良寛・道元研究ノート


良寛・道元研究ノート1良寛の詩「永平録を読む」について

良寛の詩にある「永平録を読む」の中の「永平録」は、「永平広録」か「正法眼蔵」か。正法眼蔵である。
それは、詩の中に「500年来塵に埋もれし」という文言があるからである。正法眼蔵は、室内秘書として500年余り埋もれていた。それに比して
永平広録は、道元死後すぐ10年間に10巻に編集され、1264年に弟子寒厳義伊が宋に渡り、道元の兄弟弟子にみてもらい、1巻本(略録という)にまとめられて、「虚堂録」の著者虚堂らに序文を書いてもらっているからである。そして、略録は1358年に曇希により開版されている。
道元死後100年あまりで世にでているのである。
正法眼蔵は室内秘書扱いされて、永平寺の住職に500年来代々受け継がれてきた。全巻が開版されたのは、江戸時代に入ってからである。
正法眼蔵は75巻本(道元編集)、60巻本(義雲編集)、84巻本(梵清編集)、95巻本(永平寺版・晃全編集)と異本が多い。
では良寛が「永平録を読む」で読んだのは何巻本であったか。
95巻本である。それは、木村家の屏風に書き記された良寛の正法眼蔵の巻目の最初が「弁道話」と書かれているからである。
弁道話が最初にくるのは、江戸時代に開版された永平寺版95巻である。
その他は、現成公案の巻が最初におかれているからである。「弁道話」はそれまで、拾遺(別本)扱いであった。
また、良寛は「重雲堂式」を楷書で写した断片が遺墨集に残っている。
「重雲堂式」は95巻に初めて編入された巻である。
正法眼蔵は実に一大仏教の縮図であり、総合的結論である。
「諸仏の道現成これ仏教なり」(正法眼蔵・仏教)という。

江戸時代文化12年(1815年)に印刷刊行され頒布されている永平寺版95巻である。開版されたこの年、良寛は58歳にあたる。
良寛の詩「永平録を読む」が書かれたのは、おそらく木村家(一切経七千余巻を隆泉寺に寄進した木村元右衛門家)の庵に移った69歳以降のことであろう。良寛はこの詩を10種類以上作っている。思い入れの深い詩である。
「永平録を読む」(良寛)
春夜蒼茫たり二三更
春雨雪に和して庭竹に濯ぐ
寂寥を慰めんとするもまことに由なく
背手に模索す永平録
明窓の下 几案のほとり
香を焼き燈を転じて静かに抜き見る
身心脱落はただ真実
千能万状 龍玉を弄す
格外の知見 時弊を洗い
老大の家風 西竺に像る
憶ひ得たり昔日円通に在りし時
先師提持す正法眼
当時すでに翻身の機あり
為に拝謁を請うて親しく履践す
うたた覚ゆ従来独り力を用ひ
これより師を辞して遠く往返す
吾と永平と何の縁かある
到る処奉行す正法眼
参玄参乗凡そ幾回なる
其の中往々呵責なし
諸法知識山岳し到る
今この録を把って謹んで参得するに
大いに諸方の調と混ぜず
玉か石か人の問ふなく
五百年来塵埃に委ねしは
もととして是れ法を撰ぶの眼なきに由る
滔々皆是れ誰が為にか挙する
古を慕ひ今を感じ心曲を労す
一夜燈前涙留らず
湿し尽くす永平古仏の録
翌日隣翁草庵に来たりて
われに問ふ この書なんすれぞ湿りたりと
道はんと欲して道へず
心うたた苦し 説くも及ばず
低頭やや久しうして一語を得たり
夜来雨漏りて書箋を湿せりと

研究ノート2「良寛と貞心尼」
良寛(1758-1831)と貞心尼(1798-1872年)。二人がであったのは、1827年(文政10年)良寛70歳、貞心尼30歳。良寛晩年の最後の3年余り(数か月)のことである。
貞心尼は良寛の最後を看取り(34歳)、良寛との唱和・贈答歌「蓮の露」を遺した(38歳)。良寛の歌集としては最初のものである(前半に良寛の歌が収録され、後半に良寛と貞心尼の唱和歌が収録されている)。そして蔵雲と共に「良寛道人遺稿」(法華賛や唱導詞が掲載されている)の出版・刊行に尽力した(70歳)。

