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道元・良寛随想録


道元は世界一の高僧であり、正法眼蔵は宗門最高の宗典である。正法眼蔵は一大仏教の縮図であり、仏教の縁起・実相の総合的結論である。
良寛は道元を生きた僧である。


目次
1.良寛と道元の親密性
2.良寛小伝ー無心・天真爛漫な生涯
3.道元小伝ー身心脱落・脱落身心の生涯
4.正法眼蔵に見る正伝の仏法ー仏性の現成・諸法実相
5.道元を生きた良寛-その詩と歌
6.良寛と貞心尼ー花と蝶の無邪気な戯れ

第1話.良寛と道元の親密性(道元さまを慕った良寛さん)

良寛の書に「愛語」というものがある。
これは、道元の「正法眼蔵」の四摂法(布施・愛語・同事・利行)の巻
の中の「愛語」である。良寛は写経の如くに一字一句丁寧に書写している。
「愛語というは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり」「愛語良く回天の力あり」という言葉がでてくる。まことに、良寛そのものである。良寛は、この「愛語」の書の傍に「正法眼蔵95巻の巻目」を屏風に書いている。最初に書かれている巻目は「弁道話」である。「愛語」と愛語の書かれている「正法眼蔵」を宝に思っていたに相違ありません。良寛は、目の前の子供たち、出会った人々に慈愛の心をもって接した。良寛の和歌や書は布施・愛語・利行・同事の実践であった。良寛は子供たちに「天上大風」と書いて凧の図柄にした。店の看板を書にし、屏風に詩を書いた。漱石は、良寛の書を見て、「頭の下がる書だ」と言った。良寛の書は境涯の書である。誰にも真似はできない。書家の篠田桃江は「豊潤の対極にありながら、これ程豊かなものはない。何もないようで一切であるという、そういう書である」と評した。斎藤茂吉は「良寛の歌は、気韻漂渺たるものが多い」「妙境に入った歌」「単純であるが充ちている。平順淡々の裏に緊密の心を味わい得る歌」と評している。良寛の坐禅と詩と書と歌、これが、良寛の仏行、布施・慈愛・利行・同事であった。
良寛は自然や子供と無邪気に戯れた。
「手毬をつき、はじきをし、若菜を摘み、里のこどもとともに群れて遊ぶ。地蔵堂の駅を過ぐれば児童必ず追随して、良寛さま一貫という。師驚きて後ろへそる。また二貫と言へば又そる。二貫三貫とその数を増して言えば、師やや反り返りて後ろへ倒れんとす。児童これを見て喜び笑ふ。」と良寛禅師奇話にある。このとおりの良寛である。

「かすみたつ ながき春日に こどもらと 
            てまりつきつつ けふもくらしつ」(良寛)
「この里に手まりつきつつ子供らと
            遊ぶ春日は暮れずともよし」(良寛)
「鉢の子に 菫たんぽぽこきまぜて
            三世の仏に 奉りてな」(良寛)

無心・無我に生きた人がこのように子供のように無邪気になれる。
諸法実相無私無心に生きた人が無邪気になれる。

良寛の詩に「永平録を読む」というものがある。
「春夜蒼茫たり二三更 春雨雪に和して庭竹に濯ぐ」に始る詩である。
この中に、「暗裏模索す永平録、明窓の下 香を焼き灯を点じて
静かに披読す」「一句一言みな珠玉たり」
「身心脱落して只貞実のみ」「円通に在りし時、先師提持す正法眼」
「吾と永平と何の縁かある 到る所奉行す 正法眼」という文言がある。
良寛は円通寺で師の国仙から正法眼蔵の提唱を聞き、感銘を受け拝読を願った。仏法の真実が一言一句すべて語られている。これ以上、何も付け加えることはないと感じた。円通寺には開祖徳翁良高の持参した正法眼蔵84巻があった。それは、円通寺の住職に代々伝えられて来た。良寛は道元の伝えた身心脱落、只菅打坐を実践し、そして諸国行脚し、興聖寺他到る所で正法眼蔵に出会ったというのである。良寛さんの生き方を通して、少しでも道元さまの尊い教えに近づいてみましょう。

