が無いから、自分で塗った。背中の真ん中に届かなくて、悲しい気持ちになった。
「ミラくん、ご主人様がこんなに必死になってるんだよ。どうして返事しないの」
 ドアを蹴る。一度蹴ってから、これは私の家だったと思い出す。自分の家は大切にしなければならない。ここは世界がどうなっても生きていける、安全な居場所なのに。乱暴にしてしまった。
 反省はするけれど、ふつふつと湧き立つ苛立ちは、どんどん大きくなっていく。クリームシチューを沸騰させた時みたいに、真っ白で滑らかなのにごぼごぼと音を立てて、熱という攻撃性で他人を痛めつける。
「……食べないの」
 待ち合わせまで、時間があまりなかった。もう出ないと、間に合わない。
 遅刻だけはダメだ。社会人として、最低限のことさえできないなんて、大人としてダメだ。行かないと。
「…………いってきます」
 返事はなかった。

「先生、本当にありまがとうございます。もし先生がいてくださらなかったら、どうすればよかったか……」
「いいのですよ。私はそのためにいるのですから」
 微笑む、微笑む。意識をして、できるだけ柔和に微笑む。そして優しくお客さんである彼女の手を握る。この人は、メールや電話での相談は毎日のように、こうして対面での占い相談はだいたい週に一回くらいの割合で予約を入れてくれている太客だ。吠え際が黒くなってきている金髪に、何年着ているのかわからないようなスエットを着て、恥ずかしげもなく私の指定した値段帯が少々高めのカフェへ着いて来てくれる。私より五歳ほど年上の、とても良い人。
「今日も沢山薬を飲んでしまって……。また主治医に叱られます」
「落ち着いて。大丈夫。私が付いていますよ」
「……相談したいことがあって」
「どんなことでも」
 優しく彼女の手を握る。彼女の相談は、最近出来たらしい恋人とのことが殆どだった。『こんな自分を支えてくれる、とても良い人なんです』とはにかみながら彼女は言う。その瞬間だけ、幸せそうに微笑む。
恋人は、バランスが難しい。恋人との仲をそこそこに取り持たないと、不満を持つだろうし、恋人との仲を取り持ち過ぎると、依存先が私からその恋人へと移っていく。様子を見て、最適な時期に破局するようにコントロールしていかないとならない。
「恋人が次の記念日に朝から会えないって」
「前日の夜から泊まりで出かけるか、それがダメなら正午ぴったりに待ち合わせしてください」
「服は赤と黒どちらがいいですか?」
「赤にするといいですよ。情熱の色です。靴はこの間買ったパープルのやつにしてください」
「ヘアメイクは」
「それならこれを」
「デートプランですが」
「私の言う通りにすれば大丈夫です」
 蛇口のように溢れてくる彼女の不安に、ひとつひとつ答えていく。色は赤がいい、紫を合わせるとよりスピリチュアルな効果が高まる。塩で体を浄化しなさい。その日は南南西の方向に行くといい。結婚はあと三年待ちなさい。私の言うこと全て、事細かにメモを取り、何度も赤べこのように頷き続けるこの年上の女に、私は笑みを崩さないまま対峙し続けた。
「……殆ど上手くいきますよ。殆どは」
「殆ど!? 何か悪いことが起こるのですか!?」
 態とらしく眉を顰めて肩を竦める。これくらい大げさで芝居がかった言動のほうがウケはいい。顧客のニーズに応えるのは社会人として当然のことだ。
「下世話な話になりますが、恋人さんと夜、ホテルなどに行く予定はお有りですか?」
「……ええ、まあ」
 私より年上の癖に、彼女は頬を赤らめて、生娘みたいに声を震わせた。指先をもじもじと擦り合わせて、私の顎先と、注文してから一度も口を付けていないコーヒーのカップの間を、視線が何度も往復していた。
『千夜は、他人のことをよく見ているね』
 昔、人に言われたことを思い出した。
『他人を幸せにするのも、不幸にするのも、君ならどちらも自分でやってのける』
 そういって、その人は私の手を離したのだ。
「……先生?」
「いえ、もしホテルに行く予定がお有りなら、下着の中にこれを忍ばせるといいですよ。これはポプリなのですが、セクシー度をアップさせ、媚薬に近い効果があると言われているハーブを何種類も使っているんです」