貞心尼略歴
1798(寛成10年)長岡藩士 奥村五兵衛の娘として生まれる。
幼くして母と死別(ここに道元との近似が見られる。出家願望と正師との出会いを望む。)
1814年(文化11年)医師・関長温と結婚。17歳。
1820年(文政3年)離婚。柏埼市の尼寺「閻王閣」で出家。尼僧の弟子となり、尼僧生活に入る。23歳。法名は貞心。
1827年福島の閻魔堂に入る。この年の秋に良寛70歳と出会う。30歳。
1831年(天保2年)正月6日良寛死す(良寛74歳)。貞心尼は最後まで看病し良寛の最後をみとった。34歳。
1865年龍海院蔵雲と交友する。蔵雲とともに「良寛道人遺稿」の編集に奔走する。遺稿の最初に「法華賛」が掲載され、良寛の詩「唱導詞」「秋夜弄月」「騰騰」「髑髏賛」などが紹介されている。
1867年(慶応3年)「良寛道人遺稿」(芝尚古堂)発行。                            1872年(明治5年)没。75歳。
貞心尼は歌(万葉集)や書(秋萩帖)を習いつつ、良寛に法の道(法華経、坐禅、浄土念仏)を習ったのである。
「蓮の露」の歌、最後の歌がそれを証明している。
「くるに似て かへるに似たり おきつ波」と貞心尼が読めば
「あきらかりける 君が言の葉」と良寛が下の句をつけた。
これは、良寛と貞心尼が歌を通じて心が一体となっていることを示している。貞心尼が法の道を会得したことを良寛が証明している。
「蓮の露」の歌の中で、良寛は、貞心尼の歌に対し、木霊の如く感応し、無心で歌を返している。

