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2021/11/22「王道」

バッドエンドが好きだ。乙女ゲームやギャルゲをしている時、長尺のバッドエンドを見るとやったー!と両手を突き上げてしまう。

はじめからそうだっただろうかと考えてみたのだが、昔からバッドエンドを見てやったー!と思っていた気がする。ただ、こういった思想を持つきっかけはどこかにあると思う。考えた結果、ひとつの仮説に辿り着いた。当時読んでいたBL小説だ。

一時期全寮制学園BLばかりを狂ったように読んでいた時期があるのだが、長編もののスピンオフ(というかIFシナリオ)として受けが当て馬に監禁されるSSが掲載されていた。今でもその内容を時折思い出すと共にめちゃくちゃよかったなあの展開……と思うなどし、乙女ゲームでもあれば見たい!と思ってしまう。

けれど、どうしてそういった話をわたし自身がIFシナリオとして二次創作というかたちで生み出せないのか……と問われれば、バッドエンドという言葉で想起されるある種の王道パターンだからではないだろうか。

「王道」に罪はないのだが、何故だか内なるわたしが王道に照れを感じてしまう。こんなベタベタに擦り尽くされたものを敢えて今書くんですか!?と訴える自我が確かに存在するのだ。

乙女ゲームはそういったコテコテの王道を恥ずかしげもなくやっているので凄いな……と思うと共に、時折遠巻きにしてしまう。王道という言葉が付与する「あまり価値がない」という認識はわたしの中にある偏見だからこそ、これを払拭するにはわたし自身が考えを改める他ない。

王道をあるがままに受け入れるのは、案外難しい。

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