大江健三郎のことと『性的人間』が爆売れした話

大江健三郎が死んでしまった。まずはご冥福を。そしてここには大江文学と私の「出会い」「別れ」そして「再会」について備忘録的に書き記しておく。当然だが、文学論などではない。ただの思い出である。
そもそも私は名もなき中年僭称関白にすぎないので、そういうのを期待して運悪くこの記事を開いてしまった方にはこのままブラウザバックをお勧めする。もちろん、読み進めていただいても構わない。


1. 「出会い」(高校2年・夏)

大江健三郎の文庫本を初めて買ったのが高2の夏休み。『死者の奢り・飼育』。高1の時に「今の若いモンは大江健三郎も読まんのだな」という授業中の教師の挑発にいつ乗ろうかと考えていた矢先、部活でけがをして練習もままならなくなったのが読み始めたきっかけだった。
それまで読んできたのは、別に読書家というわけでもなかったので通り一遍に教科書に載っていそうな作家――夏目漱石とか芥川龍之介とか――を中心に、有名どころを押さえるというミーハーな読み方をしているに過ぎず、大江本を手に取る直前までは『村上朝日堂』から入った村上春樹作品をときどき読む程度だったが、この『死者の奢り・飼育』を読み始めるや、その濃密かつ油だかコールタールだかの海を泳がされるような、そんな感覚に見舞われながらねっとりとした読書を強いられることとなった。夏目や芥川、もちろん村上春樹を読んでいる時の感覚とは全く違う何かだった。
『死者の奢り・飼育』を読み終えて真っ先に考えたことは、すでに提出してしまっていた読書感想文の差し替え(芥川作品で感想文を書いた)をした方がいいのではないかということと、その本に乗っていた「人間の羊」に自分の汚い部分を目の前でオラオラと突き付けられ、どうだ、貴様はこんなにも汚い偽善者なんだととことんまで思い知らされたことである。
「人間の羊」とは――もっとも、ご存じの方も多いだろうから極力簡潔にまとめる――「米兵・尻・抗議だ!(ただしもう米兵はいない)・てめェ一人でやれボケ」という内容である。私がまさに強くて悪くて怖い奴がいなくなってから陰で懲らしめてやりたいとか言いながら結局何もできない口だけ番長のくせに自分を社会正義の使徒みたいなもんだと思い込んでいる社会的なゴミだったので、登場人物全員の気持ちが全部自分にすんなり入ってきてしまって、気持ちをすっきりさせるのに結構時間がかかった記憶がある。同時に、この人の作品は全部読まなければならないという使命感を抱くに至った。この人から学ぶことはたくさんあるはずだ、と。
ただ、ケガも治り、学校の成績も悪かった上に自転車通学だったので読書に割ける時間は日を追うごとに減り、再び本腰を入れて読み始めるのは部活ほかを引退した高3の10月からとなった。

2. 「別れ」(高3・12月)

高3の10月。勉強は家でしかしないと決めていたので、高3の夏から学校の図書館に毎日2時間籠ってハードカバーの大江全集を、文庫で読んだ作品以外を拾うように読み進めていった。もちろん、2時間ごときでは一冊読み終えるのに1週間はかかる。それでも、本当に受験勉強をしなければまずいと恐れを抱いた12月の上旬までに『ピンチランナー調書』まで読了できたのはとても幸せなことだったのだろうと思う。
ご存じのように大江作品は『個人的な体験』から潮目が変わる。障碍を抱えた息子と向き合い、やがてはその息子が小説の中で世界狭しと暴れ回る――『ピンチランナー調書』とかはまさにそれ――ようになるが、今思えば『個人的な体験』はともかく、それ以降の作品はそれ以前の短編で何度も味わわされていた自分の汚さを目の前に突き付けられる体験を期待しながら、それを味わわないまま、ただ息子の(架空の)活躍自慢を読まされているだけで終わるというのを繰り返すことになった。このまま(架空の)親バカの自慢話を読み進めるのか?と自問しつつモードを受験勉強に切り替えなければというギリギリの時期になっていい加減最後にしなくてはということで最後に読むと決めた『ピンチランナー調書』が、冒険活劇っぽい軽い感じだったのは踏ん切りをつけたい私にとっては極めて幸運なことであった。最後の方は長編に次ぐ長編という感じで頭の中はパンパンになっていた記憶もあるが、大学受験のためにいったん全部措いた。受験は1勝1敗、1敗の理由はおそらく大江文学に触れた「2時間×90日=180時間」のせいであろう。しかし同時に、1勝(結局この大学に入った)の理由もまた「180時間」のおかげだったように思う。1勝の方の大学には課題文付きの小論文があったのだ。入試に出せる程度の課題文など大江文学に比べたらお遊戯のようなものである。そういう意味で大江文学は私の血肉になっているのだと私は勝手に思い込んでいる。