「まあ」
 私は鞄から次々とハーブやら石やらを取り出す。
「このブレスレット、可愛いでしょう? この石には恋愛成就のパワーが宿っていて……」
 頭は冴えているのに、口だけ別の生き物になったようによく回る。目の前の女性の表情を常に伺いながら、口角を上げ続ける。女性の、会うときは常に淀んでいた瞳が、徐々に光りを帯びていく。普段からそういう表情をしていたら、きっとあなたの毎日は今よりずっとハッピーになるはずなのに。この人は、私の助言がないと幸福になれない。
「本当は全部合わせると十万くらいするんですけれどねぇ……。私たちの仲ですもの。半額でもいいですよ」
「本当ですか? ありがとうございます」
 女性は私への相談料の入った封筒と別に、財布からいくつかの万札を取り出した。
「高名な先生に相談に乗ってもらえて、私は本当に幸運ですね……。これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ。デートの成功、お祈りしていますね」
 この人みたいに、私に入れ込んで不幸になった人を私は沢山知っている。知っているうえで微笑んだ。私は社会人だから、これは仕事だから、大丈夫なのだと。

『千夜は、他人のことをよく見ているね』
 その人は常にアルカイックスマイルを浮かべ続けている人だった。私は床に足を投げ出したまま、その人を見上げた。暗い部屋の中、その人の表情だけがよく見えていた。
『今は君と僕しかいないけれど、きっと千夜はどこででも生きていけるだろうね』
 私はあの人の言うことがよくわからなくて、ただ首を傾げた。私はここしか知らないし、ここでしか生きていけないのに、なんてことを言うのだろうとすら思っていた。
『他人を幸せにするのも、不幸にするのも、君ならどちらも自分でやってのける』
 膝を突き、私の髪を優しく梳きながら、あの人は笑みを崩すことなく話を続ける。
『僕はここでしか生きられないけれど、君はそんなことないのにね』
 あの人はこのマンションの一部屋をぐるりと見渡した。ソファとソファ用の低いテーブルくらいしか家具のない、殺風景な部屋。殺風景と言うけれど、結局私はここしか知らないから、この光景が正常なものなのか、異常なものなのか、判断ができない。
『いつか君はここから飛び出して、自分の手で世界を作るだろう。その時、君は優しいから、きっと僕のことを思い出してしまうだろうけれど、そんなこと気にしなくていいからね』
 あの人は、私の髪を梳いていた手をゆっくりと頬に滑らせ、そのまま両手で私の頬を包み込む。冷たい手だった。
『僕はずっと、君の幸せを願っているよ』
 数日後、あの人は突然踏み込んできた沢山の大人達に連れていかれてしまった。それ以来、あの人と私は会っていない。

 意識が浮上する。今、自分のいる場所が昔暮らしていた部屋だったのか、自分の家なのか分からなくなってしまい、ゆっくり目線だけを動かした。ソファと、低いテーブル。何冊もの本が詰まった本棚に、二人用のダイニングテーブル。ここは、紛れもなく私の家だった。
「……ミラくん」
 無意識のように、その名を呼んだ。
「ミラくん?」
 体を起こす。そこでようやく私は床で眠っていたことに気付いた。柔らかく、分厚い素材のラグを敷いていたお陰で、体は痛くなかった。このラグは、ミラくんが床に座った時にお尻が痛くならないように買ったものだった。
「ミラく、」
「千夜」
 ミラくんは、音もなくリビングへと入ってきていた。床に座り込んだままの私の傍へ膝を突き、そっと私と目を合わせた。
「おかえりなさい、千夜」
「……ただいま、ミラくん」
 ミラくんから、この家と違う匂いがした、ような気がする。わからない。ミラくんのことがわからない。どうしてこんなに不安になるのだろう。ミラくんは、私がいないと生きていけないはずなのに。私のペットなのに、いつか私のところからいなくなってしまうかもしれないという不安が付きまとう。
