自我(エゴ)の紐を緩める

こんにちは、シャーマンの司です。

突然ですが、基本的に私たちの自我(エゴ)はカチコチに固まっている事をご存知でしょうか。

自我(エゴ)とは「思い込みの束」です。

そして、その束が多ければ多いほど、束同士の結束が強ければ強いほど
生きることが苦しくなります。


深い段階で言えば、思い込みとは自分が「山田太郎」や「田中花子」、「自分の名前」であるということも含まれます。

あなたはこの地球に生まれ落ちた瞬間から、「あなた」という名前だったでしょうか?

生まれた瞬間、あなたは何者でもありませんでした。
名付け親があなたを「⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎」と決めて、周囲があなたをそう呼んでいくうちに
徐々に何者でもなかった自分が「自分は⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎である」と認識するようになります。


空を飛ぶ鳥が自分の名前を把握していないように、名前とは本来生命活動には不要な物です。

例えば近所の鳥に「ピーちゃん」と名前をつけて、可愛がってあげていたとしても
その鳥は自分が「ピーちゃん」であることを知っている、知っていないに関わらず
相も変わらず、ただ鳥をしていることでしょう。


ピーちゃん


私たちは人間は成長していくにつれて、たくさんの自分以外のものを自分と結びつけていきます。

名前以外にも

「私は男である」
「私は女である」
と言った属性的なものから

または
「私は誰々の子供である」
「私は一般企業の事務員である」
と言った家族や所属に関するもの

または
「私は仏教徒である」
「私はエコロジストである」
と言った信仰や思想

または
「私は優しくて気が弱い」
「私は怠け者だ」
と言った性格的なものまで

なんでもなんでも、、、
私たちは様々なことを、無意識のうちに自分のアイデンティティの一部にしていきます。

アイデンティティの一部となったそれらは

拡張自我と呼ばれ、それが様々な苦しみの原因の種になります。


ここで間違えて欲しく無いのですが
拡張自我があること自体は決して悪いことではありません。

現にこれらがないと私たちは社会生活すらまともにできません。

しかし、その拡張自我が自分であるような錯覚があまりにも強いと
様々な苦しみや摩擦を生みます。

もし良ければ覚えておいてください。

自分の思想を否定されても「わたし」そのものは汚れも傷つきもしません。
自分の性格を否定されても「わたし」そのものは汚れも傷つきもしません。
自分の国を否定されても「わたし」そのものは汚れも傷つきもしません。
自分の名前を否定されても「わたし」そのものは汚れも傷つきもしません。

それらは「わたし」そのものではありません。



この人生において様々な思い込みやカルマの殻を開いていきましょう。
その中にあるのはきっと見た事もないような綺麗な真珠です。

それはきっと皮を剥ぐような苦しい作業になると思いますが、見返りはたっぷりあることだけは保証します。

殻を脱いだ先にあるのは、なんの制約もない、なんの影響も受けない、完璧な静寂に満ち溢れた「わたし」そのものなんですから。



シャーマン司

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