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“あるもの”を探す

幼稚園からのママ友

我が家には小4と小2の2人の娘がいて、長女が幼稚園に入園した時から、ずっと親しくしているママ友さんがいる。
そちらのお宅にも同じ年齢の2人のお嬢さんがいて、同じ家族構成だったこともありとても親しくなった。

長女とそのお友達は、年少のうちは同じクラスでとても仲が良く、未就園児だった次女同士も同い年なので、送迎が終わったあとも頻繁に遊んだり、長時間おしゃべりしたりしていた。
年中以降はクラスが別になり、次女達は一度も同じクラスにならなかったため、次第に子供同士の交流は薄れて行ったが、親同士は細々と繋がっていて、小学校が別れた後も親同士の付き合いは続いていた。

疲れるのはなぜ?

幼稚園を卒園したあとも、2〜3ヶ月に一度程度、そのママ友とはお茶をしに行っていた。
しかし、いつからかお茶をしながら2〜3時間おしゃべりをしていると、とても疲れている自分に気がついた。
そして心なしか帰宅するとイライラしてしまう。子供への当たりが強くなってしまう。
そうなってしまう自分が嫌だな、と思うようになって行った。
そう思う理由は、明らかだった。

卑屈になってしまう

そのママ友の上のお嬢さんはスポーツを2つ、ピアノ、習字を習っていて、本人もとても向上心があるようで、どれも上達著しいようだ。
下のお嬢さんもピアノ以外の同じ習い事をしていて、上のお嬢さん程では無いにせよ、持ち前の負けん気で頑張っているようである。
2人とも級が上がったり、作品が選ばれたり、大会に出たりと、とても頑張っていてその結果も出ている。
お母さんであるママ友も、熱心にそのサポートをしているようで、とても嬉しそうにその話をしてくれるのだ。

対して、我が家の2人の習い事はダンス1つのみ。それも結構ゆるっとやっているダンス教室で、気合いの入った発表会なども無い。楽しく踊れたらいいよね、というスタンスの教室である。
本人達は気に入ったナンバーの時は毎日少しずつ練習しているが、それほど気に入っていないナンバーの時はあまりまともに練習しない。
塾にも行っていないし、学習も宿題+時々学校のドリルの復習を自学ノートにする程度である。

性格も、長女はあまり他者に固執しない性格で、放課後は大抵本を読んでいる。それに対して次女は予定が無い日は毎日でも友達と遊んでいて、趣味は遊ぶこと食べることと言うタイプの子供だ。

長女は3年生までスイミングを習っていたが、なかなか進級しないし、自分としてはやり切ったので、と言うのでそこで終了した。
次女に至ってはスイミングは顔が濡れるのが嫌と言う理由で固辞され、通わせることすら叶わなかった。ちなみに上記のママ友さんのお嬢さんは四泳法をマスターしてスイミングを修了している。

そのような状況なので、お茶をしたあとに下校してきた娘達がゴロゴロしながら漫画を読んでいたりすると(うちの2人は「ドクタースランプ」や「お父さんは心配症」などがお気に入りだ)、つい不安な気持ちが刺激されてしまう。つまり、そのママ友さんのお嬢さん方と自分の娘達を比べてしまって、卑屈になっているのだ。
そんな自分が情け無かった。

無い思考、ある思考。

人はつい、無いものを数えてしまいがちだと思う。少なくとも私はそう言う傾向があると自覚している。

あの子はもう喋れるのに、もう歩けるのに、もうオムツが取れてるのに。

あの旦那さんはお皿を洗ってくれるのに、誕生日にプレゼントをくれるのに。

うちはない。

そんな風に、無いもの探しをしてしまう。

けれど他の子、他の旦那さんが持ってるものを持っていなくても、逆もあるはず。
娘達が持っている、素晴らしいものもたくさんある。そこを数えた方が絶対に幸せになれる、そう思うようになったら、考え方が変わって来た。

例えば、長女は他者に無頓着で特別親しい友人の数は少ないようだが、その分自分の軸をしっかり持っている。他人に流されないのだ。
また、読書量がものすごく、250ページの本でも1日かからず読んでしまう。仕舞いには調味料の成分表を読んでいるタイプだ。

次女はものすごく優しい。その分やや他人軸っぽい部分もあるが、人を思いやれる性格である。また、天真爛漫で場を明るく和ませる天性の才能がある、まさにムードメーカーだ。面倒くさがりではあるが、一度始めたことは投げださずに最後までやることが出来る。

こんな風に、「あるもの」を数えてみる。
すると、誰かと比べる視点から、本人を見る視点に変わり、彼女達への愛しさが溢れてくることに気づいたのだ。

当たり前のことなのかもしれないが、私にとっては大きな発見だった。

そのまま受け取る


娘の充実ぶりを嬉々として話してくれるママ友。ちょっとひねくれている時などは、「これがマウントというものか…」等とネガティブに捉えていたが、言葉の裏を見ずに、そのまま受け取ると捉え方が変わってくることにも気づいた。

彼女は、とても頑張っている。娘の習い事がどうしたら上達するか熱心に考え、実践しているのだ。例えば水泳は、泳ぎ方を家で説明し、腕の動かし方を教える。表現型スポーツの大会前は個人練習に必ず一緒に参加する。
そして、自分自身もやってみたいことが出来たら臆することなくどんどん挑戦しているのだ。こんなアクティブなお母さんだからか?お嬢さん方も前向きに練習に励んでいるのだろう。そして結果を出しているのであろう。
それを、ママ友は単に嬉しい事実として伝えているのだろう。
努力が報われることは尊いし、そうあってほしいと思う。だから、私がねたんだりひがんだりするのはお門違いだと気づいた。

そんなママ友と比べ、私は非常にのんびり屋である。のんびり屋と言えば聞こえはいいかもしれないが、見方によっては単に努力があまり得意でないだけである。
そして、過度に自分に負荷をかけると子供たちにイライラあたってしまうかもしれないという恐れがあるため、あまり無理はしないようにしている。
夫も、無理はさせずにやりたいと思っていることを可能な範囲でやればいいという考えだ。
そのため、娘たちも非常にのんびりとしている。次女は今日はのんびりしすぎて夕方に漫画を読みながら寝ていた。
愛らしい寝顔で、頭に汗をかいて。

どちらも、そのままでいいのだ。

そのままの姿で、あるものを探す。
そのままの言葉を受け取ればいい。

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