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「全部自分が悪い」は何も解決をしない 

全部自分が悪い


人がつい持ってしまっている思考。

「全部自分が悪い」

「全部相手が悪い」

人の思考のクセによって、どちらに偏りが出るかは個人差があると思う。

全部自分が悪い、全部相手が悪い。実はこの思考は、どちらの思考になれど、この思考を持ち続けている限り

同じことがくりかえされる。


思考の中に

「良い」

または

「悪い」

 というジャッジがあると その事象が永遠に繰り返される。

遅刻をしてしまう人がいたとして

「遅刻が悪い」という認知がある。

その 悪いを認知すると永遠にくり返される。


「自分が悪い」という思考でいると
・今のままでいられる
・反省している姿から見逃してくれる
・本質的に解決しなくて良い

他人が悪いという思考でいると
・チャレンジしなくて良い
・責任をとらなくて良い
・考えなくて良い


自分自身の心と体は繋がっていない。

人は反射的に反応をする生き物なので、心で思っている事と違う事が体に反応で起きる。


「全部他人が悪い」と思考する反応の正体は「支配」。

遅刻という事象があるとしたら、「遅刻するお前が悪いよな」というのは本質的な解決を望んでいない。
お前が悪い、という上下関係を構築するための支配を望んでいる事になる。

本質的な解決を望むなら、「なぜこの人は遅刻をしてしまうんだろう?」と問題解決の思考に入る。


「自分が悪い」の思考の反応の正体は 「その場の支配を逃れる」。

「ごめんなさい。自分が悪かったです。ごめんなさい」
謝り続ける事で、反省している姿を示し、支配から逃れる。

反応

反応とは、無意識に生まれる咄嗟のアクションや思考のクセ。

意思よりも訓練された癖が強いから、反応に支配される
身体に反応がなれているから 反応の方が強い。

反応は100%自分で自分を騙している
この反応に入ると、人の話を聞かない状態になっている
全部自分が悪い、というフリーズ状態に入る。

「自分が悪いんだ」という自責にかられる自分に酔い、脳の快楽物質が出て気持ち良くなり、本質的な解決に向かわなくなってしまう。


怒り

全部自分が悪いんだ

全部他人が悪いんだ

このように、解決に向かうべきの思考はフリーズする。

怒りを感じた時は

出てくる怒りを 怒ったり殴ったりをしたいという欲求の本能を潰すことにリソースを割いている。

そこにリソースを奪われることで、本来持ってるエネルギーを大幅に損失してしまう。

怒りを持ってて良いモノだ。
持ってて当然だ。
怒ってはいけない。と考えなくて良い。
怒りを承認すること。

悪の感情がなければ 克服がない。

人を殴ってはいけない。
人にキレてはいけない。

本来人間として生きていると、常識から見た時に「悪」とされる感情が多数生まれうる。


これらはあるものだと、認めて良い。

否定をしてはいけない。

否定をしておさえこむ、我慢することは何も解決に向かわない。

悪感情はあって当然で、あるものがある中でどうすればそれをうまく扱えるのか。
それを考えることが本質的に大事なのである。

その思考から解決に向かうことで、幸福が手に入る

「人を殴る、キレる」その悪感情を否定すると 克服ができない。

我慢をすればするほど、フタをすればするほど、ふとした時に欲求が肥大化して爆発する。

それらを隠せば隠すほど よくないものだと自己否定をして、自分のエネルギーを下げてしまう。


自分におこったわるいことは 自分が発していることである。

なんか絶対~なんだよな。
仕事で怒られるんだよな。

そうなるべくしてなるように、自分が何か電波をだしているからそうなってしまう。

人間誰しもが持っている悪感情がある。

・ダイエットをしたいが、美味しいものたべたい
・働かないといけないが働きたくない

自分が持つ本能と
自分に植え付けられた常識の葛藤 

これが罪悪感になってしまう。

おさえればおさえるほど 増幅する。

増幅して、どこかの拍子で爆発する。

では悪感情はどう扱うべきなのか

悪いものだと扱わず、小出しにする
(仕事をバレないように軽くサボる、ダイエット中もチートデイを設けて満たす)

