奈良西大寺駅前にて

正午から二十分前程か。西大寺駅に到着した。
駅の改札を出るなり、警察と出くわす。やはり式典の警備がついているらしい。南口に向かい、階段上から外を覗くと、やはり大勢の人が、献花台に向かっていた。


階段上から、動画を撮り始めた。ただ、不特定多数の人が映るのは避け、ピンポイントでの撮影を心がけた。
階段降りると、自民党員の人が駅のロータリーから誘導をしていた。後は顕正会が街頭で活動していた。
ロータリーに沿って歩き、信号を渡ると、例の目印の花壇が見えた。その前にメディアが陣取っていた。カメラが動いていたのかは分からない。止まらぬよう促されていたこともある。
この辺りで一度、動画撮影を中断した。花壇は分かるのだが、余りにも風景が異なっていたからだ。花壇よりもガードレールと思っていたが、それがない。撤去されたのか?
誘導の自民党員の人に促されない所で、改めてネットで位置を確認するのに数分。

結局、花壇が2箇所見える位置に戻った。献花台に次々と向かう人々。彼らは何を思って献花台に向かっているのだろうか。
この辺りで私は区切りをつけることにした。

※その後のこと

ロータリーに沿って駅に戻ると、まだ顕正会の街頭活動が続いていた。
今まで、彼らの活動には特段気にすることはなかったのだが、この日に限っていえば、心地良く聞こえた。
それはあの「痛ましい空気」を破壊してくれる雑音に思えたからである。現地まで行って、感じたのは結局はそれでしかなかった。寧ろ、その様こそ、私には痛ましかった。
彼らと少し話をした。この日については、思う所があるらしい。自民党は邪宗に塗れた集団と。セオリー通りの話でしかなかったが。
一番、印象的だったのは、去る最後に言われた言葉である。厳密に言えば、その言葉に含まれていた三文字の単語。私も四半世紀、ずっと聞かされてきた三文字。「御奉公」
街頭活動する彼らに罪は無い。教義通り、否、全ての宗教は避けられない三文字である。
私はこの三文字を、否定する結論に至らざるを得なかった。だからこそ今の状態であり、今後もそうあり続ける。
この三文字を根絶させられば。あの銃撃事件も起きなかったに相違ない。

この三文字への私の態度は否定である。
しかし敢えてこの概念を用いた、皮肉な名言を知ったのも、この日であった。
石橋湛山は、山縣有朋が亡くなった時、こう述べたという。

死もまた社会奉仕

実に強烈。現地に行った私にとって、救いの言葉であった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?