東日本大震災から13年。父が亡くなり3年。
朝から震災から13年という。
父が亡くなってから3年。
ここに逃げてきてからすぐに父は亡くなった。
夫から連絡が来て一緒に帰った。
2月に逃げて父の施設入所が決まって3月に入所。
それから四日後のことだった。
認知は進んでいたが、元気だったから長いと思ってた。
しかし、夫と母がやっと決めた施設に入ってからすぐ亡くなった。
でも、私が関わらなかったのは幸いだと心から思った。
そうであれば私は自分を責めてとてもまともにいられなかっただろう。
母は自分の都合だけで父を手放さなかった。
私はみれるだけみる。そうでないと私の価値はどこにある?そういった。
認知が進んだ父を自宅でみれるだけみて、無理になってから手放した。
何もわからない父はあっという間に死んだ。
それは母にとっては仕方ないことだろう。
私にとっては母の殺人だけれど。
そんなことはどうでもいいことだ。
両親二人で施設に入って父が落ち着けば母は出れば良いと思っていた。
けれど、母は嫌だといった。
私は慣れ親しんだ家から離れたくない。父のために自分を使うなんて嫌だっただけ。
私は大丈夫です。娘がいてくれるから大丈夫なんです!そう言い続けた。
私はもう全て捨てた。
散々私を子どもの頃から好きに使い、道具にして使い続けた母を捨てた。
ずっと私を支配し続けたバカな子どもの母をやっと捨てられた。
可哀想な哀れな母をただ助けたい願っていた。私はバカな子どもだった。
大人にさんざん使われて、ゴミ箱にされていたのにわからなかった。
周りの人を全部敵にして私を戦場に置き去りにして盾にしていたのは母だった。
私はたった一人で戦場で戦う可哀想な子どもだった。
安心も安全もなかった。
死にかけても倒れても私を助ける人はいなかった。
半世紀かけて私はやっと私を助けた。
もう無理だと私の体が私を守った。
何も考えられなくなった。
それから三年。
今やっと私は私を守りながら一人で立っている。
シンとした静かな気持ちでいられる。
こんな気持ちで過ごすことなど出来ないと思っていた。
いつも私の中には親がいた。
あれこれとダメ出しして、外面ばかりを気にして、良い人間として努力し続ける事を望むイカれた親が。
やっと、そんな人たちを手放した。
身体中に染み付いて、剥がれなくて血を流し続けた小さな傷ついた私は、やっと気づけた。
こんなことになんの意味もない事。
長年蓋をして見ないふりして気づかないふりして他人のような人生を送ってきた。
やっと、私が足を踏み出せるくらいにはなった気がする。
もう、誰のことも気にせず、私は私の気持ちや機嫌をみていられる。
嫌なことは嫌だと、出来ないことは出来ないと言えるようになってきた。
そんな日が来るとは思わなかった。
あまりに遠くてあまりに果てしない場所に見えてた。
何度も何度も繰り返してきたけど、やっといくらかマシなところで息が出来てる。
父のことも少し離れてみれる。
本当に哀れな人だったと。
そしてそんな人の娘であった私も哀れな子どもだったと。
いろんな人がいて、みんなそれぞれの世界を生きてるだけ。
私にはこういう世界を生きるようになっていたのだろう。
そう思って淡々とやっていく。
私はこれからの私の生活を選択できる。
そう思えるくらいにはなった。
先のことなどわからないけれど、今を生きてるのだけは間違いない。
それがわかるだけで今の私には十分だ。
今の私がどうしたいのかは私が決められるのだから。
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