良寛の詩に「奥に吾が永平有り 真箇祖域の魁 夙に太白印を帯び
扶桑に宗雷を振ふ 大いなるかな 択法眼 龍象もなほ威を潜む
盛んなり弘通の任 幽きも輝きを蒙らざる無し 輝きを垂れて 島夷に及ぶ
削るべきはみなすでに削り 施すべきはみなすでに施せり」(唱導詞)とあり、道元が禅の第一人者であり、日本国全てに正しき仏法を広めてくださった。すべての仏法の結論が正法眼蔵に語られていると讃嘆している。語られるべきは正法眼蔵に既に語られた。それならば、あとは唯務坐禅・只菅打坐の実践するしかない。円通寺での師の国仙の正法眼蔵の提唱と拝読。興聖寺他諸国行脚の中での正法眼蔵写本との出会い。まことに良寛と正法眼蔵のかかわりは生涯因縁浅からぬものがあった。良寛最晩年の雪夜露庵の詩「首を回らせば70年、人間の是非看破するに飽きたり、往来の跡幽かなり深雪夜 一柱の線香古窓前」は、最後まで道元の唯務坐禅・只菅打坐を貫いた証である。70年余り生きてきたが、生涯残されたものは、坐禅のみであった。

「独り坐す古窓の下 唯聞く落ち葉の頻りなることを」(良寛)
「終日無字の経を読み 終夜不終の禅を行う」(良寛)
窓辺に兀坐して過ごした日々「展転総て是空」「縁に従って従容」(良寛)
良寛の摂理は、身心脱落と一切放下(寺を持たず、物を持たず、無所得・無所悟の唯務坐禅)にあった。僧は清貧にあるべしと。早朝坐禅、昼托鉢(終日烟村を望み 展転食を乞うて之く)、夜坐禅と詩作(一嚢一鉢 騰騰として之く所に任す 興来たって 時に筆を執れば 時人呼んで詩となす)の日々であった。

良寛の辞世の和歌に「形見とて何か残さん春は花山ほととぎす秋はもみぢ葉」というものがある。これは、道元の「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪
さえてすずしかりけり」(傘松道詠歌)を模している。
「草の庵にねてもさめてもまふすこと
        南無釈迦牟尼仏 あはれみ玉へ」(道元)
「草の庵にねてもさめても申すこと
        南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ」(良寛)

「観音は宝陀山に在まさず」(良寛が法華賛に付けた句・観音菩薩品)
「聞思修より三摩地に入り、自己端厳にして聖顔を現ず。観音は宝陀山に在まさず。」(道元が観音菩薩について書いた詩)観音菩薩は、常に今ここに現成している。
「風流ならざる処また風流」(良寛・法華賛・譬喩品)
「風流浅き処また風流」(道元・永平広録)

良寛の詩に「首(こうべ)を回らせば70年 人間の是非(分別知)
看破すに飽きたり 往来跡幽深夜雪 一しゅの線香 古窓の前」という雪夜草庵の詩があるが、道元の永平広録の山居の詩に「世俗の黄塵飛んで来たらず 深山雪夜草庵の中」の語が見える。70年の生涯、唯一残ったもの、それは、窓の下の唯務坐禅であった。只菅打坐であった。
まことに、道元を敬い慕い、道元にならいて生きた良寛である。

第2話.良寛小伝

良寛小伝。良寛は1758年(宝暦8年)12月越後の国出雲崎町に生まれた。18歳の時、曹洞宗光照寺に転がり込み、そこに夏安居の指導に来ていた師大忍国仙に出会う。そして、国仙についてゆき、岡山の曹洞宗円通寺にて、22歳の時出家修行する。円通寺の開祖・徳翁良高は、加賀の大乗寺で兄弟弟子の宗門中興の祖卍山と一緒に正法眼蔵84巻の書写を弟子たちと共に進めた人物である。円通寺での修行は、永平寺や大乗寺と並んで、厳しい規矩の下に行われた。
その圓通寺で師国仙より印可を受ける。33歳。
「良也如愚 道転寛(良や愚の如く 道転た寛し
 騰騰任運 得誰看」(騰騰任運 誰か看ることを得む)
この師大忍国仙の大の一字を取って「大愚」という道号を授けられた。
大愚良寛の誕生である。そして、正法眼蔵を求めて諸国行脚して後、帰郷し五合庵に住む。齢40歳~59歳のころである。
「神気内に充ちて秀発す。その形容神仙の如し。」(禅師奇話)
「生涯身を立つるにものうく 騰騰天真に任す
嚢中に三升の米 炉辺に一束の薪
たれか問わん迷悟の跡 なんぞ知らん名利の塵
夜雨草庵のうち 双脚等間に伸ぶ」(良寛)
唯務坐禅・只菅打坐、騰騰任運、天真爛漫に生きた良寛である。
五合庵の生活は、名利から遠く離れた生活である。
「浮世から何里あろうか山桜」(葉隠)
「菊を採る東籬の下 悠然として南山を見る」(陶淵明)の心境である。

