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コリスポンデンツァロマーナ

2023年11月にたどり着いたこのアパートはアレッサンドラのものである。10年前の2013年にも、私はここで6か月暮らし、その時もアレッサンドラはいた。けれども、当時彼女は週末はいつも両親のいる海辺の町に行って不在であったし、家にいても極度にインドア派の彼女は部屋から出ることはあまりなかったし、ローマ2年目の私は大抵図書館が閉まる19時まで大学にいたため、それほど関わることがなかった。でも話をした時はよく一緒に笑った。私立の学校に通った箱入り娘であるため、一般的なイタリア人女性とは違う所がある。夜一人で地下鉄に乗ることは出来ないし、多民族が住んでいる地下鉄A線上のヴィットリオ・エマヌエレに校舎がある大学に通わなければならなかった時はいつも不安だったと言う。一見暗い感じなのだけれども、本当はその正反対で、学校の食堂で働いている彼女は子供たちからも同僚からも好かれている。ユーモアがあり、他人に対する敬意というものを常に持っている人だからだ。そんなアレッサンドラとの暮らしも7月3日で終わった。それ以降家賃を払えるお金はなかったし、大学の授業はすべて通い終わり、残すところは試験と卒論を残すのみとなったので、他州の友達の所に転がり込んだ。この学年度のローマ滞在は本当に厳しいものであった。見る見るうちに円が下がっていった。コロナ後、ただでさえイタリアの物価は上がっていたのに、150円台で底打ちだと思っていた自国の通貨が170円台まで下がってしまったのだ。日本から10か月の滞在予定のために持ってきたのは70万円ほど。働かないとお金が足りない計算だった。幸いと言おうか、最初のアパートを追い出されたおかげで結局2か月の家賃が浮いたために、11月から始めたレストランでのバイトと、1月から始めた週一の日本語会話レッスンだけでぎりぎり生きてこられた。そしてそれ以外にも大きな助けだったのは、アレッサンドラが持って帰ってくる給食のおこぼれ。これまで、何キロもの果物をもらったし、自分では買うことが出来なかったお肉、お魚も彼女のお陰で口にすることが出来た。半年で肉屋に行ったのは2度、お魚は市場で鮭を一切れを一度買っただけ。それも4等分にして食べた。それ以外は豆をたんぱく源にしていた。イタリアの小学校は6月初旬で夏休みに入る。もらえるものを出来る限り冷凍して、何とか食いつながなければと、5月後半から焦りを感じ始めていたけれど、仕事の最終日に彼女は大量の鶏肉と大量の牛肉の残りを持って帰って来た。何かと健康に問題がある彼女は3日ぐらい経つともう食べない。大量の残りの残りをほとんど引き受けたところ、ほぼ6月いっぱい食材が持った。冷凍庫に入りきらない程あったため、一部は捨てたぐらいである。冷凍庫に場所がなかったため、鶏肉はほぐしてカレーにして加熱を繰り返しながら最後まで食べた。牛肉も別の鍋でビーフシチュー風にして、加熱を繰り返し消費しつくした。この助けなくして食べてこられなかった。彼女の友情と、この助けにいつまでも感謝する。
と、本当は生き延びたつもりだったのであるが、外国人の学費が2年前から一律16000ユーロになっていたことを知らず、4月ぐらいに去年と今年の分の高い差額を請求され、結局また親に借金をせざるを得なかった。みぐるみ剝がれて、裸にされた気持ち。2016年辺りから、こちらでの暮らしは円安の影響を受け、本当に苦しい。日本に帰ると、一文無しである。親がいなければホームレス。人によっては命を絶つこともある様な現状である。この地球上に私のお金と呼べるものは1円もなくなった。なのだけれど、人生に対するわくわく感があるのだ、なぜだか。

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