「朝ご飯、ありがとうございます。美味しかったよ」
「……本当?」
「千夜のお料理は、何を食べても美味しいよ」
 その言葉に、心の底から安堵する。この瞬間だけ、誰かの言葉一つに一喜一憂する私のお客さん達の気持ちがよくわかる。
「……今朝は、どうして返事してくれなかったの?」
「ごめんなさい。眠ってた」
「そう……」
 ミラくんはまだ小さい。だから、睡眠は大切だ。本にも、眠っているペットを無理矢理起こすのは良くないと書いてあった。だから、眠っていたのだと言うのなら、私は怒れない。
「ミラくんは、何か欲しいものとか、ある? いつも、ここで暇だよね」
 唐突に、そんなことを思いついた。ペットへのお土産、というものを、私は殆ど買ってきたことがなかった。ミラくんは一人でこの部屋で、もしかしたら暇を持て余していたのかもしれない。
「……珍しいね、そんなこと言うの」
 ミラくんは眩しそうに目を細めた。ミラくんからした、違う匂いが段々消えていっているような気がする。この家にミラくんの匂いが馴染んでいく、ミラくんにこの家の匂いが馴染んでいく。家には、匂いがある。他人の家に入る際の違和感の原因の殆どはそれだと私は考えている。始めの頃は、この家だって他人の家の匂いがしていた。私とあの人の匂いでないだけで、私はそこを私の家だと認識できていなかった。
(……いつからか、私とミラくんの匂いが、私の家の匂いになったのに)
 これ以上、私の安寧を壊さないで欲しい。この家の外は怖いものばかりなのだから、この家の中くらいは優しさで満ちていてもいいだろう。
「それじゃあ、そうだな……」
 ミラくんは私の傍にゆっくりと腰を下ろした。お尻を付けてきちんと座る。
「我儘を、言ってもいい?」
「いいよ、ミラくんの我儘だったら、何でも叶えてあげる」
 私がそう言うと、ミラくんは愚図る赤子を見るように優しい目をする。その意味がわからなくて、ミラくんにからかわれているのではないかとすら思えて、私はこの場から逃げ出したい欲求を必死で押さえた。ここを出たら、私には行く場所なんてないのに。これ以上、私は私の家を捨てられない。
「千夜が、僕に贈りたいものを頂戴。千夜が選んで」
「……私が?」
 ミラくんがゆっくりと私の手を握る。真っ直ぐ目を見つめる。見つめ返す。
「大丈夫。千夜なら出来るよ」
 ミラくんがそう言うなら、そうなのだろう。無条件に信じてしまう。私が世界の全てである、私のペットのミラくん。この子は何があっても私を信じてくれる。私を頼ってくれる。この子の為なら、私は何でもできる。
「わかったわ。……今度、選んでくるね」
「はい。楽しみにしているね」
 ミラくんに促され、私はソファに座る。ソファに座った私の足下に座るミラくんの髪を撫でると、ミラくんが甘えて私の膝に頭を乗せた。幸福を形にするなら、この子のような形をしているのではないだろか。私は今、世界で一番幸せだ。
「……ここは、安心だね」
 私の可愛いミラくんを膝に乗せる。甘い香りがした。私の大切なミラくん。この子がいるから、私は毎日お仕事を頑張って、綺麗に着飾って、ピンヒールの靴に足を押し込んで家を出ることができる。頑張れる。
「大好き」

 ある女がいた。いた、という表現は正しくないかもしれない。その女は今も生きている。普通に生きているとは言えないが、まあ、生きてはいる。どこにでもいる平凡な主婦で、母親のその女は、自己顕示欲が強く、自分の正しさを常に証明し続けないと壊れてしまうような、脆い女であった。
脆い女には旦那と一人の息子がいた。女は家族である二人にも、自分の正しさを証明し続けることに躍起になっていた。少しでも間違えると、自分の人生を、自分の存在を否定されたかのように怒り狂い、悲しみ、絶望した。旦那は、そんな女との生活に疲れ果て、理由を付けては家に寄りつかなくなってしまっていた。
女にとって、その現状は《間違い》でしかなかった。家族は仲良く暮らすもの、そういう固定観念に縛られていた。溜まった不満、鬱憤は全て可愛い一人息子にぶつけられていた。一人息子は、唯一の母である女からの理不尽をただ飲み込んで、静かに耐えていた。
