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エゴン・シーレ展、考えたこと


「レオポルド美術館展 エゴン・シーレ展
 ウィーンが生んだ若き天才」(東京都美術館)

◇印象的だった作品、絵を見ながら考えたことなどをなんとなく展示順に書いたものです。長い。

念願叶ってシーレ展を見に行った!!
都美術館、実在してたんだ。Twitterで一万回見たあのレンガの壁が目の前に立ってたので早くも感動した。

・まずシーレ、絵が上手すぎる。16歳とかの時点でもう上手すぎる。同世代の天才ヤバい。どうなってんだ。
線がみんな的確で見ていて気持ちいい。頬の骨の位置、そこから落ちる影の線のタッチ。当然のように人間の顔として画面に存在しているが、よく考えれば全てシーレの引いた線でできている。それすごくないか…。

・裸体像の腰の骨の出っ張りが非常に素敵。調べたら腸骨という骨らしい。
しかしなんであんな訳の分からない線描が身体の形を完璧に捉えてるんだ。もはや怖い。

・めちゃくちゃクリムトの影響下にあった時代のシーレが見られて良かった!「銀のクリムト」と呼ばれていた話、とてもいいな…いい……。しかし満開の菊でなく枯れかけのそれを描くあたり、ゴッホが好きなのも滲み出ている感じがする。やはりシーレ、死がにじり寄るような感覚に執着していたのだろうか。描く人物も、知らないうちに死んでしまっていそうだし…。

・分離派のいろんな人の作品が見れてとても嬉しい!シーレとクリムトを推しておきながら、分離派メンバーのことはあまり知らなかった。フランスっぽさの中にも、何かしらのウィーン感がある気がする。しかし何なのかはピンとこない…いつか比較してみたい。

・分離派のレタリングバケモンすぎないか?何をどうすれば、ここの線を下まで伸ばしちゃおうね〜なんてことになるのか。アカデミー社会の中で、あんな独特なものを作れる能力を何人もの作家が秘めていたなんて…。

・モーザーかわいい!キンセンカも良いし、個人的に山脈の作品がすごく印象的。

・ゲルストル、展示順から察すると、追い詰められると逆に作風が落ち着くタイプなのだろうか?もっと枚数見てみたい。ものすごいパワーと威圧感…。

・シーレのアトリエの写真に電灯が写ってる!ライフラインか〜電気通ってるな〜〜と何かしみじみ。

・画面の緊張感、という言葉にこれまでピンと来ていなかったが、今回なんとなく理解できた。絵を描くとき、自然と「ここ気持ち悪い、直したい」という部分が出てくるが、それなのではないか。気持ち悪くて直したいところを修正することで、絵は安定へと向かう。安定の対義語が緊張だとしたら、何か変だ、というピリピリした違和感こそが、緊張感なのでは…。

「ほおずきの実のある自画像」
前述の話を踏まえると、安定させたければシーレにはっきり正面を向いてもらえればいいし、ほおずきも一定の比率の上に置けばいい。しかしシーレはそれをしない。安定してしまっては、自分の挑発の意志が意味をなさないから。違和感は、解消させれば綺麗な画面を作る。しかしそのままにしても、それはそれで武器になるのかもしれない。実際目の前に立って、まっすぐ正確に目線が合うわけではないように思えた。少し奥、鑑賞者のさらに先を見ているような。
その目は、瞳孔が赤く塗られている。何か既視感があると思ったら、ゴッホのひまわりがそうだ。同じような目力…吸い込まれるような、違う世界に生きているような。
ほおずきの花言葉は、身の大きさの割に中身が空であることから「偽り」や「欺瞞」だ。シーレは、自分の空虚感に襲われることがあったのだろうか。

「抒情詩人(自画像)」
なんとなく、自分の無力感が浮き彫りになる感じがする。こんなに虚な目で見つめられても、鑑賞者に何ができるというのだろうか。
画中のシーレは、かろうじて生きているという感じだ。シーレ特有の不思議な組み方をした手だが、この作品では自分の脈を確かめているように見える。手首を圧迫すると、少し息苦しいような感覚がする。生死の確認は苦しいと、悲しげな目で訴えられているような。
この裸体表現は、単なる自己愛、自己憐憫に過ぎないのだろうか。苦悩に飲まれ、痩せ細った自分がいかに可哀想か!……という絵です、と言われれば、そうだと思ったよ、とはなる。入り口で「性的な表現が含まれる」と注意書きがされる以上、彼なりの表現だと言い聞かせようにも彼の描く性はあまりに湿り気があり、生々しい。こういう時目を背けていいのか、それはメッセージの無視なのか、わからないままだ。