貞心尼の墓碑の遺詠は「くるににてかえるに似たりおきつ波 立ち居は風のふくにまかせて」である。最後は、自分の句で、良寛の任運騰騰の意で締めくくった。

「蓮の露」序文
「良寛禅師と聞こえしは、出雲崎なる橘氏の太郎のぬしにておはしけるが、十八歳という年にかしらおろしたまひて、備中の国玉島なる円通寺の和尚国仙という大徳の聖のおはしけるを師となして、年ごろそこにものしたまひとぞ。また世にその名聞こえたる人々をば、をちこちとなくあまねくたづねとぶらひて、国々に修行したまふことはたとせばかりにして、つひにその奥をきはめつくしてのち、故郷にかへりたまふといへども、さらにすむところをさだめず、ここかしことものしたまひしが、後は国上の山に上りみづから水くみたき木ひろひて、おこなひすませたまふこと三十年とか。島崎の里なる木村なにがしといふもの、かの道徳をしたひて親しく参りかよいけるが、
そこにうつろひたまてより、あるじいとまめやかにうしろ見聞こえければ、禅師も心安しとてよろこぼひたまひしに、その年よりむとせといふ年の春のはじめつかた、つひに世を去りたまひぬ。」「かく世はなれた御身にしも、さすがに月花のなさけは捨てたまはず。よろづのことにつけ折にふれては、歌よみ詩作りて、そのこころざしをのべたまひぬ。されどこれらのことをむねとしたまはねば、たれによりてとひまなびもしたまはず。ただ道の心をたねとしてぞよみいでたまひぬるその歌のさま、おのづからいにしへの手ぶりにて、すがたこと葉もたくみならねど、たけたかくしらべなだらかにて、おほかたの歌よみのきはにあらず。」
「長歌みじかうたとさまざま有るがなかには、時にとり物にたはぶれてよみすてたまへるもあれど、それだによの常のうたとはおなじからず、ことに釈教は更にもいはず、また月の兎、鉢のこ、しらかみなどよみたまふも、あはれにたふとく打ずしぬれば、おのづから心のにごりもきよまりゆくここちなむせらるべし。この道に心あらむ人、この歌をみることを得て、心に疑ふことあらずば、何のさいはひかこれに過ぎんや。されば、かかる歌どものここかしこにおちちりて、谷のうもれ木うづもれて世にくちなんことの、いといとをしければ、ここにとひかしこにもとめて、やうやうにひろいあつめ、また、おのれが折ふしかの庵へ参りかよいし時、よみかはしけるをもかきそへて、こは師のおほんかたみとかたはらにおき、朝ゆふにとり見つつ、こしかたしのぶよすがにもとてなむ」(貞心しるす)
良寛の形見と、朝に夕に手に取りしのんだということである。
「蓮の露」の前半は良寛の歌である。
「手折り来し花の色香はうすくともあはれみたまへ心ばかりは」と西行法師の墓へもうでて花をたむけた歌ものせている。おそらく貞心尼もこの話を良寛からきいていたにちがいない。
「ひさかたの雲居をわたる雁がねも羽白妙に雪やふるらむ」という万葉集の歌に似せた歌も載せている。歌は万葉集を読むとよいと良寛は教えたであろう。
「霞立つ永き春日を子供らと手まりつきつつこの日暮らしつ」の歌ものっている。こどもらとの手毬のことが楽しみだった良寛の話を聞いたことがあるのだろう。
「木の葉散る森の下屋は聞きわかぬ時雨する日もしぐれせぬ日も」
「月よみの光をまちてかへりませ山路は栗のいがのしげきに」
「風は清し月はさやけし夜もすがら踊りあかさむ老いのなごりに」と盆踊りの好きだった良寛を載せている。
「山里の草の庵に来てみれば垣根に残るつはぶきの花」
「まそかがみ手に取りもちて今日の日もながめ暮らしつかげと姿と」
「世の中にまじらぬとにはあらねども一人遊びぞわれはたのしも」の歌もある、唯務坐禅と読書を友とした良寛である。
「我ながらうれしくもある弥陀仏のいますみくにへ行くとおもえば」
「やちまたにものな思いそ弥陀仏のもとの誓いのあるにまかせて」と南無阿弥陀仏の念仏の教えも載せている。坐禅のほかには、女性は念仏もよしとのおほせであったのだろう。
「我ありと思ふ人こそはかなけれ夢の浮世にまぼろしの身を」と諸法無我の教えを説いている。
「水の上に数かくよりもはかなきは みのりをはかるひとにぞありける」世間の法のはかなさと、仏の道の広大無辺を教えたものである。人間の是非看破すに飽きたりである。
「僧はただ万事はいらず常不軽菩薩の行ぞ殊勝なりける」法華経の常不軽菩薩の話を、良寛は好んで貞心尼に聞かせたことだろう。
「あは雪の中に立てたる三千大世界(みちおほち)またその中にあわ雪ぞふる」
月の兎の長歌も載せている。この「蓮の露」に載せた前半の良寛の歌に、貞心尼が聞いた法の道の全てが含まれている。釈教歌である。

研究ノート3 良寛の生死観と正法眼蔵の「生死」巻
1828年(良寛71歳)越後三条大地震があった。
良寛は言う「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候。」
つまり、生の時は生きり、死の時は死きりである。
自己を忘じて、生の時は生になりきり、死の時は死になりきれとのことである。
生や全機現、死や全機現である。
「生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり」(諸悪莫作) 
正法眼蔵「生死」巻に「生死のなかに仏あれば、生死なし。生死のなかに
仏なければ、生死にまどわず。」「ただ生死すなわち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて、生死をはなるる分あり。」と。
「生死は仏の御いのちなり」「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ仏となる。」と。良寛は道元の生死巻を踏まえて語っているのである。

葉隠は言う「毎朝、毎夕改めては、死に死に、常住死に身になりて居る時は
武道・仏道に自由を得る」と。この心である。今のこの瞬間に死に、無となってまた、この瞬間に生きよということである。瞬間ごとに死に、毎日死ねよということである。それが生きるということである。

正法眼蔵「生死」巻は95巻本に見られるので、この時期良寛が手にした正法眼蔵は永平寺本95巻である。おそらくは、木村家から取り寄せたものであろう。良寛は木村家の屛風に「愛語」のほかに「正法眼蔵95巻の巻目」を書している。

研究ノート4 良寛の愛語
正法眼蔵・四摂法の中の「愛語」に曰く「愛語と云うは、衆生を見るに、まづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。」「慈念衆生猶如赤子のおもひをたくはへて、言語するは愛語なり。」「愛語は愛心よりおこる、愛心は慈悲心を種とせり。愛語よく回天の力あることを学すべきなり」