常乞食行、唯務坐禅の日々を送った良寛。
「一瓶一鉢遠きを辞せず」「嚢中無一物」常乞食行の日々、
「幽窓雨を聞く 草庵の夜」「坐して時に落ち葉を聞く 静に住するは是れ出家」「静夜虚窓の下 打坐して納衣をからぐ」「寥寥ただ自知するのみ」「騰騰兀兀この身を送る」(良寛)
十二時に使われず、十二時を使う主人公の生涯、無心で天真爛漫な生涯を送った。無為自然、無事、真正の道人、主中の主、大解脱の人であった。

良寛に「法華転・法華賛」(「良寛道人遺稿」の冒頭に掲載された。)という詩がある。道元が正法眼蔵を百草残そうとした如く、法華経の宗要を百首残そうとしたものである。禅に関する語を取り出すと。
「諸法一如の声」「如是の両字に高く眼をつけよ  百千の経巻這裏に在り」(法華賛・序)、「万事遊戯に付して参ず」(良寛・法華転・妙音菩薩品)、「我が法は妙にして思い難し」(法華転・方便品)、「法華従来より法華を転ず」(法華転・方便品)、「空を坐とし、慈を室となす」(法華転・法師品)、「明日に礼拝を行じ、暮れにも礼拝。ただ礼拝を行じてこの身を送る 。南無帰命常不軽 天上天下唯一人」(法華賛・常不軽品)、「南無帰命観世音 大喜大捨したまえ救世の仁」(観世音菩薩普門品)、「観音妙智力 千古空しく悠々」(観世音品)、「元来 只如燃」(受記品)「諸法元来かくの如し」(法華賛・方便品)、「諸法本来寂滅相」(方便品)、「騰騰任運しもに過ぐ 困じ来たらば眠り 食来たらば食らう」(方便品)、「若しくは坐禅し若しくは経行し 二十年」(譬喩品)、「十法三世はただ一門」(譬喩品)、「風流ならざる処また風流」(譬喩品)※道元の永平広録に「風流浅き処また風流」の語がある。、「仏法現に前にあり」(化城喩品)、「空は把るべし、風はつなぐべし 如来の寿命ははかるべからず」(寿量品)、「常在無尽、滅度無尽 無尽は無尽に任す」(寿量品)、「生死悠々として、至極なし。今妙法に逢いて、参究に飽く」(普賢菩薩品)等。良寛は「法華転・法華賛」を法華経の宗要の開明のために遺した。それは、「良寛道人遺稿」として発行された。

その後、高齢のため五合庵から乙子神社に移り住み(60歳~69歳)、また晩年は、69歳から74歳まで木村家庵室に住んだ。良寛が貞心尼に出会ったのはこの木村家庵室に移ったころである。貞心尼が初めて良寛を訪れたのは、文政10年(1827年)の秋のことだった。良寛70歳、貞心尼30歳の出遭いであった。良寛が入寂(1831年正月没)するまでの実質わずか3年数か月の短い出会いであった。
貞心尼は歌を通して、良寛に書(秋萩帖の書)と歌(万葉集の歌)と仏法(坐禅と念仏と法華経)を習った。
それは、貞心尼の「蓮の露(はちすのつゆ)」(良寛死後4年目に刊行された。前半に良寛の歌97首(「世の中に交じらぬとにはあらねどもひとり遊びぞわれはたのしも」、「かぐはしき桜の花の空に散る春のゆふべは暮れずもあらなむ」「手折り来し花の色香はうすくともあはれみたまへ心ばかりは」「霞立つ永き春日を子供らと手毬つきつつこの日暮らしつ」「あは雪の中に立てたる三千大千世界またその中にあわ雪ぞふる」等の歌がおさめられている。)、後半に良寛と貞心尼の唱和した歌53首(「これぞこの仏の道に遊びつつつきやつきせぬ御のりなるらむ」「君にかくあひ見ることのうれしさもまださめやらぬ夢かとぞ思ふ」等が収められている。)に収められた。それは、花と蝶の如くの無心な唱和応答歌である。貞心尼は、「良寛の形見としてかたはらにおき、朝夕にとり見つつ来し方しのぶよすがに」この歌集一巻を編集したと「蓮の露」の序文にしるしている。良寛と貞心尼の出会いは、利発な孫娘を可愛いがる無邪気な老翁の如くである。
1831年(天保2年)正月六日、良寛は眠るがごとく坐化した。入寂御歳74歳であった。頭陀袋の中の遺品は、「父以南の俳句一枚と師の国仙から与えられたの印可状」の二つのみであった。葬儀の参列者は二百数十人を越え300人に達するほどであった。人々は延々と隣村まで長蛇の列をつくって、良寛を弔った。まことに、多くの人に慕われた良寛である。

