2023年7月19日

曇り。分厚い雲に覆われているにもかかわらず暑い。湿度の高さと相まってじとっっっとした暑さが何とも言えない不快感。これぞThe「日本の夏」。今年も夏が来たなって感じがする。


今日気になったこと

自分がnoteの存在を思い出したこと。

私自身、思っていることを言語化することが苦手。というか、とてもぼんやりした人間であるため、本当に何も考えていないことが多々ある。また、考えることが苦手だとも思う。会話をしていても頭の中が空っぽだと感じることが毎日だ。

そんな自分だからこそ、自分が珍しく自発的に何か思ったことは残しておいた方がよいのではないだろうか。と思った次第である。

そして、今日私が思ったことは、
「思ったことを随分昔にアカウントを作ったnoteで書けばよいのでは?」
ということだ。
なぜ、日記ではなくnoteかといえば、
アカウントがあるのに使わないのはもったいないと感じたから。
タイピングの練習。
それだけの話。

空っぽ

「会話をしていても頭の中が空っぽだと感じる」と自分で書いてみたものの、我ながら感覚的になかなかピッタリな言葉をあてはめられたような気がする。(自画自賛)

例えば、会話の最中、はた目から見たら相槌を打っているように見えるかもしれないがその実何も考えていない。

何も考えていないという状態は、相手が話している内容は何となく理解しているが、それに対して自分の意見、感想、感情が起こらない状態、また、それらを考えようとする思考が停止している状態である。と勝手に定義している。

これは、言葉が頭の中を上滑りしていくような感覚が原因ではないかと考えている。

人の話している言葉もきちんと聞いているつもりでも、脳の表面を通って消える感覚がずっとある。
自分自身の思考「何か言わなくては」ですら、消えていく。なんなら「言わなくては」と思っている時点で「何か」の部分はもう消えている。
どうにかして、言葉を捕まえなければと思い、曖昧な言葉をつかんでいる間に話は進む。焦る。しかし、焦りもまた、滑って消えていく。

そうこうしている内に、会話の中で自分のターンがやってくる。どうにか思いついた言葉から並べていくと、当然ながら、非常にわかりにくい文章が完成する。
国語のテストで、いくつかの短文があり「これらを論理的に正しい文章になるように並べなさい」といわれる問題があるが、私の場合、この並べ直す前の短文の並びで話すことに加え、言葉に詰まりながら話すため理解の難易度は天井知らずなことだろう。

幸か不幸か私の周りは頭の良い人間が多く、この支離滅裂な文章を何とか並べ直して、「つまり○○ということだね」と要約をしてくれて、やっと自分が言いたかったことがそれな気がすると思う始末。

しかし、言葉が出てくるときはまだよい方で、全く言葉が出ないときもある。例えば、先ほどまで聞いていた話に関して質問をされたとき、答えるために脳内の聞いた話やこれまでの経験を探そうとするのだが、何も出てこない。強いて言うなら「えーーーーーっと、なにもわからない、、、質問なんだっけ。」くらいのものである。まさしく思考の底辺。

何もない場所であたりを見渡している気持ちになり、すぅっと心臓が冷たいものでなぞられるような感覚になる。本当に何も思いつかないのだ。最終的には「えーーーーーっと」しか言えなくなる。

悲しいほどに自分の空っぽさがはっきりとわかる瞬間である。

自分の中にこれまで聞いた事柄や体験した物事を言語化して落とし込めていないから、空っぽなのだろう。そうした経験が少ないからきっと言葉も脳内で滑っていくのだと思う。

実際、台本を書き何度も練習した言葉を発するにはそこまでの苦労はない。台本を書く際に考えが整理され自分の中で理解できたことは、上滑りすることなく留まり、会話としても自然な形に変化させることもできる。

しかし、毎回台本を書くことは現実的ではないし、会話の話題は実に様々で即興で答えなければならない部分がほとんどである。

そこで、こうして考えたことをここに書くことによって、少しでも自分の中で整理をつけ、少しづつ自分の中の言葉を増やしていきたい。と今この文章を書きながら思った次第である。