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【2020.04.27】「書く」という行為の価値については、次の3つの言葉をいつも心に留めている。

行きつけのスーパーで、こっそりとある戦いに挑んでいる。

レジに並ぶと、ポイントカードを持っているかどうかを聞かれる。持っているので手渡す。いつも会社の20周年記念でつくったトートバッグを持っていくので、レジ袋は不要と伝えると、エコポイントを付けてくれる。

野菜やら果物やら飲むヨーグルトやらが、レジセンサーを通って、カゴからもうひとつのカゴへと移されていく。人によっては、一つひとつ品名と値段を声に出してくれる。後ろに並んでいる人に今日の晩御飯がばれてしまうかもしれない。それはいいとしても、

「あらやだ、あんなに安い納豆を買っちゃって」

なんて思われてしまったら、大の納豆好きとしてはプライドに傷がつく。最近は美味しい国産納豆を選ぶようにしている。

合計金額が出ると、すぐ近くにあるセルフレジ機に通される。


そして、勝負はここで始まる。


レジ機が受け入れ準備を完了したと同時に、手に準備していたお札を素早く入れる。そして、お釣りの小銭が少なくなるように、できるだけ端数の金額分のコインを入れようとする。

いつも! ここで!! 財布を漁っているときに!!!


「ポイントカードのお返しです」


このタイミングで必ず返されてしまう。そうなると、せっかく小銭を探していた作業を中断して、一度ポイントカードを受け取るのに片手を奪われてしまう。コインの海のなかで見つけかけた5円玉を、また見失ってしまう。

なんだかこれがすごく悔しく、いつも戦ってしまうのだ。


「今日こそポイントカードを返される前に見事清算を終えて余裕を持って両手で丁寧に受け取ってやる......!」


さっきも戦ってきた。そして例のごとく、負けてきた。
明日はきっと。明日はきっと。




クオリティを保証しない日記だからとはいえ、どれだけ益のないことを書いているのだと、こういう文章↑を読み返すと自分でもげんなりする。誰がスーパーにおける密かな戦いの詳細など知りたいだろうか。僕自身からしても、別に探究したいとも思わない内容だ。

けれど、こうして益のないことを毎日1,500字以上綴り続けてきて27日間(これはなかなかすごくないか)。無駄とも思えるこの努力のなかに、少しずつ「効果」という名の報いが姿を現し始めている気がする。

なんでもないことを書くからこそ、一見意味のなさそうなことへも注意を向け、どんな些細なことからも学びを得られるようになっていく。
なんでもないことを書くからこそ、そこに付随するわずかな自分の感覚に一生懸命耳を澄ませ、心身の声に敏感になっていく。
なんでもないことを書くからこそ、広げるために脱線や連想を繰り返し、要素を紐づけて考える癖ができてくる。

これらはもしかしたら、「意義あること」を考えるなかでは手に入れられないことかもしれない。「なんでもないこと」を書くからこそ、様々な工夫をする必要が生まれ、その工夫が自分を高めていってくれる。

「なんでもないことを書くこと」を美化するならば、そんな感じではないだろうか。そんな美化したイメージを信じて、もうしばらく続けてみようと思う。


「書く」という行為の価値については、次の3つの言葉をいつも心に留めている。

拙(まず)く書けてはじめて考えていた事がはっきりすると言っただけでは足らぬ。書かなければ何も解らぬから書くのである。
──小林秀雄
僕は読者のみなさんに、できることならわかっていただきたいのです。僕は決して発展しながら小説を書いてきたのではなく、あくまで小説を書くことによって、かろうじて発展してきたのだということを。
──『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです──村上春樹インタビュー集1997-2011』(村上春樹著、文藝春秋)
あらゆる真の小説家は、個人を超えるその知恵に耳を傾けるのであり、これが偉大な小説はつねにその作者よりすこしばかり聡明だということを説明します。みずからの作品よりも聡明な小説家は、職業を変えてしかるべきでしょう。
──『小説の技法』(ミラン・クンデラ著、岩波書店)

書き始めることで、理解などできていなかった自分に気づける。
書きあげたものは、書いた本人を超えていく。

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