第3話.道元小伝

道元小伝。道元は1200年(正治2年)京都で生まれた。
8歳の時、生母を失った。「慈母の喪に遭い、香火の煙を見て、ひそかに
世間の無常を悟り、深く求法の大観を立つ」と三祖行業記は述べている。
発心・出家得度し比叡山に入る。修行の後、「我伝え聞く、大宋国に仏心印を伝える正宗あり、直に入宋して尋ぬべし」と師に言われ、入宋し師の天童如浄に遭った。参禅中「如浄曰く、参禅は須らく身心脱落すべし。」と。「道元、豁然として大悟す。」「直に、方丈に上がって焼香す。道元曰く、身心脱落し来たる。如浄曰く、身心脱落脱落身心と。」印可を受け、一生の参学ここに終わる。
如浄、道元に遭いし時曰く「仏仏祖祖面授の法門現成せり、これは仏祖の眼
蔵面授なり」と。

帰朝の際、如浄自賛の頂相を受く「仏祖命脈証契印 通道元即通」と。また、碧厳集を書写す。

道元、帰朝第一声、「普勧坐禅儀」(28歳)を撰述す。「道本円通」「身心自然に脱落し、本来の面目現前せん」「唯だ是れ安楽の法門なり。菩提を究尽するの修証なり。」「正法自ずから現前し」「唯打坐を務めて、兀地に礙へらる」「仏仏の菩提に合沓し、祖祖の三昧を嫡嗣せよ」「宝蔵自ずから開けて、受用如意ならん」と宣言す。坐禅は「安楽の法門である」とす。

また「弁道話」(32歳)を著す。
「三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとく悟りとなる」「みなともに一時に身心明浄にして、大解脱地を證し、本来の面目現ず」「諸仏自受用三昧に安坐せり」「われらはもとより無上菩提かけたるにあらずあらず」「万事を放下し、一向に坐禅するとき、大菩提を受用するなり」と。その後、「仏性」「行仏威儀」等示衆をなして、75巻の編集を為す。現成公案の巻を先頭に持って行ったのは道元の死の前年であり、仏性の巻は3番目に置かれた。そこに道元の編集意図がみられる。1252年(建長4年)の最終巻「八大人覚」の奥書きには、この正法眼蔵は百巻のものを構想していたものであるとの弟子の言葉がかきしるされている。
 示衆の間には、永平広録に残されている上堂があった。  1236年10月15日の興聖寺の最初の上堂では、「眼横鼻直なることを認得して人に瞞ぜられず。すなわち空手にして還郷す。故に、一毫も仏法無し。任運にしばらく時を延ぶ。朝朝日は東より出で、夜夜月は西に沈む。」と宣言した。当処永平に、今ここに、真理実相は露堂々と現成せり。皆坐禅弁道に励めよとの仰せである。只菅打坐、唯務坐禅せよと。また、曰く、
「仏仏祖祖正伝の正法は、ただ打坐のみ。」「坐禅は悟来の儀なり。悟りは只管坐禅のみ。」「坐禅は、身心脱落なり。」(永平広録)と。
唯務坐禅・只菅打坐して、身心脱落し、無上菩提(大悟)を得るということである。良寛は、この道元の生き方を生きたのである。そして正法眼蔵の真実を実感したのである。

1253年(建長5年)8月28日夜半法華経神力品を誦し、面前の柱に書付け入寂した。54歳。「釈尊所説の諸経のなかには、法華経これ大王なり。大師なり。」「この経の心を得れば世の中の売り買う声も法をとくかは」と日ごろ述べていた法華経である。良寛はこの法華経に讃を付けて後世に遺した。