「自分を見つめる人II(死と男)」
背後に死が迫っているにも関わらず緊迫感はあまりなく、なんだか少し穏やかだ。骸骨のような人物(死)は、目をかっと開いているようにも、安らかに目を閉じているようにも見える。死への解釈が、描いている本人の中でさえも揺れているように感じられた。

・家々のドローイングが素晴らしい!穏やかな風景を描く中で、シーレ特有の不安定かつ正確な線が際立っている。目を奪われた。

・ココシュカがたくさん見れて嬉しい!やっぱりちょっと怖いね。今まで赤い服だと思っていた部分が血塗れのキリストだったのでびっくりした。少女の裸体像、少し離れて見た時の立体感が異様でギョッと目を奪われる。

・シーレ、パトロンから「生活費ないんでしょ?金になるから版画やりなさい」と言われ、なんか違うんだよな〜とすぐやめてるの面白すぎる。すごいな、この人。

・パトロンやコレクターの肖像から、なんとなく「芸術に理解のある人っぽさ」を感じる…。

・またクリムト描いてたの!?現存してないっぽいのが惜しい…

・シーレの裸体画の肘や踵の骨張った部分が本当に素晴らしい。下世話な話だが、シーレはおそらく靴下になんらかのフェティシズムを抱いていたんだろうな…。

・シーレの裸体スケッチは、スケッチそのものを作品として成立させようと、線を厳選して描いている。しかしクリムトのそれはあくまで習作であり、ラフなタッチが重ねられている。比べて見てみると、そもそも目的が違うのだろうなと思えた。

・最晩年の裸体スケッチも、これまでとは打って変わって温かみがあり素敵だ。安心を求めるかのように、線描が丸みを帯びていく。

・やっぱり49回展ポスターの話しんどいな…………ここからちょっとウルっときてしまった。クリムトに用意された席が空いているのもそうだが、シーレが一番上の席に座っているのも気になるところだ。

・実のところ「シーレの死」というものを舐めていたというか、28で死んだならそれはそうでしょうね、と了解して生きてきた。しかし人生に沿って作品を辿るとなると、彼の命が名残惜しくなる。回顧展でここまで死に悲しみを覚えたのは初めてかもしれない。
シーレの死の後に残るもののイメージがあまり思い浮かばないからだろうか。結局子供は生まれず、死後しばらく顧みられることもなく、その上同年沢山の著名人が世を去ったからか。

・なぜシーレ作品は、晩年あんなに丸くなったのだろう。戦争が終わったからというのも大きいはずだ。暗い時代が続いた分、今度は光が差すのだと。しかし「激しい作品を制作してきた表現主義者が、晩年丸くなる」をたまたま28年の生涯でなぞる事になるとは、少々都合が良すぎる。自分の死を予感していたのでは、とさえ…。しかし晩年の作品が悪いかといえばそんなことはなく、落ち葉のようなテクスチャがどことなく安堵を感じさせて私はなかなか好きだ。濃密な生涯を追って疲れもあったが、絶筆の肉体の穏やかさに、彼にも少しは温かな救いがあったのかなと感じた。


・グッズ…かわいいね。シーレのグッズが並ぶことってあまりないので、すごくウキウキした🎶🎶
街のプリントのマグカップを勢い余って購入。飲み物を注ぐと床下浸水みたいになり、少し申し訳ない気持ちになる。
正方形の作品を正方形のポストカードで刷ってくれるの、非常に嬉しいしかわいい!ただポストカードファイルには入らんね。

本当に良い展覧会だった。実はこれまでシーレ作品はポスターを一点しか見たことがなかったので、この機会に大量に触れることができたのがすごく嬉しい!じゃあ次は…ウィーンで会おうな…。

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