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『それって保育の常識ですか?』 柴田 愛子著


 私は、柴田 愛子せんせいの本をよく読みます。


 子育ての学習をしているわけではありません。だって、上の子はもう30手前、私は孫がいる世代です。

 もちろん孫のためではないし、今さら自分の子育ての復習や反省をしているわけでもありません。

 はじめて愛子せんせいを知ったのは、図書館にある様々な種の本を読み漁るうちに、『今日からしつけをやめてみた』と言う本に出会った時のことです。


 今まで読んだ、どの教育者の本とも、考えや方法が違うように感じました。夜、寝床で独り読みながら、自然とニタニタと笑ったり、涙が出てきたりしました。

 私は小学校の一年生までしかまともに授業を受けず、出会う教師には、ことごとく人間性を否定され、ウチに帰れば家族ぐるみの折檻を受け、必然誰より、自分自身が、一番の自己否定者となりました。

 ややこしい本で学べば、何か心が救われることがあるのだろうか? 聖書を読めば答えがあるのだろうかと思い欲して、辞書を何冊も目の前に並べて、数ページ読むのに何週間も何ヶ月もかけて読みましたが、別にこれと言って何も変わりませんでした。

 義務教育を通して学んだ人であれば、「努力」と言う意味が不明でも、すぐに「どりょく」と国語辞典で調べられると思うのですが、当時の私は、読み方がわからないので、まずは漢和辞典で「努」を探すことからはじめますが、書き順はおろか、画数も、数える度に数が違い、精神的耐性がない私はイライラしてすぐに諦めてしまうのです。

何とか「ど」「つとめる」「nu」などとたどり着いても、当たり前のように、「ドチカラ(努力)」と決めつけたり、そこに書いてある説明文すら読めなかったり、「nu」これは何だろうと、どんどん深掘りをしていって、指を8本くらい色々な辞書に入れてさぐっているうちに、

「あれ?何をしていたんだろう・・・」とわけがわからなくなってしまうことの繰り返しでした。

 その後、50回以上の転職と、3度の結婚離婚を繰り返し、どうやら、取り敢えず猫をかぶって、うわべだけはまともに見えるようにつくろってはみましたが、

数日もすれば、誰にでも変人だとバレてしまうのでした。

愛子せんせいの本を読んで涙が出るのは、そこに、こんなにも多くの教育者や大人たちから否定され続けてきた私を、理解して、受け入れてくれている人がいると感じたからです。

(もちろん文中の子どもは、私ではないのですけれど)

時に絵本が大人のメンタル調整に役立つように、愛子せんせいの本は、息の詰まるような傷ついた心を持つ人にも、穏やかな心を育む力があるようです。

そして、もっともそれがイケナイことだと知りながら、我が子にそれを繰り返してしまう攻撃性を修正する要素を感じます。

本当はいまだ、子どものように幼稚で、傷だらけで、誰より慰めてもらいたいのに、良い格好をして、他人に尽くしている。

そんな呪縛から解放されて、少しずつ自分自身に優しくできるかもしれません。

自分に優しくすることで、ほかの人にも「無理なく」優しくできるのではないでしょうか。