第4話.正法眼蔵と正伝の仏法 
 正法眼蔵は正伝の仏法を伝えたものである。正法眼蔵は一大仏教の縮図であり、総合的結論である。仏法は諸法実相を如実に示したものである。縁起・実相を如実に示したものである。現成(諸法)公案(実相)である。無自性の相は、虚空脱落・自性清浄透明脱落せる諸法実相である。遍界不曾蔵。解脱せる諸法の実相である。悉有仏性・諸法実相非思量である。坐禅は非思量の、三昧王三昧の仏作仏行である。非思量の行仏威儀である。

正法眼蔵には、「現成公案」「仏性」といった巻がある。
諸法は現成であり、実相は公案である。諸法実相は現成公案ということである。現成公案は、諸法実相ということである。これが仏智見であり、正法眼蔵涅槃妙心である。現成は遍界不曽蔵である。実相は一如である。萬法一如である。諸法実相如是ということである。
諸法は悉有であり、実相は仏性である。諸法実相・悉有仏性ということである。悉有仏性・諸法実相ということである。
禅の方でいえば、尽十方法世界は諸法であり、真実人体は実相である。
尽十方世界真実人体ということである。
諸法実相ということは、仏性の現成である。 諸法如是相なり。仏知見である。一大事の因縁は、この人人本具の仏知見を己事究明せよということである。正法眼蔵は、この正伝の仏法を、唯務坐禅、只菅打坐にて行仏威儀せよということである。

道元は正法眼蔵の各巻の冒頭で結論を提示している。
弁道話の巻は「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、無上菩提を証するに、最上無為の妙術あり。これただほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊化するに、端座参禅を正門とせり。」                            仏性の巻の冒頭は「釈迦牟尼仏曰く、一切衆生 悉有仏性 如来常住 無有変易。これわれらが大師釈尊の獅子吼の転法輪なり。」すべては、悉く仏性海・真如法性海の現成である。「この山河大地みな仏性海なり。」と。水に映る月のごとし。「無相三昧は形満月の如し。仏性の義は廓然虚明なり。」三昧中の遊化なり。

山水経の巻の冒頭は、「而今の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住して、究尽の功徳を成せり。」「現成の透脱なり。」と。法位に住し、法位に居らず。透明脱落、透過脱落、超越している。山の山を見る時節、仏の仏を見る時節あり。唯仏与仏である。
法華転法華の巻は「十法仏土中は法華の唯一有なり。」「大海仏土なる唯仏与仏の如是相あり。」と。仏の仏を見る時節であり、法華の法華を見る時節である。悉く無私の実相、如是相であり、自己を忘ずれば、尽十法世界は諸法実相である。
全機の巻は「諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり。現成なり。その透脱といふは、あるいは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり。」と。
諸法実相の巻は「仏祖の現成は、究尽の実相なり。実相は諸法なり。諸法は如是相なり。」と。法界如是実相の現成である。「無量無辺の如是なり」。「尽大地解脱門」である。
「現成公案」の巻に「仏道を習うといふは自己を習ふなり、自己を習うといふは自己を忘るるなり。自己を忘れるといふは万法に証せらるなり。万法に証せらるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落しむるなり。」と。坐禅して、三昧王三昧中に自己を忘じて、身心脱落せよということである。自己を忘れるところ、自己ならざるなしである。これが三昧ということである。透過脱落せよ、自性清浄心そのものになりきれとのおほせである。自受用三昧。三昧王三昧。非思量。

 道元のキーワードは、脱落、透脱である。「諸仏の大道、その究尽するところ、透脱なり、現成なり。その透脱といふは、あるいは生も生を透脱し、死も死を透脱するなり。」(正法眼蔵・全機)。存在は瞬間瞬間に生きている。瞬間瞬間に脱落・超越している。瞬間瞬間に死(大死)に、瞬間瞬間に現成(蘇生)している。前後際断している。生の瞬間には死はない。瞬間瞬間に、自己を忘じて、そのものになりきれということである。生也全機現(生の時は生になりきれ)、死也全機現(死の時は死になりきれ)。生は生を脱落し、死は死を脱落・超越している。生死去来は実相の去来。生死去来は真実人体である。真実人体は毎瞬間瞬間に透明脱落、透脱している。生死は自己の光明である。                        真理・真実は無所得。無自性ー縁起ー空性である。無自性の相は、解脱せる諸法の実相である。実相の真理の現成を生というのである。