そんな女は、ある日偶々雑誌の広告で見た電話占いに興味を持った。興味を持っただけだったら良かったものの、実際にそれに電話をし、ある一人の占い師と出会ってしまった。“カリスマ”だとかなんだとかはやし立てられていたその若い占い師は、藁にも縋る覚悟で寄せられた女の相談に、優しさを煮詰めたような態度で応えた。
女は、簡単に占い師に依存をした。

「こんにちは。お電話ありがとうございます。お元気でした?」
『……はい、お久しぶりです、先生』
「一昨日ぶりですものね。その後、何か困ったことでもありました? どんな些細なことでも良いですから、相談してくださいね」
 ゆったりとソファに身を沈め、スマートフォンからの声に耳を傾ける。荒い息づかいは相変わらずだ。不定期に私へ電話を掛けてくるこの女は、いつだって息づかいが荒く、早口だ。いつだって、全てにおいて余裕がなく、誰に強制されるでもなく綱渡りのような生活をしている。
『先生、どうしましょう』
「ええ?」
 今回の電話は、駅前のスーパーに行くか、車に乗らないといけない距離の別のスーパーに行くかで悩んでいるという内容だった。きっと、暫くは数時間置きに電話が掛かってくることだろう。いつも以上にパニックになっている。
『駅前の方はね、先生。卵が安いんですよ。今、家に卵が一つもなくて、私、明日の朝ご飯の卵をどうしようかって……。でも、あっちのスーパーはお弁当がいつも安いんです。……もう、息子も最近家でご飯食べなくて、殆ど私一人分ですからね、こう、一々作るのもね……』
「えぇ、そうですね」
『うちの息子、家でご飯を食べないどころか、家に寄りつかなくて……。外でアルバイトをしているみたいなんですけれど、私心配で。若い身空からアルバイトばかり……』
 女にとって、家族を大事にせず、家に寄りつかない息子は《間違い》なのらしい。息子には旦那の代わりに自分を大切にしてもらいたいようだ。この女みたいに、自分の息子を恋人のように扱う母親は少なくないから、そのことに今更何か思うことはない。私が今考えるべきことは、この女にどちらのスーパーを勧めるか、それだけだ。
『先生、あのね、私、どうすればいいのかわからないんです。何が正しいのでしょうか。私、また間違えてしまうの……。怖い、怖いんです』
 電話の向こうで女は、怖い、怖いと泣きじゃくる。過呼吸になっていないか、私は耳を澄ましてじっと聞く。……まだ、大丈夫のようだ。暫く泣かせておこう。私はゆっくりと目を閉じた。最近、仕事以外の時間は殆ど眠って過ごしているから、これ以上眠らないようにしないといけないとは思うが、どうしても目を閉じてしまう。
「……駅前の方にしなさい。風水的に今日はそちらの方向が良いですよ」
 風水なんて、簡単に囓った程度の知識しかない。専門でもない人間が言う風水のことなんて、本来は信用なんてできないだろう。しかし、理由なんてお互いどうでも良いのだ。女は自分の代わりに答えを出してくれる人を欲しているだけだし、私は説得力のある理由を付けられれば、何でも良い。とりあえず、この状態の女を車に乗らせないのが最優先だ。
「今日は天気が良いですから、折角ですし、歩いていってみたらどうですか? でも、気温はそんなに高くないから、しっかり温かい格好をしてくださいね」
『……先生は、いつも優しいですね。うちの旦那にも見習ってもらいたいです』
「そんな。私達の仲じゃないですか。心配くらいさせてください」 
 それからも女の話は続く。相談とも言えないような、本来なら家族や友人にでも話して発散させるような些細なことを数時間に渡り話し続ける。私はソファに腰掛けたまま、スピーカー設定にしたスマートフォンから流れてくる声に、適度に返事をする。
『旦那も、息子も、いつになったら昔みたいに帰ってきてくれるんでしょうね』
「……」
 対面でないから、表情や動きで何かを表現することはできない。きっと、対面での占い相談だったら、優しく微笑んで女の手を握るのが正解なのだろうけれど、今はできない。
