見出し画像

強度行動障害に類似するもの



日常に潜む危険行動


強度行動障害をご存知だろうか

強度行動障害とは強いこだわりや執着といった特性と環境のミスマッチによる不快感の高まりから激しい行動を取るため特別に配慮された支援が必要になっている状態であり、重度の知的障害や自閉症において発生しやすいといわれている。その行動をまとめると以下のようになる。

①激しい自傷…自分で頭部を殴る、爪を剥ぐなど

②他害…周りの人に噛みつくなど

③危険行動…飛び出し、高いところに登るなど

④異食や偏食…食べられないものを口にする、特定のものしか食べないなど

⑤暴れる…大声を出す、長時間にわたり泣き続ける、じっとしていられないなど

⑥強いこだわり…やっている事を辞められない、気になりだすと動けなくなる、指示を聞かず押し通す

そしてこれらと類似性があると思われる私の行動を挙げる。

    ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

•危険な横断
勤務先の敷地内で道路を横断する際、車が迫っている為待っていた方がいいと思われるタイミングで横断してしまう。自ら安全を冒して危ない橋を渡ってしまう行動である。 

•危険な右折
車での交差点の右折にて、対向車が来ているのにぎりぎりで右折する。間一髪。

•SNS上で当たり屋活動

•SNS上で荒らし行為

強度行動障害における行動はいずれも不快感の高まりから起こるとされた。私の場合はどうか。

○危険な横断
筆者における危険な横断❨飛び出し❩はいつも複雑な葛藤の末なされる苦渋の決断である。
その葛藤とは、「自分の安全を考えたら待っていた方が良い」という判断と「渡れたかもしれないのに渡らなかったら根性なし、勇気がないと思われるかもしれない」または「渡るタイミングを瞬時に見極める判断力が低いと思われるかもしれない」という思いの間で起こるものだが、高確率で根性なしと思われない方を選んでしまうのである。
つまり自分の中で根性論的な価値観があって、それに突き動かされるということだ。判断を急かされるという言い方も正しい。言ってみればこれも葛藤の不快感に耐えかねての行動である。安全の為に待つという選択をした場合は、待ってる間に根性なしと思われるのではないかという思いに駆られるのであり、耐え難い苦痛となるため圧から逃れようとする。これは危険な右折も全く同じ理由である。

○SNS上で当たり屋活動
これは個人的に鬱憤などが蓄積された時の発散である。
○SNS上で荒らし行為
言いたいことが言えない、目立ちたいなどの欲求不満が蓄積された結果の爆発的形態である。


このように強度行動障害におけるのと私の行動は不快感の高まりから起こるという点で一致している。また自らを損なう行動を積極的に行う❨自傷❩という点でも同じだ。
そうなると両者の差は自傷行為の方法❨肉体で行われるか否か❩と各行動をする際の葛藤の有無である。
きけ

危険行動の濃度を決めるもの

自分で頭部を殴る、爪を剥ぐなどの自傷は極端な形態であり、直接的である。濃度で表すなら原液に近いものである。それに対し、いくつもの行為を合わせて自傷が完成するような場合はより間接的で肉体から遠ざかる。前者が原液なら後者は希釈された形態だといえるだろう。

私の行動以外で身近な例を挙げると、好きな人の前でいつもの自分ではいられなくなるという声はよく聞く。なかでも男性が女性の前で格好つける為に自分の実力以上のことをしようとして結果的に危険となる行動に出る事がある。 
このように希釈された形態は誰にでもある。
ではなぜ、強度行動障害で極端となるのか?

それは前述した行動の実行までの葛藤の有無にあると思う。

なぜ葛藤がないか。葛藤とは相反するものの対立の間で迷うことであり、葛藤がないのは相反するものが存立しないということである。筆者の葛藤は根性論的価値観❨以下「根性論」という❩とそれに反するものの間で起こる。

根性論は私達の日常にごく当たり前に溶け込んでおり、そこかしこでその精神の発露を確認することができる。
例えば、体育会系の部活動、ブラック企業など。その精神の特徴は上下関係、義理人情、身を粉にする事の美化であり、それらの評価は見かけの量によってなされる。
その精神が飛び出しを引き起こすというのは納得がいく。

では、強度行動障害では根性論とそれに反するもののどちらを単一で有しているのだろうか。
葛藤がなく飛び出しを行うならば、根性論の方だろう。

よって強度行動障害の行動が極端となるのは根性論の単一さによるものといえる。根性論と行動の間に葛藤というクッションが入らない場合、ダイレクトな自傷となる。いわば無加工で生々しく強烈なのである。→激しい行動

根性論は悲劇の母、目先の美への執着

ところで、悲劇には息子が若くして死んで母が悲しむという型があるが、その型の中で母は悲しむだけでなく儚さを好んで味わっているように見える。未分化のものは様々な可能性を内包していて完全性を保っているが発達途中のものは一時的に見れば不完全である。よって分化前の完全な状態を愛する為、成長せずに全体性を崩さないまま死ぬ事を良しとし、そこから儚さという甘美な蜜を摂取するのではないだろうか。それは根性論における自己犠牲の美化の動機に関わっていそうだ。