「諸法は、皆是れ因縁生、因縁生故に無自性、無自性故に無去来、
無去来故に無所得、無所得故に畢竟空。」(般若経)

仏性海中三昧、自受用三昧、三昧王三昧である。それが分かるには、只菅打坐し身心脱落せよ。
「参禅は身心脱落なり。焼香礼拝念仏看経を用いず、只管打坐するのみ」「坐禅せば、自然によくなる」「無所得、無所悟の坐禅」せよと道元は語る。(正法眼蔵随聞記)

5.道元を生きた良寛
原担山禅師は、良寛の「如是の両字に高く眼をつけよ 百千の経巻 這裏に在り」との法華賛の詩に「良寛は道元禅師以来の逸材だ」と称賛している。
良寛の付けた下語には、如浄の語が見えて如浄-道元とのつながりが見え隠れする。
良寛は、円通寺で師の国仙より正法眼蔵の提唱を受け、拝読を願い、その後諸方を訪ね歩き、ゆく先々で正法眼蔵の写本に出会っている。晩年に「永平録を読む」の詩をつくり、永平高祖道元の素晴らしさを讃嘆し、正法眼蔵との縁の深さに触れている。「回首す70年 人間の是非看破すに飽きたり 往来の跡幽かなり深夜雪 一しゅの線香 古窓の下」の雪夜露庵の詩の中で、最後まで自分に残されたものは、唯務坐禅・只菅打坐であったと回想している。良寛70年の生涯は、如浄ー道元ー良寛の正伝の法統の上にある。
良寛の五合庵の生活は唯務坐禅と常乞行と詩作の日々であった。
村に出ては、子供らと無心・無邪気に遊び戯れた。
詩作は、非思量・無心・解脱・静寂の中からうまれている。
大忍魯仙(良寛と同郷の僧。興聖寺にいた。)は良寛の詩は、「非思量の思量から生まれた。」「至道中の妙曲である」と評している。
それは、坐禅の賜物である。「仏仏正に正伝し、祖祖親しく受持す」(良寛)坐禅である。
諸法実相・無私の法に徹した良寛ゆえに、無心無邪気に子供たちと戯れ、貞心尼と自然に付き合い得たのである。
「人生百年、水上の浮草のごとし」(良寛)
「過去はすでに過ぎ去り、未来はなお未だ来たらず、現在復た住らず、今日の知をおうことをやめよ、究め極めて、無心に至らば始めて非をしらん」(良寛)。唯務坐禅して無心無我寂滅相を究尽せよということである。諸法実相無私のところに究め尽くせよということである。

「十方仏土中 一乗を以て則となす」「君看よ衣内の珠 必定何の色をなす」(良寛)。これは正法眼蔵・一顆明珠の巻に「尽十方界是れ一顆明珠」をふまえている。尽十方界は悉く、一顆の明珠(仏性)であると。正法眼蔵との縁は生涯深く、唯務坐禅・只菅打坐、道元を生きた解脱人良寛である。

6.良寛と貞心尼

良寛と貞心尼がであったのは、1827年秋白萩の花の咲くころであった。良寛70歳、貞心尼30歳の時であった。
良寛の詩にこういうものがある。

「花は無心にして蝶を招き
蝶は無心にして花を尋ねる
花開く時 蝶来たり
蝶来たる時 花開く
吾もまた 人を知らず
人もまた 吾を知らず
知らずとも 帝の則に従う」
花は良寛であり、蝶は貞心尼と言えまいか。

良寛と貞心尼の贈答歌の第一声は、貞心尼の歌を習いにと木村家を訪ねた折の 師常に手毬をもてあそび玉うとききて奉るとて

「これぞこの仏の道に遊びつつ つくやつきせぬ御のりなるらむ」(貞心尼)である。

 ※貞心尼は、この手毬をゼンマイの綿で幾重にもかがって作った。自らの手作りの手毬である。誠意のこもった手毬である。貞心尼は「歌を習う」ことを通して、良寛に「法の道(仏陀釈尊の正伝の仏の道)」を教えてもらおうと弟子入りを願った。この「手毬」と「筆跡」と「仏の道」に良寛は感応し、