「……大丈夫ですよ。運気はどんどん上昇していっています。徐々にですけれど、確実に」
『また、運気上昇のアイテムがあれば送ってくれません? お礼はしますから……』
「勿論ですよ。何か探しておきますね」
 そこでやっと女は満足したのか、通話はそこで終わった。通話時間は三時間を超えていた。もう、タイムセールの卵は買えないかもしれない。買えたらいいのだけれど。
「ふう……」
 私はゆっくりとソファに寝転がった。ミラくんがここで眠ってしまっても良いように、あの子がここに来て直ぐに買ったものの一つだった。やはり、私の選択は正解だった。こんなに上質なソファ、早々無いだろう。
「千夜、お疲れ様。コーヒー飲む?」
「ミラくん。待たせちゃってごめんね。ありがとう、貰うね」
 最近、ミラくんにコーヒーメーカーの使い方を覚えさせた。ミラくんは自らすすんで私へコーヒーを淹れるようになった。その姿があまりにいじらしくて、私は大好きだ。可愛いミラくんが淹れてくれたものだったら、例え安物のインスタントでも、高級店の挽き立ての豆を使ったコーヒーと同じくらい美味しい。良いコーヒーメーカーのものなら、尚更美味しい。
 私はソファに寝転がったまま、コーヒーを淹れるミラくんの後ろ姿を見つめていた。
「……」
 幸せとは、こういうことを言うのだろう。大好きな子が、私のためにコーヒーを淹れてくれている。何なら、気を利かせてお茶菓子も出せないかと戸棚を漁っている。私は一仕事終えて、微睡みながらその光景を見ている。この部屋には、幸せが満ちている。
「千夜、コーヒー入ったよ」
 ミラくんは、お盆にマグカップと個包装のビスケットを一つずつ乗せてゆっくり私の寝転がるソファに近づいてくる。
「ありがとう、ミラくん」
 ソファから身を起こし、コーヒーに手を伸ばす。その瞬間、先ほどまで長時間の通話に耐えていたスマートフォンが再び震えた。驚いたミラくんが一歩退き、私はコーヒーが零れないように急いでそれを受け取った。
「ミラくん、大丈夫。ただのメールだよ」
 大きな音などに、小さな生き物は驚くらしい。あと、キュウリ。猫がキュウリに驚いて飛び上がる動画が可愛くて、何度も何度も見てしまった。一度試しにミラくんへキュウリを渡してみたけれど、うちの子はよくわからないとでも言うように「キュウリですね」と呟いていた。
「わあ!」
 メールの画面を開いた瞬間、私は嬉しくなって立ち上がった。
「ミラくん、私ちょっと出かけるね」
 お盆を持ったまま固まっているミラくんの髪を撫で、私はコートとバックを引っ掴んだ。
「……早く帰れます?」
「分からないけれど、努力するわ」
 私はお気に入りの靴を履き、玄関まで見送りにきてくれた可愛いペットにいってきますと言う。可愛い子もいってらっしゃいと返してくれる。挨拶はきちんとしましょう。そういうルールを私達は極力守っている。なんて素敵なことなのだろう。
「良い子にしているんだよ」
 ドアを閉めた。

 夜の街を私は歩く。髪を靡かせ、ピンヒールを響かせる。肩から提げたバックは小さいものを選ぶ。荷物が多いとモサっとして見えるから。本当は嬉しくてスキップでもしらいくらいだけれど、そんなこと、大人の、社会人のすることではない。私は機嫌の良さを表に出しすぎないように、しかし疲れた大人には見えないように意識する。
 腕に掛けた小さな紙袋を落とさないように、潰さないように、大切に運ぶ。高級感のある小さな紙袋には、ミラくんのために選んだお土産が入っている。
 ミラくんに何を贈りたいかと考えた結果、私は専門のお店に自分の理想のものをオーダーメイドしてもらうことにした。私の愛を表現するためには、既製品ではダメだと思った。先ほどのメールは、それの完成を知らせるものだった。
 気分が良かった。これをミラくんに渡した時、ミラくんはどんな反応をしてくれるのだろう。嬉しいと、微笑んでくれるだろうか。きっと喜んでくれる。私がこんなにミラくんのことを想って用意したのだ。喜ばないわけがなかった。