研究ノート5良寛の書の評
「良寛は他に比べると数頭旨い。旨いというより高い」
「これは頭が下がる書だ。」(夏目漱石)
「毛筆の機能と豊かさを使いつくさずというより、そのほんの一端だけを使い、墨もほんの少しだけで、ただ書けるようにしている。豊潤の対極にありながら、これほど豊かなものはない。これは何もないようで、一切であるという、そういう書である」(書家・篠田桃江)
「良寛の書は習うでもないし、習える書でもない。死を前にし、何もいらない、何も持たず、何も求めない、そんな心境に先ずなることだ。」(村上三島)。
「天真爛漫な書である。」(小島正芳)
「良寛の書から最初に受けるものは、きわめて素直な線質のよさである」
「良寛の仮名は、普段着のままの佳人といえよう」

「良寛の書は、一見稚拙に似て、その奥に無類のうまみをもち、高い格調を持つ書で、他にみられないものである」(安田靫彦)

「良寛さまの書は極めて簡素・清潔である。一切のあるものを全部払い捨てて無心に帰った高い精神性のあらわれたものである。」(書家・桑原翠邦)
「良寛の書の独自性の極点を、私はその細楷にみたい。あの澄み切った線美はかの泰山刻石をもって来ても押しつぶすことはできない。」(書家・小暮青風)
良寛の書は、無心の書である。境涯の書である。その境涯に達した者でなければ書けない書である。

研究ノート6 良寛の詩「唱導詞」(「良寛道人遺稿」に掲載された)
「風俗年年に薄らぎ  朝野歳歳に衰う
 人心は時時に危うく  祖道は日々に微かなり」
「ここに吾が永平あり 真箇祖域の魁たり
夙に太白印を帯びて 扶桑に宗雷を振るう
大いなるかな択法の眼 龍象尚威を潜む
盛んなり弘通の任 幽も輝を蒙らざるなし
輝を垂れて島夷に及ぼす
削るべきはみなすでに削り 施すべきは皆すでに施す」
とあり、道元さまを讃嘆している。この「唱道詞」は、良寛の詩才・学才の高さを示すものである。原担山は「仏教学の奥義を極めしもの、空海以後良寛あるのみ。」と語った。

「たとひ恒沙の書を読むとも 一句を持するにしかず
人有り もし相問はば 如実に自心を知れと」(良寛)
「良寛註記法華経断簡」の書入れに「住心品疏曰く、」とある。良寛は一行の「大日経疏」を読んでいたのである。良寛は高野山にも諸国行脚している。諸国行脚しながら、正法眼蔵の写本や大日経疏の写本を求め歩いたのである。

研究ノート7悟りについて(非思量、無所得の悟り。)


「人の悟りをうる、水に月のやどるがごとし、月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天も草の露にもやどり、一滴の水にもやどる。さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがざるがごとし。人のさとりをけい礙せざること、滴露の天月をけい礙せざるがごとし。」(正法眼蔵・現成公案)

「仏の真法身 なを虚空の如し 応物現形 水中の月の如し」(永平広録)

「寂静無漏の妙術あり。これを坐禅という。即ち是れ諸仏の自受用三昧なり、また三昧王三昧という。若し一時もこの三昧に安住すれば、即ち直に心地を解明す。まことに仏道の正門なることを。」(坐禅用心記)

「不礙の道に達せば、なを太虚の如く、廓然として蕩豁たり。」(趙州録・南泉)

空の鏡に映る万象。真如の海に映る万象の波。
達磨の「廓然無聖」(綺麗さっぱり、虚空透明無相である)。      趙州の「無」

仏性ー透過脱落(「悉有それ透体脱落なり」正法眼蔵仏性巻本文)

「この大宝蔵、古にわたり、今にわたり、歴歴虚明にして無始劫よりこの方、自己の根本たり。ただ休かつして一念不生・前後際断の処に至りぬれば、則ち透脱す。」(園悟心要)
「廓然として、明らかに、本来の面目を見る。一得永得堅固にして動かざらしむ。」(園悟心要)
「大因縁、まさに生死を透脱せんためなり。」(園悟心要)
「虚にして霊、寂にして照なり。万縁を透脱し、超越し得たり。」
「この一片の田地を信得せば、即ち一了一切了、一明一切明。皆これ頂に透り、底に透る大解脱金剛の正体なり。まさに瞑心静座して縁を忘れ体究すべし。生死の際に至りて自然に悠然として畏怖なし。」(園悟心要)
「無心の地に到りぬれば、虚閑寂静にして、万変千転すと雖も、自然に騰騰任運して照応無方なり。十二時を使い得て、一切の法を用い得る。根本廓然として、是非をあらはさず。愚人のごとし。」(園悟心要)
「一切の時、無欲無依なれば、自然に諸三昧を超える。」(園悟心要)