 つきてみよ ひふみよいむなやここのとを 
         十とおさめて またはじまるを(良寛)70歳

 ※発心即正覚(発心も仏性、正覚も仏性)。この無限に尊い「仏の道」
を喜んで教えましょうと、「仏の道」の弟子入りに応じている。
貞心尼は2歳で母を亡くし、良寛同様、幼少期から、行燈の灯をかくしながら勉学に励んだので、良寛とは波長があった。歌の才もあった。正法眼蔵と法華経に通じた良寛が、残り少ない命の間に、少しでも志のある人に自分の到達したものを分かち与えようとする気持ちが働いた。

「僧はただ万事はいらず常不軽菩薩の行ぞ殊勝なりける」(「蓮の露」所収・良寛)

次の歌は、はじめてあひ見奉りて

 君にかくあひ見ることのうれしさも
      まださめやらぬ夢かとぞおもふ(貞心尼)

※葉隠にある「白雲や唯今 花に尋ね合い」(陣基)とある心境だったであろう。花は良寛、さしづめ蝶は貞心尼である。

それに対して 御かえし
 夢の世にかつまどろみてゆめをまた
         かたるも夢もそれがまにまに(良寛)

※「無上菩提なるがゆえに、夢これを夢といふ。夢中にあらざれば、説夢なし」「一切の諸仏みな夢中に発心修行し、成等正覚するなり」(正法眼蔵・夢中説夢)。仏の道の話に夜もふけぬれば、

 しろたへのころもでさむし秋の夜の
      月なかぞらにすみわたるかも(良寛)と話しを切り上げようとするが、

されどなほあかぬここちして

 向かひいて千代も八千代も見てしがな
          そらゆく月のこと問はずとも(貞心尼)
※と貞心尼はもっと仏の道の話・月の兎の話をを聞いていたいとせがむ。
まるで、道元が如浄に質問をしたように、いくらでも、夜を徹してでも話を聞いていたいとせがんだのである。

※月の兎の話とは、「天の神様が地上に降りて、飢えた老人に変身して、猿と狐と兎に飢えを助けてほしいとお願いする。猿は木の実をとり、畑のものを集め、狐は魚を持ち帰り老人に食べさせた。兎は獲物がとれなかったので、火の中に自分の身を投じて老人に与えた。天の神様はその兎の亡骸を抱いて月の世界へのぼりました。これが、月の中に兎が見える理由なのです。」という話です。
良寛は「月の兎の長歌」を作って貞心尼に与えたにちがいありません。

おかえし
 心さへかわざりせばはふつたの
         たえず向はむ千代も八千代も(良寛)

※と良寛は法の道を修める志(発心)さえ変わらなければどこにいようと心はいっしょ(一如)ですとなだめる。

いざかへりなむとて
 立ちかへりまたもといこむ玉鉾の
         道のしばくさたどりたどりに(貞心尼)
応じて
 またもこよ山のいほりをいとはずは
        すすき尾花の露をわけわけ(良寛)70歳

 ※二人は夜通し坐禅しては、歌をかわし、法の道談義を交わした。「夜もすがら終日になす法の道 みなこの経の声とこころと」(道元)

ほどへてみせうそこたまわりけるなかに                ※2か月ほど貞心尼のおとづれがなかった。福島の貞心尼の庵から、新潟の良寛の島崎・木村家にいくのは、信濃川を渡り、塩入峠を越さねばならなかった。のである。

  君や忘る道やかくるるこのごろは
        待てど暮らせどおとづれもなき(良寛)71歳

御返したてまつるとて

  ことしげきむぐらのいほにとぢられて
        身をば心にまかせざりけり(貞心尼)
  山のはの月はさやかにてらせども
        まだはれやらぬ峰のうすぐも(貞心尼)        御かえし
  久方の月のひかりのきよければ
        てらしぬきけりからもやまとも(良寛)71歳

春の初つかたせうそこ奉るとて
  おのづから冬の日かずのくれゆけば
        まつともなきに春はきにけり(貞心尼)
  われもひともうそもまこともへだてなく
        てらしぬきける月のさやけき(貞心尼)
  さめぬればやみも光もなかりけり
        ゆめじをてらす有明の月(貞心尼)