 気分が良かったので、私は目に付いたカフェへと向かう。今日の夕食はここで済ませてしまっても良いかもしれない。ここのサンドイッチは少し高い値段設定だが、値段に釣り合うくらいには美味しい。ここのコーヒーも美味しいのだ。折角だから、ハニーラテにしてもらおうか。甘いほうが好みだ。
 ついでにあの女へ送るものも選ばないと、通販サイトで適当に良さげなものを選び、少し加工して、あの女が喜びそうな逸話を考えて、親切を固めたような手紙を付けて女の部屋に送りつけよう。
 女は知っているのかどうかは知らないが、あの女と私は同じマンションに住んでいる。本当は家に直接届けることのできる距離にいるのだが、女が望まない限り私からは女に接触しない。あくまで仕事なのだ。自分から余計なことはしないに限る。
 サンドイッチとラテを注文して、席に着く。荷物を足下の籠に詰めて、スマートフォンを開く。通販サイトのアクセサリー欄を開いて、値段が安い順に並べる。安くて、見目が良いものが一番良い。できれば、本物の宝石かそれに近いものが良い。パワーストーンなどが一番良い。
「んー……」
 サンドイッチを一口囓る。レタスのシャキシャキ感と、生ハムの塩味、アボカドの滑らかな食感。美味しくて、間髪入れずにもう一口食べてしまった。いけない。大人の女性らしく、大きな口で食べ物を頬張るようなマネは控えなければ。
 今度は口の中から食べ物が無くなったタイミングで、小さく一口サンドイッチを囓る。折角だから、これを食べた後、近隣のアクセサリーショップを回ってみよう。実際に自分の目で見るのが確実だ。今更、安っぽいものを渡しても女は気付かないだろうけれど、一応こちらだってプロなのだ。そこまで酷いことはしたくない。
 ついでにCDショップも見よう。最近ハマっているアイドルのシングルの発売日は確か昨日だった。本当は通販で注文したのだが、到着が明日になるらしい。運送業者にクレームを入れたが、どうしようもないらしい。一時間程度話合って、仕方が無いから大人である私が折れたのだ。相手だってプロの筈なのに、よくもあんなに恥知らずなことができると呆れたが、私だって鬼ではない。電話の相手たるオペレーター本人の責任ではないのだ。
 そうは言っても、思い出したら少しだけ怒りも戻ってくる。私は毎日こんなに頑張っているのに、どうしてこんな些細な楽しみさえ邪魔されないとならないのだろう。
「ふう……」
 一度、意識して大きな溜息を吐く。サンドイッチを食べきる。ラテも飲みきる。荷物を手に、席を立つ。肩に掛かった髪を撫で付け、店を出た。

 家に帰ると、もう深夜の一時に近い時間だった。疲れたけれど、お風呂に入らないと。お風呂に入らないといけないという想いはあるけれど、それ以上に何だか疲れてしまった。
「ミラくん、ただいま。今帰ったよ」
「お帰りなさい、千夜」
 ミラくんは、玄関で良い子にして私を待っていた。ドアを開けた瞬間、見えたミラくんに私は嬉しくなって、そのまま抱きしめた。
「一人にしてごめんね、寂しかったよね。お土産買ってきたよ」
 そうして私はミラくんに少し縒れた紙袋を渡した。ミラくんは想像通り、少し驚いた表情を浮かべた後、微笑んでありがとうと言ってくれた。嬉しくて、早く開けてと急かす。
「……チョーカー?」
 ミラくんは紙袋の中からそっとそれを取り出した。
「本当は首輪のほうが良いかと思ったんだけど、サイズとかデザインの良いものがなくて。……これなら、可愛いミラくんに似合うかと思ったのだけれど、どう?」
 ミラくんは私からのプレゼントを見つめたまま、暫く黙っていた。私はミラくんが動くまで、そっと見守っていた。玄関の床は冷たいけれど、これくらいだったらまだまだ耐えられる。私はピンヒールが一足だけ置かれた玄関を振り返る。かつて、私が住んでいたところにはこんな風に靴が置かれることはなかった。靴を履く人なんていなかったし、数少ない靴は靴箱の中にしまい込まれたままだった。
 ミラくんを見ながら思い出す。数年越しに私が靴を履こうとした日のこと。あの人に買って貰ったお気に入りだった靴は、いつの間にか小さくなっていて、私の足がその靴に収まることは終ぞ無かった。あの人を連れていった大人達の仲間は、そんな私を見てどうしようと相談していた。私はあの人がくれた靴が履けなくなっていたことがショックで、少しだけ泣いた。