「悉く皆解脱の諸法なり」(正法眼蔵・行持巻)

「前後際断底の工夫現前し、励み進めば、いつしか自性本有の有様をたちどころに見徹し、真如実相の慧日は目の当たりに現前して、三十年来かって 見ず、いまだかって聞かざる底の大歓喜す。」(白隠・隻手音聲)

「四面なにひとつなく空漠とし、ひろびろとひろがり、生でもなく死でもなく、万里の厚い氷の中にいるがごとく、瑠璃の瓶の中にすわっているようで、一分は清涼に、一分はこうけつなり。坐して立つことをわすれ、立って坐すことをわする。胸中一点の情念なく、ただ一個の無字のみあり。あたかも長空に立つがごとし。」(白隠・遠羅手釜続集)

「この打成一片の地位をたとえてみると、厚い氷のなかにとじこめられているようなものである。上下四方、前後左右、悉く透き通って、いかにも見事な美しいものであるが、わが身は氷に閉じ込められているゆえ、身動きすることがならぬようなもの。この時に至ってすこしも退却の心をおこさず、一念をも動かさず、ただ一向に、州いわく無、無、無、無でおしこんでいくと、やがて、時節到来して豁然として真のさとりが開けるのである」(坐禅の捷道)


研究ノート8 良寛の法の道と「月の兎」の長歌
良寛の「月の兎」の長歌
「いそのかみ ふりにしみ代に ありといふ 猿と兎と狐とが 友を結びて
あしたには 野山にあそび ゆうべには 林に帰り かくしつつ 年の経ぬれば ひさかたの 天の帝の 聞きまして それがまことを 知らむとて
翁となりて そがもとに よろぼいゆきて 申すらく いましたぐいを 異にして 同じ心に 遊びてふ まことききしが 如ならば 翁が飢えを 救えと 杖をなげて いこひしに 易きこととてややありて 猿はうしろの 林より 木の実ひろいて 来たりけり きつねは前の かわらより 魚くわえて 与えたり 兎はあたりに 飛び跳べど なにもものせで ありければ 兎はこころ ことなりと ののしりければ はかなしや 兎はかりて もうすらく 猿は柴をかりてこよ 狐はこれを 焚きてたべ いふがごとくに なしければ 炎の中に 身を投げて 知らぬ翁に あたへけり」
「兎はことにやさしとて からをかかえて ひさかたの 月の宮にぞ ほふりける 今の世までも 語りつぎ 月の兎といふことは これがもとにて ありけりと」という話である。 

反歌として「あたら身を 翁がにへとなしけりな 今のうつつにきくがともしさ」(良寛)
「秋の夜の 月の光を見るごとに 心もしぬにいにしへおもほゆ」と残している。                               良寛は、法華経の「不自惜身命 ただ無上道を惜しむ」という心で歌っている。この月の兎の話を貞心尼に語り聞かせていただろうことは疑いない。この月の兎の話は、今昔物語の中にでてくる話である。
良寛は、貞心尼に聞かせたものは、月の兎の話や、法華経の常不軽菩薩や観音菩薩品の話、道元の愛語、布施、利行、生死、八大人覚の話であっただろう。

研究ノート9良寛の法華賛「常不軽菩薩品」と「観音菩薩品」
「朝に礼拝を行じ 暮れにも礼拝
但だ礼拝を行じ この身を送る
南無帰命常不軽 天上天下 唯だ一人」(常不軽菩薩品)
「真観 清浄観 広大智恵観 悲観及び慈観
無観最も好観 為に報ず 途中未帰の客
観音は補陀山に在さず」(観世音菩薩品)
「風定 花尚落ち 鳥啼いて 山更に幽なり
観音妙智力 咄」(観世音菩薩品) 