※貞心尼は歌の交換や坐禅を通じて良寛の境地(法の道)に近づいている。まことに、「花無心にして蝶を招き、蝶は無心にして花を尋ねる」が如くである。

御かえし
  天がしたにみつる玉よりこがねより
        春のはじめの君がおとづれ(良寛)72歳
  てにさわるものこそなけれ法の道
        それがさながらそれにありせば(良寛)
 
※「仏祖の現成は、究極の実相なり、実相は諸法なり、諸法は如是相なり」(正法眼蔵・諸法実相)。法の道は只如是と良寛はいう。「如是の両字に高く眼をつけよ」(良寛・法華賛)

春風に深山の雪はとけぬれど
        岩間によどむ谷川の水(貞心尼)
深山べの美幸とけなば谷川によどめる水はあらじとぞ思ふ(良寛)
いづくより春は来しとぞたづぬれどこたえぬ花に鶯のなく(貞心尼)

君なくば千たび百度かぞふとも十づづとををももとしらじを(貞心尼)
いざさらばわれもやみなんここのまり十づづ十をももとしりなば(良寛)

※良寛がいなかったら貞心尼もここまで仏法の真理真実を知りえなかったであろう。如浄に出会わなかったならば、道元が悟れなかったように。

歌やよまむ手毬やつかむ野にやでむ
           君がまにまになして遊ばむ(貞心尼)
歌もよまむ手毬もつかむ野にやでむ
           心ひとつを定めかねつも(良寛)

 いざさらば立ちかへらんといふに

霊山の釈迦の御前にちぎりてしことな忘れそよはへだつとも(良寛)72歳
霊山のしやかの御前にちぎりてしことは忘れじよはへだつとも(貞心尼)

※「常に霊山に在って、法を説く」(良寛・法華賛、寿量品)法華経の仏陀釈尊の教えの前で法の道を学ぶことを誓った。法門無量誓願学である。

秋萩の花咲くころは来てみませ命またくばともにかざらん(良寛)

 ※秋萩は貞心尼の好きな花であるのを知って良寛は詠んでいる。やさしさに満ちている良寛である。

秋萩の花咲くころを待ちとほみ夏草わけてまたも来にけり(貞心尼)

 ※秋を待てずに、夏来てしまいましたと貞心尼は甘えて歌う。可愛い貞心尼である。純真無垢な貞心尼である。
 
秋萩の咲くを遠見と夏草の露をわけわけとひし君はも(良寛)

来てみれば人こそ見えね庵守りて匂ふ蓮の花の尊さ(貞心尼)
御餐(みあへ)する物こそなけれ
       小甕(こがめ)なる蓮の花をみつつ忍ばせ(良寛)72歳

歌や詠まむ手毬やつかむ野にや出む君がまにまになして遊ばむ(貞心尼)
歌も詠まむ手毬もつかむ野にも出む心一つを定めかねつも(良寛)72歳

※まるで、昔の子供心に帰っている。無邪気なうたである。ここには、貞心尼と良寛しかいない。良寛は朝早く、貞心尼の泊まったところを訪問し歌をかわしている。

そのままになほ耐え忍べいまさらにしばしの夢を厭ふなよ君(貞心尼)

あづさゆみ春になりなば庵をとく出て来ませ逢ひたきものを(良寛)73歳

いついつと俟ちにし人は来たりけり今は相みて何か思はむ(良寛)73歳

※良寛はかなり弱ってきており、死を直観している。

むさしのの草葉の露のながらへて果つる身にしあらねば(良寛)73歳

※死を直前にした歌である。

生き死にの境離れて住む身にも避らぬわかれのあるぞ悲しき(貞心尼)

※もう良寛との永遠の別れも近い。貞心尼は良寛の死を覚悟している。

御返し
裏を見せ表を見せて散る紅葉(良寛)73歳

来るに似て帰るに似たり沖つ波(貞心尼)
      明らかりけり君が言の葉(良寛)  74歳1月6日良寛没

 「蓮(はちす)の露」の唱和歌は、この二人の付けた句で終わっている。

 1831年(天保2年)正月六日申の刻、入相の鐘の音とともに良寛入寂す。「師 病中さのみ御なやみもなく ねむるがごとく坐化し玉ひき」(貞心尼「浄業余事」)。1827年秋から、たった3年余りの短い出遭いであった。この貞心尼の「蓮の露」によって、良寛の歌集は世にしられ、「良寛道人遺稿」によって、良寛の法華賛は世に知られたのである。貞心尼なくば、良寛は世に埋もれていたかもしれない。



      


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