 暫くして、あの人がいつの間にか購入していたらしい、新しい女の子用の靴が発見された。それは、綺麗な箱に納められており、メッセージカードにはDear.Chiyaと書かれてあった。紛れもなく、あの人から贈られたものだった。結局、私はその靴を履いて、あのブルーの扉から出ることとなる。
『千夜も、そろそろお姉さんだから。少しヒールの高い靴を履いてみてもいいかもしれないね』
 昔、あの人がそんなことを言っていた。私は確か「ここから出る必要がないから、靴なんていらない」なんて生意気なことを言ったような気がする。出る必要がない、ではなく、出る意思がない、の間違いだったような気もした。
 あの人から最後に贈られた靴は。真っ白で、ヒールがほんの少しだけ高くて、歩くとカツカツと綺麗な音がした。靴の裏は金色の装飾がしてあって、まるで花嫁さんが履くような繊細なデザインのそれは、今でも捨てられずに靴箱の奥で眠っている。
「千夜」
 ミラくんは、紙袋に添えられていたメッセージカードを見て、瞳を細めた。
「ありがとう」
 ミラくんは、そっと私の手を引いて、リビングへ進む。
「ありがとうございます、千夜」

 物心ついた時、私は既にあの人と暮らしていた。私の親がどんな人なのか、未だに私は知らない。あの人を連れていった大人とは違う、弁護士を名乗る大人は「君は知らなくていいことだよ」と取って付けたような優しい声で、そう告げた。
 あの人との別れは、あまりに唐突で、私はあの人にさよならを言えていない。
「ん……」
 腹部への重みで、目が覚めた。お風呂に入って、ミラくんを抱きしめて眠りに付いた筈なのに、私の腕の中にいる筈のミラくんは、いつの間にか私のお腹に座り込んでいた。
「ミラくん? ……眠れないの?」
 ミラくんの目の下を、指の腹でそっと擦る。目が少しだけ腫れていた。
「……怖い夢でも見たの?」
 ミラくんは、じっと私を見下ろしたまま、一言も喋らない。しかし、その首に私の贈った首輪が付いたままだったので、私は深く安堵した。ミラくんの意思があるのなら、私はミラくんを手放さない。私の意思でミラくんを手放すことは、きっと無い。あの人が私に合わないのは、あの人なりの優しさとか、誠意とかなのかもしれないけれど、私はそんなこと望んでいなかった。だから、私はミラくんに私と同じ想いはさせない。
「……死んで」
 やっと口を開いたミラくんは、今にも泣きそうな表情をしていた。
「死んでよ、千夜」
 ミラくんは、そのまだ成長途中の手で私の首を絞めようと手を絡めた。
「死んで、お願い、死んで」
 ブツブツと呟きながら、ミラくんは私を絞め殺すために両手に力を込める。
「……み、ぁ、く」
 ミラくんは泣いていた。その姿が可哀想で、私もミラくんの首に触れる。この首輪がこのままこの子を絞め殺してくれたらいいのに、と願う。そうすれば、この子はきっと今よりずっと楽になれるのに。
 いくら子どもの力といっても、息が苦しい。私は声が出なくて、苦しくて藻掻いた。ミラくんと話がしたい。そうすれば、少しはこの子が楽になれるかもしれない。
「千夜が、お母さんをあんな風にしたのに、千夜がおれに優しくするから」
「お母さんが千夜にばっかりお金を使うから、おれはご飯を食べられなくて」
「お母さんは千夜ばかりだ」
「アルバイトを始めたら、お母さんは千夜にばっかりお金を使うようになった」
「ずるい」
「なのに千夜はおれに優しくするから、千夜が優しいから、おれ、おれ」
「それなのに千夜はおれのこと置いて何日も家に帰らないから、おれ、またバイトして、自分でご飯買って、偶に家にも帰って、それなのに千夜はわかってないから」
「どうせ、今夜のことも忘れちゃうんでしょ」
 ミラくんは泣きながら沢山喋った。私は、ミラくんを慰めてあげたかったのに、苦しくて一言も言葉がでなかった。
「……千夜は、狂ってる」
