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上手と下手のレヴュースタァライト①「私たちはともに」

はじめに

劇スの天堂・西條のレビューについて、双方の上手(かみて)と下手(しもて)という劇中の立ち位置に焦点を当てて書いていきたい。

この上手・下手の演出は、作り手の意図やキャラクターの状況に合わせています。
そのため、ある演出がそうある理由を自分の思うままにこじつけることもできてしまいます。
特に、説明をしない(誉め言葉)スタァライトは作り手の意図が∞だから何でも言える。
映像媒体やトークショーで古川監督の話を拝聴していると、劇場版の話をする時は、大体冒頭に「私の話が正解なのではなくて皆さんが感じたままが正解だから」という趣旨のことを言っていると思う。

このエッセーも同様なのでその点を踏まえて読んでほし。

あと、下記の上手・下手の法則を絶対として他のシーンを捉えようとしても上手くいかない場合もあるので、その点も注意。

定義

フレームの右から入ってきた人物が強い人物で、左から出てきた人物は弱い人。けれど左から入った人物は、いつかはガンバル人かもしれない。
正義の味方は左から入ってきて、右から来た悪漢をやっつけて、勝ったときに左に向いて右手に立ち、本当に強い人になる。

富野由悠季『映像の原則』(キネマ旬報社、2011年)51頁

ここでは、これに倣って、
上手(強者、悪役)
下手(弱者、主役)
と定義する。

「私たちはともに」

ACT1 序章

起 
天堂真矢、下手に立つ。
これは、天堂は99組では首席、つまり「最も演技のうまい人」なので“舞台”では主役の立ち位置。悪役たる悪魔に対峙する。

西條クロディーヌ、上手から入る。
次席なので悪役・ライバルの位置。

首席、次席という学園での実力差(=“実際”)を見れば、上手が天堂で下手が西條となるはず。
しかし、今は”舞台”の中なので、首席=主役=下手となる。
同じ理由で次席=悪役・ライバル=上手となる。
幕が上がった最初のカットで、この”舞台”・”実際”の2層構造を何の説明なく見せてくるのが劇ス。

ACT2 黒の悲劇 或いは、舞台人の無色なる願望

”舞台”の続き。
ほぼ徹底して天堂は下手をキープ。”舞台”に則って、最初は西條が優勢のようにふるまう。

ACT3 神真似を暴く、徒矢の如く

洋の東西や時代を問わないあらゆる”舞台”が次々に映し出されるが全て天堂は下手。
ところが、天堂が西條の星を弾き飛ばすシーンで初めて上手に立つ。悪役を倒した主人公は上手に立つ教科書通りの演出。
ちなみに上手であるし、階段の”上”段でもあるので、二重の意味でマウントを取っているあたり、天堂の悪いところが出てる。パンパンである。

対する西條も負けじと自分の腹を突き刺したあと、天堂の反対側の上位に出る。
天堂が下からせり上がり「愛も自由も敗者の戯言」とまるで悪役のようなセリフと共に”舞台”は崩壊する。

ACT4 わたしたちは ともに、


”舞台”の崩壊により、”実際”となって、上手に天堂、下手に西條と立ち位置が逆転する。
以降、ほぼこの立ち位置をキープし続ける。

一方で、剣を交えながらカメラが回って二人の立ち位置が逆転したり元に戻ったりといったシーンがあったりする。
最後二人が上下逆に横たわるシーンなどは、円を描いているようにも見える。ライバルのレヴューは終わらないようです。てぇてぇね。


で、
西條が天堂の星を弾き飛ばすシーンは、西條が下手のままである。
2重にマウントを取ってきた天堂とは対照的である。
これはどういうことか。

映像・舞台では、上述の定義のような演出をするが、例えば式典ものでは上手に立つのはエライ人だ。
つまり、リスペクトを向けた相手を上手に立たせる。

西條が憎々しいと思いつつも天堂に謙譲して、下手に立ち続けていると解釈すると非常に捗る。

おわりに

はじめにで言った通り上手下手は絶対不変の法則ではない。
ではないが、スタァライトはやたらとこの上手下手にこだわっているように見える。
今回は単なる立ち位置からせこせこと書いたが、次回は上手→下手への動きや下手→上手の動きに焦点を当ててみたい。

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