見出し画像

【2020.05.31】落っこちるときは、堂々と落っこちてやればいい。勢いよく下降したものは、風を生む。壁にぶつかれば、上昇気流を生み出す。

滝の話がすごくよかった。


久しぶりにテレビを観た。

いや、嘘をついた。先週金曜日に『キングダム』を観たばかりだった。

気を取り直して。

久しぶりにバラエティ番組を観た。『さんま・玉緒のお年玉 あんたの夢をかなえたろか』。これはけっこう好きで、放送されることに気づいたときは毎回観ている。


滝の話が出てきたのはこの番組ではない。

開始の少し前からチャンネルをTBSに合わせてテレビをつけていたら、Canonが提供する『世界遺産』という番組が放送されていた。


今日取り上げられていたのは、アフリカ最大の滝である「ビクトリアの滝」だった。ジンバブエとザンビアの国境に位置する、幅約2km、高さ100メートル以上におよぶ大瀑布。

落下する大量の水の速度は、時速150kmにもなるらしい。その衝撃で、滝壺付近では風速20mもの風が発生。向かい側にある崖にぶつかり、強い上昇気流が生まれる。

その気流に乗っかり、なんと上空500メートルの高さにまで水しぶきが舞い上がるという。ヘリコプターからの引きの映像で見ると、噴火後の火山のように白い煙が立ちのぼっていた。

そのため、この滝の付近では常にどこかに虹がかかっているそう。神秘的だ。

けれど、素晴らしいのはそれだけではなかった。

舞い上がった水しぶきはやがて付近に降り注ぐ。その年間の量は、日本の年間降雨量の180倍にあたるそうだ。その恩恵を受けて、乾燥地帯であるにもかかわらず、滝の周囲には豊かに木々が生い茂り、それが動物も含めた生態系を育んでいる。


この話がいいなと思ったのは、滝は「落ちるもの」だからだった。単純な僕は、すぐに人生に紐づけて考えてしまう癖がある。

自身の下降の時期と重ね合わせながらこの話を聞いていると、とても勇気をもらえた。

勢いよく下降したものは、風を生む。壁にぶつかれば、上昇気流を生み出す。それに乗っかって飛んでいったものたちが虹を描き、ふたたび散っていったものたちが生態系を育む。

僕自身の落下の体験を開き直って語ったことが何度かある。そのときに、聞き手の側の心もまた開かれていき、よい変化が生まれる、そんなシーンを体験してきた。たぶんそれは、ビクトリアの滝が見せてくれたものと重ね合わせていいものだと思う。

落っこちるときは、堂々と落っこちてやればいい。落下もまたパワーなのだから。


上手とは言えないかもしれないけれど、こうやって人生のメタファーを見つけていくのが好きだ。メタファーをひとつ増やすことができた日は、大切な日になる。

たしか『憎むのでもなく、許すのでもなく──ユダヤ人一斉検挙の夜』(ボリス・シリュルニク著、林昌宏訳、吉田書店)で出てきた話だと思う。遺伝子が似ている双子が戦争か何かで同じトラウマを抱えたが、その回復具合に違いが出た。調べていくと、この二人の大きな違いは「言語化能力」だったそうだ。

辛い話を無理にポジティブに転換する必要なんてないと思っている。辛かったものは辛かったものでいい。「その経験に感謝しなきゃね」なんて他人が簡単に言っていい言葉ではない。

けれど、その体験の語り方を本人が変えていけることは、きっと大事だと思っている。

つかみどころがなかった正体不明の辛さを豊かな語彙で見破っていくこと。
自分が少しでも楽に生きていける物語のなかに体験を位置づけ直していくこと。
そして、言い換えられるメタファーによって体験に具体的な輪郭を与え、客体化して目の前に置き、冷静に眺められるようになること。

少なくとも僕の場合は、そうしていくつかの受け入れがたい体験と共存できるようになってきたのだと思う。


必ずしも言語ではなくてもいいのかもしれない。絵でもいい。音でもいい。パフォーマンスでもいい。

何かを「与えられる」ことによる癒しではなく、自ら「表現する」ことによる癒し。そこに可能性があるような気もしつつ、表現者たちが味わう苦しみにも思いを馳せつつ、いずれにしても関心があるテーマだ。

「落ちる姿を見せる」という表現によって、ビクトリアの滝が自身を癒していたのかどうかはわからない。けれど、少なくとも僕は今日、その表現に触れて癒しをもらうことができた。


ありが滝、幸せである。


重症だ。滝よりもまず、お前が早く眠りに落ちたほうがいい。

ただし滝の夢には気をつけろ。朝起きたら小学生以来のお布団アートが完成してしまっているかもしれない。

いや待て、これも表現ではないか。表現による、癒しが生まれるのではないか。


おやすみ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?