3. 「再会」(大学生)、そして『性的人間』の爆売れ

大学進学後は高校の時の読書熱は、もともとそんなに熱くないというのもあってか、特に呼び覚まされることもなく、高3の時に運よく振り切ったところの大江全集読破の再開など考え付きもしなかったのであるが、それでも書店で大江作品(ただし文庫本に限る)を見つけたらちょくちょく買っては積ん読していた。読みたいという欲は見つけた瞬間が最大だった。そのため『ピンチランナー調書』以降の長編は、可能な限り購入したつもりでいるが、そのほとんどが学生時代から今に至るまで全く読めていない。もったいないことである。
そんな折、大学の学部から供出される(敢えて「供出」と書かせてもらう)生協委員だった縁で、大学の購買部のお勧めの文庫本の帯(大学生協オリジナルのもの)に推薦文を書こうという企画にあずかる機会に恵まれた。見栄っ張りだった私は難しい本も読んでるんやぞと言わんばかりの自己顕示欲をいかんなく発揮して大江健三郎の作品の帯を作ることは秒で決めたのであるが、どの作品にするかで少し迷った。
個人的にハマるきっかけは前述の通り「人間の羊」である。だから普通に考えて「人間の羊」を推しつつ『死者の奢り・飼育』の推薦文を書けば迷う必要などなかったのだ。ただ、テーマがテーマなので、それなら面白さを前面に出しているのであればどうだろうかと考え直して、「敬老週間」や「アトミック・エイジの守護神」といった偽善者どもは皆〇しやといわんばかりの作品を容赦なく所載した『空の怪物アグイー』がいいか、さて果たしてどちらがいいだろうかと悩み抜いた挙句、締め切りが迫っていた私の頭が選んだのは『性的人間』であった。
『性的人間』!なんで表題作をこれにしたんだろうという疑問は今でも持っているが、この本に載っている3編の作品の中で私が好きなのは「セヴンティーン」、そう、幻といわれながら最近全集に載った「政治少年死す」の前振りである。私自身が前述の通り「人間の羊」にやっつけられるまでは「社会正義の使徒みたいなもん」だと自任していたくらいには頭が悪かったので、「政治」というテーマも、そしてそのストーリーも初めて読んだ時から刺さりっぱなしだったのだ。これを紹介したい、と悩んで疲れ切っていた私の頭はその思い付きに飛びついた。
ただ、表題作『性的人間』についても触れておく必要はある。だから表題作は痴漢の物語である云々と適当に書いた後で「セヴンティーン」はもっといい作品やぞという感じでまとめて帯の原稿を提出した。その結果、生協書籍部の文庫コーナーに、もうこの当時は大江作品の文庫本もほとんど並ばなくなっていた状況で『性的人間』が平積みと併せそこそこの冊数が並ぶことになり、当たり前だがこの企画が終わるまでに売れた形跡はなかった。そう、全くなかった。何せタイトルが悪い。いや、それに帯の推薦文「痴漢の物語」云々が拍車をかけている。この当時であれば、その本の並びを見て大江のことを団鬼六とか宇能鴻一郎の仲間だと思った人もいたのではないかと今考えると少しだけ胸が痛むが、質が悪いことに私はそんな晒しもんのような状況にあっても『性的人間』は素晴らしい作品集だし、よく考えたら3作品のうち1つは「性的人間」、もう1つは「セヴンティーン」、さてもう1つは――何だったっけ、となるくらいにはこの作品集を読み込んでいたのであるが、いずれにしてもこの時の率直な気持ちは「帯に私の名前が出なくてよかった……」というものであり、「人間の羊」を読むことで打ちのめされていた偽善的な魂はもはや不滅だということをまざまざと思い知らされていたのだった(いや、出ていたのかもしれないけれども私の記憶は少なくともそれを拒否している)。

ただ、ここでちょっとした奇跡が起きる。

結論からいうと、この『性的人間』はそれからしばらくして完売した。

何があったかはもう察せられようと思う。1994年の大江健三郎のノーベル文学賞受賞である。10月に大学の後期が始まるや大江の受賞に日本中が沸き、ニュースが流れた次の日に、私は罪の意識を心の奥底で抱えているという設定で『性的人間』が積まれている書籍部に向かったところ、その日は『性的人間』以外の残り少なかった大江作品がまず姿を消した。設定は割とマジものの罪の意識になり、在庫を抱えさせて申し訳ねェ見たいなことをこういうときは考えるんだろうなと思ったりもしたわけだが、なんとその翌日には『性的人間』も完売していた。タイトルからして、そして私が書いた余計な帯のせいで買うのをめっちゃ躊躇うべき本が、アルフレッド・ノーベルの権威のおかげで見事売り切れたのである。かくして、推薦されていたたくさんの文庫本の中で格別売れていなかった『性的人間』がノーベル賞の権威と権威に弱い人々のおかげで爆売れするという面白い現象を目にすることができた。
ちなみに「セヴンティーン」だが、政治的な面だけがその続編「政治少年死す」のせいでやたらとクローズアップされるが、『性的人間』に負けずとも劣らないほどそっち方面の描写が豊かである。自〇(「自害」とかではない方)のやり方がこれでもかこれでもかとやけに詳細に描かれており、まあ、どうしようかしらんという気になる。とはいえ、本筋はそこではないし、それがあってこそ「セヴンティーン」は輝くともいえるので、今考えれば無難に『空の怪物アグイー』か『死者の奢り・飼育』にしておけばよかったのは間違いないのだが、ノーベルがいれば何でもできるのである。とても勉強になったといえる。

かくして、少なくとも私の在学中は、大江作品は『性的人間』も含めて適宜補充されるようになり、生活費をやりくりして最高に高まった読書欲と共に彼の作品を買っては本棚の肥やしにする豊かな学生生活を送ることができた。特に、高3の12月、実は泣く泣く読むのを諦めた長編は在学中に出版されたものであればだいたい買い集めた。私の心は満たされたのである。

そして言うまでもないだろうが、それらはいまだに本棚に眠りっぱなしである。

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