 そこまで言って、ミラくんはやっと私の首から手を離した。私の胸に顔を埋めて泣くミラくんの髪を、私はそっと梳いた。
「ここにいるの、辛い?」
「……ん」
 「うん」と聞こえたけれど、ミラくんの首をきちんと左右に振られていた。
「アルバイト、楽しい?」
「……普通」
「今は何のアルバイトをしているの?」
「単発のコンビニバイト。一日からできるから、千夜がいない時だけ行けて、夜でも働ける」
「そう」
 きっと、私が占い師としてお客さんの話を聞くようにすれば、この子は今より楽になれるかもしれない。けれど、私はミラくんにそんなことを望んでいない。
「ミラくんは、私無しでは生きていけなくなればいいと想っているけど、ミラくんには、できれば私みたいにはならないで欲しいな」
「……わかんない」
「そうだよね」
 真っ暗な部屋の中、私はただミラくんを抱きしめる。ミラくんくらいしか見えないのだもの。これ以外に、無力な私ができることは何もない。
 初めてミラくんを殴った時、ミラくんは私に優しかった。「頑張ってるね、大変だね」と言いながら、後悔して泣く私を慰めてくれた。きっと、この子は自分を殴る母親にも同じことをしていたのだろう。
 そして同時に私は気付いた。ただ、頑張ったねって褒められたかっただけなのだ、と。だって、私、頑張っているもん。こんなにつらいのに、毎日生きている。生きているの。こんなに頑張っているのだから、優しく頭を撫でながら、頑張ったねって言ってもらえてもいいと思うの。…ううん、そうじゃなくて、そうじゃないの。私はただ、頑張ったねって褒めて、頭を撫でてもらいたかっただけなの。だから私は、ミラくんと生きることを決めたのかもしれない。
「私が寝てる間に、アルバイト行くの疲れた? 行かなくてもいいんだよ」
「……」
 明日の朝ご飯は何にしよう。この子が好きなものにしてあげたいけれど、きっと明日の私は覚えていない。ミラくんが可愛くお強請りしてくれたら、機嫌の良い時の私だったら二つ返事で何でも用意するはずなのに。
「……ここなら、いつまで居てもいいんだよ」
「……」
 ミラくんは黙ったままだった。
 初めてこの子の話を聞いた時、あの、何でもきちんとしなければならないという考えの女が、自分の息子にこんな名前を付けることが、不自然だと想った。きっと、身内や友人からキラキラネームだなんだと言って、バカにされたり止められたりしたことだろう。それなのに、きっとあの女はそれらの人たちの存在を、自分を否定する間違いだと定義して、突き放した。全て想像でしかないけれど、限りなく正解に近いものな気がする。
「千夜が、千夜が……おれがいないとダメなんでしょ」
 ミラくんは私の体からゆっくりと降りた。
「おいで」
 私が布団を捲ると、大人しくそこに収まった。ミラくんの体は冷たかった。

 目が覚めると、太陽は既に登っていた。朝の光が窓から入り、腕の中には可愛いミラくんがいる。髪が寝癖で跳ねているのが、天使の羽根みたいで愛おしかった。ミラくんの首には、私からのプレゼントが飾ってあった。
「おはよう、ミラくん」
 社会人として、きちんと起きて、朝ご飯を作って、食べて、綺麗な格好をして仕事をしよう。私は大人なのだから。
 大人だったら、きっと、子どもの頃より自由でいられる。悲しい想いをしなくて済む。ただひとつ。どうして私が朝からこんなにしんみりした気持ちでいるのかが、思い出せない。
「まあ、いいか」
 思い出せないことは、置いておこう。色々と割り切って過ごすことも、大人としての振るまいだ。
 私のペットはまだおねむさんらしい。ペットは眠るものだろう、仕方が無い。朝ご飯ができるまで、まだ時間がある。私は夜更かしをしたらしいペットが起きてくるまでに、この子が喜ぶ朝ご飯を作らないと。
 ミラくんの首をそっと撫でて、ベッドから出た。


表紙:湯弐(yuni) 様 https://www.pixiv.net/artworks/55497920

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