見出し画像

コリスポンデンツァロマーナ

7月1日に受けた試験に落ちてしまったのである。この試験に落ちるのは2度目。同じ試験に2度落ちるなど、3年制の1年目以来である。あの時はイタリア語のレベルも低く、外国人がイタリア人とくらべてどれくらいのレベルを求められるのか分かっていなかったし(それは同等に決まっていた)、試験をどう準備するか、いやそれ以前に文学は何を分からなければならない科目なのかも分かっていなかった。そして、試験中に(それは口頭であった)、「その作品は読んでいません」と言ったのだ。それは決して口にしてはならないセリフの一つである。おそらく教授は割と甘めに点をつけてくれるつもりであったと思う。ニコニコしていたから。しかし、その一言を発した瞬間、重い緞帳が下りるかのようにその笑顔が消え、「なぜ読まなかったのです」と言われ「だって、教授がダンテの話を始められたので(外国人の私にそんな事分かるって期待しておられないでしょう)」、と答えると、「分からないなら質問に来なさい。次の試験期間にまた会いましょう」、それで終わりだった。授業のプログラムが発表されるとき、授業で読む作家(たち)の作品以外に、試験のために読むべき文献のタイトルなども載せられる。初年、そんなことは全く知らなかった自分は、授業の復習だけすればいいと思っており、2回目の試験も読まなかった作品についての部分の授業も復習しただけで臨んだ。試験の前日、同じように自国では高卒で、同じようにその試験を落とされた友達とカフェなど飲みながら話していた時に、その参考文献の話になり、友達はある本を読んでいなかったことが試験中にばれて落とされたと言った。寝耳に水の筆者の名前。その質問をされないように祈って臨んだところ、勿論その本に関する質問はされることとなり、またやり直しとなった。
それから何年もたち、授業は授業中にかなり分かるようになり、ノートもとれる様になったにもかかわらず、同じ試験に2度目の落第。簡単にはならないにせよ、努力して臨めばそこそこの点で通れるようになったのに。これは英語の言語学の試験であり、テーマはルネッサンス期の英語についてであり、授業中はシェークスピアの翻訳をしながらその英語について分析した。授業中にグループワークで、シェークスピアの「サー・トマス・モア」の一部をイタリア語に訳して発表すれば試験の翻訳の部分は免除となったため(そこが一番比重が重い部分であることは明らか)、それは必死で終わらせた。そして英語の歴史やシェークスピアの英語について書かれた文献はすでに読んでいたため、準備期間を2週間に定め、そこで集中しようと思った最後の一週間、体調を崩した。そういう事になるのだ。そして、すでに読んでいて、要約してあると思っていた3つの文献のうち、一つが出来ていないことに気が付いた。その文献はどちらかと言うと、翻訳作業の時にかなり参考にしたため、試験とはあまり関係がないであろうと思って、軽く復習したところ、2問の質問のうち一つはそこから出題されてしまった。そんなものである。
1500年代の英語にはまだスタンダードと言うものが存在していなくて、スペルもばらばらであった。語彙数も今よりもずっと少なくて、印刷機の発明によって色んな知識が流れ込んできたにもかかわらず、英語は新しい知識を表現するだけの豊かさがなかったため、色んな言語から単語を取り入れた。とか何とか、こんな事を学んだのだけれど、面白いのは、「自然さ」と言うものがネガティブに捉えられたという所だ。識字率が低いためスピーチがまず考えを表現する方法だったこの頃、言葉とはコントロールし計算したものでなければならなかった。教授が「今の政治家って言いたいことそのまま言ってるけど、ここの所大事だと思うわ」と言ったけれど、全くその通りだと思う。思ったことをそのままいうのは動物と同じ、自然とはカオス、というのがその頃の考え方だ。
3回同じ事勉強すると、これらの知識は遠い記憶。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?