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【初稿】「目下”ファナティックに”ふたりが教えてくれること」 by 中島桃果子


わたしは現在、去年の4月の緊急事態宣言下で書き上げた新作を、とある賞に出し、その結果を待っている。まあまあ大きな賞なのでもうすでに「一次」そして「二次」の結果がその版元のHPでは発表されているようだが、わたしは最終選考の発表まで見ないことにしている。結果を怖がっているのではなく、最終選考がわたしの最低ラインなので、そこに合わせて時系列を整えていかないと、今やっている「レディオ」始め全てのプロジェクトの算段が狂ってしまうので。
わたしの作品がすでに第一次で落とされているかもしれないこと。
わたしの辞書にその設定はないが、2021年の現実ではそれは万に1つは起きるかもしれない。同時にまた、2次までは行ったが最終で落ちたとか、極めて中途半端な結果が出ることもあるかもしれない。
なぜHPを見ないか。
結果が出てから人生を決めるというような生きかたをしたくない。
自分で生きかたを決めてから結果を知りたい。
つまり。

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新作「わたしと音楽、恋と世界(東京OASIS 2020)」は、
やっぱりどう考えても名作であり傑作である。
何度冷静に読み直しても傑作だ、という確信が強まっていくばかりである。
それがもし第一次で落ちてしまっていたら?

これまで書いた作品が全部普通に、出版そのものに関してはさしたる困難もなく大手出版社から本になってきたわたしの、8年越しの大傑作文学が、つまり自分の自己ベストを更新した作品が、これまでの作品よりはるかに手前の段階で却下されたとしたら、この矛盾を自分は、
「職業作家としての6年のブランクにより風が止んだ」
「女神の裾を最初に手放したのはわたし」
的な解釈だけで埋めることができるか。

商業的な意味合いでは、その解釈に完全に納得しています。メジャーで書き続ける、ということはとても重要なことなのです。本が出せる環境で出さなかったその一点において自分は自業自得であるので(「出版出来」を全話観てますますそう思いました、携わってくださった皆さまの努力に、中島桃果子を売ろうとしてくださった全ての出版関係者に、わたしは報いなかったのだ自分自身でアングラを選んで編集者たちをがっかりさせました)
なのでこれはその部分の話ではなく、作品そのものの純度の話なのです。

肝心なのは、その「乖離について」の自分の決断である。そしてその結論はもう出た。わたしの目の前にモカマニア・ミキが颯爽と現れ、それを教えてくれたから。

つまり、このノートのプロフィールにも書いたようにこの日本には「いないように見えて」中島桃果子の熱狂的なファンが「池田栞以外にも」実はどこかに、ちゃんといるのだ。そのことを知った。
モカマニア・ミキがそれを証明した。

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2つのことを成し遂げなくてはならない。
つまりこの世界のどこかにいてくれるファナティックな「モカマニア」の為にも全国の書店に並ぶ本を書いて、刊行せなばならないし、絶滅危惧種になっているこれまでの小説に重版をかけ、小説家であり続けるためには売れなくてはならない。

渾身の4冊目である「誰June」がマーケットと合わず売れなかったとき、わたしの目の前に池田栞が現れ、作品が間違っていなかったことを教えてくれた。
同時にわたしはそこでそれより先には進もうとしなかった。
池田栞がいるなら別に売れなくてもいっか。と思った。
今回も根幹に届いたメッセージは同じだけど、8年越しにモカマニア・ミキが現れたからには8年前と同じやり方ではいけないと思う。
池田栞とモカマニア・ミキの役割は違うのだ。
池田栞はわたしに「寄り添う」ために現れてくれた。
じゃあモカマニア・ミキは?
そんなの決まっている。彼女はわたしを「売る」ために現れたのだ。
つまりこれはモカマニア・ミキにわたしを売ってもらおうというのではなく、
わたしを売るために現れた神様の遣いと出会ったが最後、わたしはもう結果と数字だけを追いかけ、何がなんでも売れねばならないのだ。
それはわかったし、それはこの新作を書いた時にすでに決めていたこと。
(「わたしと音楽、恋と世界」を読めばそれがわかります)
しかし肝心なのはそのやり方である。

もちろん賞を受賞することができてそれが本になれば一番良いことだけど、賞が獲れず「わたしと音楽、恋と世界」が憂き目を見ることになった場合も、自分の感性とその結果が重ならないのなら、どのような形であれこれを本にせねばならない。本にするための段取り。別な手法で売れてから「わたしと音楽」を出すのか、
「わたしと音楽」を自力で本にして、それを売り、売れるのか。
わたしは現在後者を取りたいと思っている。

つまり「わたしと音楽、恋と世界」がいわゆる文壇というメジャーに理解されなかった暁にはわたしはわたしの「マニア」に直接的な手順で人生を賭けたいと思う。
つまり自分で本を作り、自分で届ける、という極めてアナログなやり方で。

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なぜならもうすでにわたしの中の10歳がマニアックに「この作品は傑作だ、何が何でも本にせなばならん!」と叫んでいるのだもの。

その場合、エネルギーは上から降りてきて裾野に広がってゆくのではなく、
裾野からじわじわと響いて、その伝導が宇宙(そら)向きに広がっていくのだ。
コアから宇宙(そら)に向かって放射状に煌く。
そのときわたしは引力に向かって逆らわなくてはならないし、エネルギーが揺れるのを待つのではなく、こちらから揺らさなくてはならない。
受けとるのを待つのではなく、放たなくてはならない。

そう思ってまずこのnoteを立ち上げた。

わたしはいま、モカマニア・ミキを、中島桃果子の「オフィシャル広報」に据え、世界のコアで煌めいている。

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今はまだ、まばたきほどの揺らぎだが、じきに世界が全部それを受け取り惑星ごと発光するだろう。

ファナスティック(熱狂的)に、マニアック(狂信的)に、誰よりも手前で、わたしは中島桃果子と「わたしと音楽、恋と世界」を信じているし、オフィシャル広報(まだ本人の許可はとってないが)としてのモカマニア・ミキの底力も同じくらい直感的に信じている。そういう目をしていた。熱田優子のような気配。
うん、若林つや、に見せかけて、熱田優子。そんな感じ。

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※熱田優子は、長谷川時雨が主宰した「女人芸術」の中心的編集者であり画家であり婦人運動家。






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