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わたしがうつ病になったわけ ♯1

人はなぜうつ病に?

誰でもうつ病になる可能性がある。心の風邪みたいなもんだから。

こんな言葉を耳にしたことがあると思います。

確かに、誰でもなりうる病気。体が疲れていて、仕事も大変で、そんなタイミングで家族内に問題が起きた!なんて風に悪いタイミングが重なれば、どんなに元気な人でもメンタルが乱れる。
でも、全員が全員、うつ病になるわけではない。

ましてうつ病は風邪みたいに、寝てれば時間で治りますっていう類の病気でもない。

だからうつ病を風邪なんていうなぁ!と当事者は神経尖らせちゃうんですが、そんな論点の言葉ではないですよね。

誰でもなりうる病気だから、偏見持つなっていう意味の言葉だと思ってます。

それでも、やっぱりうつ病になる人とならない人がいる。
その違いはどこで生まれるのか。
性格? 遺伝? 境遇?

疑問に思ったので、だったらまず自分の分析をして見ようと思った次第。

わたしってどんな人

わたしは6歳まで一人っ子として育った長女。 
そのためか、競争意識の低い、ボーッとした子どもでした。
大好きなのは、お菓子作りの本を見て「美味しそうやなぁ」と妄想すること。
リカちゃんキッチンを持っていたのですが、普通の女の子のように、新しいリカちゃんの衣装が欲しいとかいう願望はなく、ひたすらキッチンの棚に入れる、食べ物の絵のパネルを欲しがり、売ってないと分かると、自分で絵を描いて切り抜いていた、食いしん坊でした。

そんなボケボケ娘が、すでに10歳頃からなぜうつ症状を見せ始めたのか。
自分の過去を振り返ることで、とんでもない事を思い出しちゃったんですよ。
思い出してから、自分の気持ちを整理するのに時間がかかって、なかなか文章化できなかったです。
でも、せっかく自分を理解するために思い出したこと。
しっかり消化することで、自分の中で知れず自分をおとしめていた物が、わたしの中から軽くなって飛び立つのではないか。
そう思って文章にしていくとにしました。

要因1 性格

わたしはいわゆるHSPといわれる類の人間。
脳の構造的に、人よりも感情に関わるホルモンの分泌が10倍くらい多いらしいです。
だから、感動や喜びも人より深いのですが、恐怖などのストレスも10倍強く感じてしまう。

親族の間で伝説のように語りるのが、赤ん坊の頃のわたしの泣きっぷり。
母親から離されると、海老反りになって1時間でも2時間でも泣いている。
お陰で、腸が腹腔から飛び出す脱腸になりかけて、医者に「この子は泣かせないでください!」と言われる程だったとか。
生後1年未満の赤ん坊を泣かせるなって言っても不可能。
いやぁ、父、母にはえらく迷惑をかけたわけです。
何度も夜中のドライブに出かけ、寝たらそーっとベビーベッドへ。
ところがベッドに下ろして手を離した瞬間に、お目目ぱっちり。
再びドライブに出る毎日だったとか。
とにかく母親から離れることに、異常なほどの恐怖を感じていた様なのです。

要因2 遺伝

関係あるのかは分かりませんが、母方の祖父がアルコール中毒でした。
祖父はとても繊細な人なのに、戦後の大変な時代の中で、優秀だった兄が戦死し、「お前が代わりに死ねば良かった」と実の母に言われてしまった人でした。
そのせいで、すごい才能があったのに自己肯定感がゼロに近い人でした。
そのために、アルコールが必要だったのでしょう。

そして、そんな祖父の姿を見て育った母もアダルトチルドレンと言われる特性を持っていました。
自己否定して、何が正しいのか確信が持てない。
そんな人が結婚して、義両親と障がいのある義理の兄との同居を始めたのです。
しかも父は男ばかりの6人兄弟の末っ子。
末っ子が跡取りゆえに、障がい者の兄以外の残り4人の義理の兄姉が常に監視の目を光らせている環境。
自分の親族ながら、非常に愛に欠けた人たちでした。
おそらく、ここにも父方の祖父母の生い立ちが関わって来るわけです。
祖母は幼い時に養子として、お茶の師匠をしている方の家に貰われて行ったそうな。
でもそこで待っていたのは、厳しい礼儀作法の躾と折檻。
愛されて育たなかったんだね。
祖父は元警察官のイケメンでした。
かなり裕福な地主の次男だったけれど、病弱な兄のために、遺産を全放棄。お兄さんが土地を切り売りしながら、働かなくても生きていけるように助けたというから、父方親族の中では唯一、話の通じる人でした。
でも、あまり家の事に口を出さない性格だったらしく、やはり6人の子どもは一様に父親を嫌っていました。
そんな愛情の欠片もない家に嫁いだ母が病むのも無理からぬもの。
病みに病んだ状況で、わたしを妊娠していたのです。
胎教的に悪いですわね。

父方、母方、共に家庭環境に問題があり、そうした負の要因で捏ねあげた子どもがわたしだったわけです。

要因3 家庭環境

そんな悪条件の中でも、ボケボケ娘として過ごせていたのは、一重に父母の努力があったのだと思います。
父は体を壊した母のために、家を出る決断をした。
母は自分が具合が悪くても、ギャン泣きする娘を虐待すること無く、大事に育ててくれた。
本当に感謝です。

ところが、親子3人で幸せに暮らしていた日々に転機が訪れるのです。

わたしが4歳の時に母が妹を身ごもったのです。
男ばかりの兄弟で育ってきた父は、女の子のわたしが生まれた時も「こんな可愛い子はこの世にいない」と親バカ全開な程に、娘が出来てことを喜んでいたそうです。
だから2人目の娘が出来ることを、心の底から喜んでいたのだと思います。
ところが、妊娠10ヶ月。もうすぐこの世に生まれるというタイミングで、妹は母のお腹の中で亡くなってしまったのです。
死産で生まれた娘。唯一その姿を目にしたのが父でした。
おそらく酷くショックだったのでしょう。
一人では受け止められない衝撃があったのでしょう。
それが、生きている娘であるわたしに、言ってはならない言葉を放つ事になるのです。

「おまえのせいで妹は死んだ!」

言われたわたしはまだ4歳。
そこまで意味を理解した訳ではなかったです。
でも、理解したのは、もう子どもみたいに母に甘えて生きてはならないんだ。という事でした。
わたしが甘えていたせいで、母を悲しませる大変なことが起きてしまった。
なら、もう自分のことは全部自分でやる。自分のせいで、母を悲しませるようなことは決してしない。
そう決断した記憶はあります。
実際、翌日から預けられた母方の祖母の家で、わたしは完璧な子どもになっていました。
寝る前に、翌日着る服を畳んで枕元に用意して寝る。起こされなくても6時に起きる。
朝ごはんを食べたら、流しに持っていって洗い、布巾で拭いて棚にしまう。いとことも喧嘩せずに遊ぶ。
それを1週間、1日も欠かさずに続けたのです。
今の私の方が、だらしなくて見習わなければという変貌ぶりだったのです。
ここから始まった、絶対に人に頼らないという信念。 
これこそがうつ病の最初の種だったのです。

【つづく】
 



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