「負けてない」は、負けた?負けてない? 自分が思っているように、相手が受け取るとは限らない。〜多義的表現の罠〜


先日のテレビの情報番組での発言。

誤入金された大金を、ネットカジノでスッって使い果たしてしまったとされる事件で、

レポーターらしき人が、

「負けてないんじゃないか」と言った。

これに対し、司会者が、

「負けてない?」と聞くと、

レポーターは、再び、

「負けてないんじゃないか、ということです」

と返した。

司会者は、ちょっと訝(いぶか)しげな顔をした後、

「負けて、お金はなくなってしまったということですね」

と発言し、レポーターも「そういうことです」と応じた。
(細かいやり取りは、記憶違いのところがあるかもしれない。)

司会者が、聞き返したり、訝しがった理由は、おそらく、レポーターの発言が、
「負けてはいない(だからお金は残っている)」
という意味にも取ることが出来たからだと思う。

後の件(くだり)のとおり、レポーターの真意は、
「負けたので、お金はなくなってしまった」
であった。

でも、「負けてない(んじゃないか)」は、取りようによっては全く逆の意味になってしまう。

話の流れがわからず、「負けてない」という音だけを聞いたら、普通、「負けてはいない」と受け止めるだろう。
文章なら「負けて、ない」とあれば、また違うかもしれないが、今回の場合は、読み点に相当する「間(ま)」もなく、聞いただけだとわからない。

恐らく、レポーターは、お金がなくなってしまっているだろうことを当然と思い、当然、聞き手も同じように受け取るだろうと、つまり、逆の意味に受け取ることなど全く想像もせずに発言したと思われる。
しかも、聞き返されても、そこに気づいていないようであった。

レポーターといえば、喋りのプロなはず。
アナウンサーほど体系的にトレーニングされていないと思うけれど、自分の発言を聞き手がどう受け止めるかは意識しているはず。
なのに、今回のようなことが起きてしまう。
司会者が聞き返したように、対面であれば、多義的な内容に打ち、どの意味かを確認することができる。
でも、これが一方通行のものだったら、それは出来ず、聞き手は迷ってしまう(それは一瞬かもしれないが。)。

多義的な表現は、どんな場面でも避けるべきでではあるものの、話し手が多義的だと意識していない場合は、そもそも、それは難しい。
自分の言葉が、多義的でないか、常に意識していないといけけないな、と思い返した一コマであった。

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