法華賛序品「如是の両字 高く眼を著けよ 百千の経巻 這裏に在り」の良寛の賛に、原担山は「永平高祖いらいの巨匠なり」と称賛した。法華賛に付けた語は、如浄録から取られた語もあり、如浄ー道元ー良寛の法統も示している。法華転法華のごとくである。
一切心一切処諸法実相は如是相である。
諸法の実相を観ることが、仏知見(魔訶般若波羅蜜)を得ることである。

良寛・法華賛末尾文「我法華賛を作る 都来(すべて)一百二 羅列して這裏に在り 時々に須らく熟視すべし 視る時容易にすること勿れ 句句に深意有り 一念若し能くかなわば 直下に仏地に至らん」(良寛)

良寛は、碧巌録や従容録、正法眼蔵のように百首の法華賛をつくろうとしたのである。

法華経の重要句
「如来の知見波羅蜜皆すでに具足」(方便品)

「諸法如実の相を観る」(安楽行品)
「如来は実の如く三界の相を知見す」(寿量品)


研究ノート10良寛の歌の評
「良寛の歌は素人くさいから佳いのではなく、妙境に入っているから佳いのである。」(斎藤茂吉)
「良寛の歌には、厭味がほとんどないのと、気韻漂渺たるものが多い」(茂吉)「良寛の歌は単純であって充ちている」(斎藤茂吉)

「この宮のみさかに見れば藤なみの花のさかりになりにけるかも」(良寛)
「足引きの国上の山の杉かげにあらはれいづる月のさやけさ」(良寛)
「月読のひかりを待ちて帰りませ山路は栗のいがの多きに」(良寛)
「秋もややうらさびしくぞなりにけり小笹に雨のそそぐをきけば」(良寛)
「ひさかたの時雨の雨のまなく降れば峯の紅葉は散りすぎにけり」(良寛)

「あずさゆみ春になりなば草の庵を早く(とく)訪ひてませ逢ひたきものを」(良寛)のこの歌に茂吉は「実に良寛は詠歌に際してみづからを欺かなかった。死にちかき老法師の良寛が若い女人の貞心尼に対した心は純心無礙であった。」と評している。

「山かげの岩間をつたふ苔みづのかすかに我はすみわたるかも」(良寛)
茂吉評「ゆったりとしていて、しかも少しも遅緩していない。良寛の歌集中の秀歌である。」

研究ノート11「良寛道人遺稿」について

1867年(慶応3年)江戸の芝尚古堂で出版される。
良寛没後35年目の詩集の出版である。編者は竜海院の蔵雲である。
この出版に貞心尼が協力・奔走している。蔵雲は、貞心尼から良寛のことを聞きながら遺稿を編集している。遺稿に良寛道人略伝が載せられ「参徒貞心尼のなる者に就いて、師の履践風采を詳らかにす。」とある。略伝には、「国仙の印可の偈(良や愚の如くなるも道うたた寛し云々)」や、「その書が張懐の逸体有り、その和歌は万葉の遺響有り」とも載せている。略伝の出だしは「蓮の露」に似ている。


遺稿の最初に「法華賛」52首を掲載している。寿量品の賛に「空も取るべし 風も繋ぐべし、如来の寿命は議るべからず。常に霊山に在って、法を説くと雖も、人をして敢えて容易に視せしめず。」とある。「蓮の露」の歌にも「霊山の前で誓った」という二人の唱和応答歌がある。法華賛を最初にもってきたのは、貞心尼のすすめではないか。この遺稿は、天童如浄から道元、そして良寛へと流れる法統をも暗示させている。つまり、如浄語録からの引用がみられる。正伝の仏法、法の道である。

法華賛の後には「唱導詞」や「圓通寺」「観音」「南泉」「騰騰」「五合庵」「髑髏賛」、雑詩に「生涯身を立つるにものうく 騰騰、天真に任す。」や「静夜虚窓の下 打坐して」の詩、最後に「首をめぐらせば七十有余年、人間の是非看破すに飽きたり 往来の跡幽かなり深夜雪 一しゅの線香 古窓の下」の詩等182首載せている。

江戸時代に紹介・出版されたものとして、良寛死後4年目の「蓮の露」と、良寛死後35年目の「良寛道人遺稿」は貴重なものである。

  



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