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【2020.07.20】タイピングよりも時間がかかるけれど手書きでものを考えるのが好き。

自身の変化を望む心の声が、ここ数日大きくなっている。こういうときは、その感覚を漠然と感じていてもダメで、時間をかけてその声をはっきりさせていく必要がある。

その手段として「書く」という行為がある。

書かないことには、「自分は何をわかっていて、何をわかっていないのか」や「考えていることの要素同士がどうつながっているのか」が把握できない。もっと悪いことに、書かないでいると、それらがはっきりしていないくせに、「なんとなくわかっている感じだから大丈夫」と誤った認識に至ってしまう。

これが怖い。

だからこそ、その書く場としてこのnoteを活用しようと思っていたはずだった。......のだけど、ここ最近は「連続投稿記録を途絶えさせたくない」という惰性だけで続けていて、まったく本来の役割を果たせていなかった。

いままた「書くこと」の必要性を強く感じ始めているのだけど、なぜかこの場を活用して進めようという気があまりおきない。それよりも、手元のノート(サービス名と混ざるが、紙のノートのこと)に手書きで進めたい。

手書きの効用はいくつもある。


●思考の連続性(思考と執筆のペースが僕にはちょうどいい)
タイピングは文字の出現が速すぎてしまう。そのため、一行書き終えるごとに「さて次は......」と、思考が途切れ途切れになりやすい。その点手書きは、どう頑張っても執筆のスピードが限られる。その「遅さ」のおかげで、ある一行を書いている最中に、もう次の行で書きたいことが浮かんでくる。「それが消えてしまわないように」というある種の緊張感が、間をおかずに筆を進めてくれる作用になる。目の前に人参をぶら下げられた馬じゃないけれど、絶えず次の尻尾を掴もうとする感覚が、思考の連続性と執筆への没頭を生み出してくれる感覚がある。

●ラフな勢い(汚いまま進められる)
タイピングだと文字もきれいだし、行間の幅も整っている。一言で言うと、文章の見た目が美しい。誤りや納得いかない部分をdeleteするのも、消しゴムよりずっと簡単にできる。その美しさと便利さが「完璧に仕上げよう」という余計な意識を助長してしまう。その結果、ひととおり書き切る前から細部にこだわってしまい、文章の執筆に推進力が生まれないことが多い。一方で手書きはもっとラフ。特に字が汚い僕にとっては、もはやそこに見た目の美しさへの配慮はなくなる。機能面でも劣るから、いちいち前に戻って書き直そうとも思わない。間違ったらグチャグチャっと塗って先に進めばいいので、勢いが削がれることは少ない。

●閃きを形にする瞬発力(レイアウトが自由)
勢いに乗って書いていくなかで、前半で書いていたAと後半で書いていたBがつながって、新たにCという考え方が閃くときがある。そんなときに、手書きならばAの場所とBの場所から線を引っ張ってつなげ、空いているスペースにCのアイデアをささっと書けばいい。ところがPCでタイピングしていると、そういう自由は効かない。あくまで決められたレイアウトのなかでやらなければならない。図に関しても、手書きのほうがささっと具現化できる。PCで作成する図は完成すれば美しいけれど、そこに手書きのような瞬発力はない。閃きを反射的に形にするには、手書きのほうがずっと便利だと感じる。


まだまだありそうだけど、そんなこんなで、タイピングよりも時間がかかるけれど手書きでものを考えるのが好き。そのための時間を、これからしばらくは確保しよう。

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