「コーダ あいのうた」

「コーダ あいのうた」 

2021年。アメリカ・フランス・イギリス合作 「エール!」というフランス映画のリメイクらしい
家族の中で自分だけが健常者である少女が主人公の映画
驚いたのがこの作品を見始めた瞬間からイギリス映画であると思い込んでいたのであるが、調べるとアメリカ、フランス、カナダ合作であったこと。
見始めた瞬間から何故かイギリス映画だと確信した。私が好きになる映画はイギリス産が多いからだ。
自分以外の家族が全員聾唖という障害を持ち、自分だけが健常者で耳が聴こえるが故に、家族のために世間との間の「通訳」として生き続けてきた少女と書くと、近年よく聞く「ヤングケアラー」と言ったシビアなテーマの重たい話かと思いきや、全くそんなことはなく、笑いながらいつしか全力でこの家族を応援しながら光に包まれる。誰を責めることない視線を感じる素敵な映画だった。
少しヤンチャで熱すぎて娘を困らせる両親や兄貴、愛すべき人々

ハンディキャップを抱えた家族とハンデイのない自分、という設定ではあるが、健常者と障害のある人の特別な話ではなく、言葉が聞こえあっていても「思いが伝わることない」、普通に生きる私たちの物語として、成功している。
特に印象的なのが、主人公のルビーの秋のコンサートの歌唱シーンである。家族は娘の姿が見えるが、音楽は当然聴こえない。「きれいだわ」などと見えたものを話す。音楽を楽しむことはできない。聴こえないからである。飽きてきて「晩御飯なんにする?」などと言っている。周りが拍手するのを見て自分たちも慌てて拍手を送る。
圧巻なのは、ルビーのデユエットシーンだ。突然音声が消える。無音になる。これが彼らの世界なのである。
私を含め、映画を見ているほとんどの観客の知ることのできない音のない世界である。聴こえる世界と聴こえない世界。その差は歴然とある。それをとても受け入れやすい形で表現した秀逸なシーンだと感じた。
では、そのギャップは埋めることはできないのだろうか?
答えはその後のシーンになる。車の荷台に乗る父親(これがオモロイおっさん)とルビー。
父親は歌ってくれとリクエストする。自分のために歌ってくれと。
ルビーは歌う。耳の聞こえない父親の隣で。父親は彼女の首に手を添えて、その波動から聴こうとする。聴こえない歌を感じ取ろうとする。
伝わるということは、こうして伝えようとする側と受け取りたいという側の気持ちがあれば、伝わりあうこともできるのだ、と象徴的に表した素敵なシーンで感銘を受けた。
同じ日本語で、同じような言語能力があっても、長いこと毎日顔を合わせていた家族であっても、どんなに気持ちがあったとしても、そこに見えない心の壁があると、伝わらない。いや、どちらかというと近しい人の方が伝わらない気持ちが多いのだと、長く生きていると思い知ることがある。

ラストの大学のオーディションのシーンでルビーは家族のいる前で唄う。
歌の途中から彼女は手話を交えて唄い出す。家族には何が聴こえただろうか?音は聞こえない。ただ、娘の「私の歌を見て」という気持ちが心に降り注ぎ、それは彼らにとって初めて聞く「娘の歌」だったのだろう。
音のない世界で聴こえてきた初めての音楽
何万回「愛している」と伝えるよりも愛が伝わったように見えた

言葉とはなんなんだろうか
愛ってなんだろうか
言葉は言葉以上ではありえない
愛そのものでもないし、人そのものでもないし、心そのものでもない
見えているものの中から見えないものを探し、言葉の中から言葉にならないものを探す 
心を開かない限り他者とは分かり合えないが、この謎だらけの世界に生れ落ちてきて、謎だらけの他者と分かり合っていくには、いくつかのヒントが必要なのだ 言葉や 笑顔や シグナルが 

探し物の毎日の中で出会えた素敵な映画だった。
個人的にはヒロインを導く少しクセのある歌のコーチがとてもいい
映画の冒頭で自分の誕生日を祝う歌を歌ってくれというシーンで、ルビーはうまく歌えなかった
聾者の家族の通訳に明け暮れスクールカーストも低い彼女は自己肯定心が低くて、人前で歌う自信がなかったからだ。
その後一人、湖に向かって見事に「HAPPYBirthday 」を唄い湖面に響かせる。
その彼女の心の中にくすぶっていた声を見抜き、引き出した名コーチが素晴らしい
自分を頼り切る息苦しいほどの家族愛だけではルビーの内なる歌声はかき消されそのうち腐っていっただろう
彼女の内なるうたを解放したコーチの存在感
そして試験には落っこちてしまったが、一時期彼女と寄り添いあえた彼氏の存在感
そして家族
一人の少女の旅立ちを祝福するにふさわしい素敵な映画だった




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