自己犠牲とは仕えるものの為に自らを捧げること、自分から死にに行くことは死を求めるものに奉仕することである。自己犠牲が仕えるものは死を求めているから死ぬことが奉仕になる。
しかしそんな悲劇も、身近なところで思わぬ形をとっている。例えば、繋げて消す事で爽快感を楽しむパズルゲームなどである。あの手のものは大体、綺麗なものや可愛いものでパズルが構成されているが、私達はそれらが弾けるように消える瞬間から爽快感を得る。これは息子の死から儚さという甘美なものを接種する母に対応している。

このように悲劇は、自然のままだと私達の実際問題となり哀愁漂う結末となるが、人の手が入り加工された場合は無害なストレス解消グッズとなるのである。
ヴィジュアル系ロックバンドは容姿の美形さで少年の早逝を表し、悲劇的性格を誇張してるように思える。
強度行動障害では葛藤がない為、悲劇が加工の余地なく即表出される為行動が極端になるのではないだろうか。しかし根性論の対立物を有しているだけでは、筆者が圧に負けて飛び出しをしてしまうことがあるように、危険からはそれほど遠ざからない。根性論と対立物の発達の度合いに差があり過ぎるまたは分裂状態になると根性論が強迫観念として働き様々な場面で危険な行動に出るように圧をかけるからである。直接的な身の危険から遠ざかるには双方の開発が必要である。

【せっかち、イライラは赤ちゃん由来か】

それ以上成長しないものを愛するとは、いってみれば目先の美にとらわれることだ。目先の美はパッと見でわかりやすく派手な為、それが普通になると常に美の完成を急ぐようになり大雑把さが出てくる。成長途中の地味さに我慢できず待てなくなるのだ。そうした傾向が強まると素朴さが失われ所作が荒々しく、忙しなくなるだろう。これが極まると暴力性と結びつく事がある。暴力性と結びついたものは悲劇における母と同じ立場を取りやすく、自己犠牲の少年と対立関係になる。根性論だけを発達させた為に対立物を圧迫するのだ。また過程が極端に短縮された場合は行動が直線化すると杓子定規となり柔軟性がなくなり、ロボットのような印象を与える。
後者は極端な場合だが、根性論も対立物もほぼ原始的な状態であり対立物との葛藤がなく、オートマチックである。いずれにしても目先の美と実際にかかる時間とのギャップへの不快感は癇癪として放出されやすい。
目先の美を求める華美な趣味は赤ちゃん的だと思う。赤ちゃんは不快を感じた時に泣くが、何かしらのマイナスが出た時に不快と感じるのではないだろうか。これは完全性が崩れる前の美少年を愛する母と同じで、今ある完璧が崩れると不快と感じるのである。乳幼児が考えなしの危険行動に出るのは、生まれたばかりで根性論の対立物がまだ抵抗力を持つほどの大きさを持っていないため、強度行動障害と同様、単一の根性論により危険行動が身体レベルで起こるのだと思われる。ということは、誰にでも必ず赤ちゃんの時期があるのと同様に、単一の根性論は皆生まれた時に必ず持っているのではないだろうか。単一の根性論は赤ちゃんに、完全性が崩れた時の不快感を生じさせ、内圧は高まり、顔を赤くさせ、泣かせる。これは剥き出しの怒りである。単一の根性論は真っ赤な球だと思う。
根性論=悲劇の母なら、赤ちゃんや強度行動障害は完全に無力な状態だ。
根性論を強迫観念として保有してるのが完璧主義だ。根性論発達型が目先の美を完成させる為に他人を用いるのに対し、完璧主義は悲劇の母と少年を自分で両役やる。強迫観念に目先の美の取得を急かされるが、それが叶わなければ腹を立てる。0か100か思考になり、100でなければ意味がないと感じさせる。自分が美少年となり完璧を維持するがそれが崩れる度に母の為に死ぬ事になる。この悲劇の母との相互依存関係は制限として蓋のように覆い被さり、そこから脱し難くする。

根性論同士の絆は不安定

根性論だけで絆を結ぼうとすると非常にギスギスとしたものになる。完璧志向により素朴な愛情による関係が形成されない為疑い深くなるのだ。その為義理人情のような掟で安定化を図る。信用は自己犠牲など量的なもので証明することになる。
裏切りと見做された場合には血祭りになりかねないので用心しなければならない。サディスティックな関係は生きた心地がしない。

そのような事態を回避するには、完璧志向を和らげ、完璧ではないものに慣れる事が必要だと思う。それには“絶妙に苛つくけど癖になり見てしまうもの”が有効だと思われる。なぜなら、完全性の崩れに苛立ちを感じるなら、その苛立ちの程度を弱めたもので慣れるしかないからだ。一種のワクチン的対処である。目先の美に注目している者から、完全性の崩れに対する不快感を利用して注意を引く。中毒性により抗体が作られれば、怒りは小さなものになるだろう。それはマスコットみたいに可愛いと思う。



さて、完璧主義を引き起こす根性論は場合によってはグロテスクな結末を招くものだがその感傷的な性格からエロスを作り出す為、なくなれば色気、物語、魔性が消える。
根性論は高級な状態では対象に貴族的精神を与えるだろう。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?