これらを悪くすることで
おさえればおさえるほど爆発する


人を殴りたい
人にキレたい

こういった感情を持っていると、悪くしていると自覚する。

否定は解決に向かわない。
持っている自分が悪いんだ、と思うだけでは解決には向かわない。

それを肯定して、どう使うかを考える。


答え

自分が隠している罪悪感 が 自分が持っている本心である。

「欲求をおさえて生きるな。オスとして生きるエネルギーが無くなるから」

自分は色々ありこう思った。

その本心を悪いにしないでさらす(人を殴りたいなどの悪感情でも。そもそも人を殴りたい、を良い悪いで判定する事すら一旦おいておきたい)
日常からネタにする

おさえると爆発する おさえないで普段から発散する。

自分はどんな罪悪感を隠しているのか?
自分にはどんな本心があるのか?

罪悪感を持つことはアホくさい。
生きていると。持つように設計されている 心の中にある、本心に対して。 


人は罪悪感を使うことによってエネルギーを下げている。

罪悪感はエネルギーを下げる。

罪悪感に捉われていると 愛や恵みに触れられない。



自分の持つ衝動性は欲から生まれるものだ。
したい事に、欲に素直であるという事だ。
欲は罪でもありガソリンでもある。
では良くないとされる欲を持つ、罪を持つ事で、罪悪感が生まれる。
その罪悪感は、常識から生まれたもの。

欲は罪 罪は罪悪感。
その罪悪感は、常識との照らし合わせから生まれている。


自分の反応をグリップしよう。

全部自分が悪いと自分を否定する事で気持ち良くなっていないか
全部自分が悪いと他責になり、思考する事を放棄していないか。

それらの感情をメタ認知し、自分の反応のクセをグリップ出来るようになることで、「解決」が生まれる。

その反応をほっとけば、昨日と同じ内訳で今日も生きる事になる。
毎日毎日、変わらない日々を自分の持つ反応に任せて生きる事になる。
この先、何も変わらないクソみたいな人生を歩む事になる。

欲求は我慢しているから、フリーズする。

「自分の願い」と「常識」と「本心」

人にキレてはいけない。

キレ散らかしたい「願い」がある。

キレ散らかしてはいけない「常識」がある。

常識に逆らってでも怒りを爆発させたい「本心」がある。


キレてはだめだ。と罪悪感で封じ込めるといずれ爆発する。

我慢しなきゃ、しょうがないで、おさえこんではいけない。

何がそうなってその反応をもったかを知る事。

欲求をおさえこむことをやめて解決に向かう事で、新しい行動を取れるようになる。

前に進むためには、新しい行動をとれることが大事。

自分の人生に、ひろゆきとしての在り方に責任をとる事。

人にキレたいという感情を持つ自分が悪い で 着地をすれば、本質的な責任から逃れられる。

その感情は持って良い。

キレるのは悪い事ではない。というように常識を疑ってみるのも良いかもしれない。

常識を疑う事で、全ての動かない現実を動かせる。
解決に向かう事ができる。

仕事をサボってはいけない。
怒りの感情を持ってはいけない。
人を殴ってはいけない。

欲求に蓋をさせるという事では、何も前に進まない。

という欲の否定からは何も生まれない。

怒りの感情や悪いとされる欲求 を 悪いことにしない。

その感情を持っている人がいるとしたら、まずはそれを受け入れる。

否定しない。

「怒りたい」の感情をおさえこまない。
あって良いものだとすること。


この「常識」から見た悪感情をもうこの先否定しなくて良い。
あって良いものだと受け止めて良い。

あるものはあるものだとして、どうしたらそれを誰かを傷つける事なく建設的に解決に向かわせる事ができるかを考える。


自分を縛っている無意識の常識に対して、改めて疑問を持ってみるのも、良い。

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