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いろはにほはねと


濃茶 #82ae46

 
「じゃ、次この問題」
「はい」
 上月凌、十五歳。一人っ子。少しおっとりした性格だ。授業中は燎の話を真剣に聞いている。宿題を出すときっちりやってくる。素直で真面目だと思う。
 ただ母の馨に対しては若干反抗期のようだ。燎の前で馨に世話を焼かれるのが恥ずかしいらしく、抵抗しようと試みるのだが、結局は母親の押しの強さに負けて仕方なく従うというのを毎回繰り返している。
 基本的に口数は少なく、燎の問いかけには答えるが、積極的に話しかけてくることはしない。比較的得意な科目は化学、とくに苦手な科目は現代文。他に苦手なのは運動と何故か祖母の迪――。これがひと月、凌や上月家を観察してわかったことだ。
 そして上月家は江戸時代中期から続く香道の家元の家系だった。さらに香道具の店、偸閑堂もやっている。ユカンドウと読むらしい。当然ながら凌はこれらを継ぐようである。
 思わずため息が出た。凌は手を止めて燎を見上げた。真っ直ぐに見つめてくる。何も知らないとわかってはいるが、なんだか心の中を見透かされているようで、正面から見返すことは燎には難しかった。
「ごめん、ちょっと考え事してたわ。そのまま続けて」
 ハッとした。もしかして凌は、自分のデキの悪さにため息をつかれたと思っただろうか。悪いことをしてしまった。そんなことはない。ここまでよくやっていると思う。
「ちょっとトイレね」凌は問題を解きながらこくりと頷く。
 燎は部屋の隅に置いていた自分のリュックを引き寄せ、中から菓子箱をそっと取り出した。型崩れしないようにノートパソコンとテキストで挟んでいだ紙袋を広げる。ちらっと凌のほうを見たが、問題を解くのに集中しているようだ。
 九月に入っても週三日のペースで授業を続けていた。凌は部活に入っておらず、午後五時から授業を開始すれば何の問題もない。時には中学時代まで遡って復習しながら進めていた数学と英語だったが、学校の一学期の授業範囲はもうすぐ終わりそうだ。
 燎たち大学院生はまだ夏休みで、自分の研究も当初の予定より前倒しで進んでいて時間的に余裕がある。完全に追いつくまでは、なるべく詰めて授業をやりたい。追いついたら週二日にしていいと思っている。
 ここまで順調だし、ちょうど一か月も経ったので、今日は来る途中で抹茶の焼き菓子を買ってきた。馨のおいしい夕食へのお礼の意味もある。燎は紙袋を提げて階段を降りると居間のドアを開けた。
「馨さーん、食後のデザートを持って…」
 居間を抜けて食卓を覗くと、“熊”が食事をしていた。熊は燎を見て、ギョッとする。燎には熊の表情を見分ける能力はないはずだ。よく見ると熊のような大男だった。燎は声を上げそうになった。だがすぐに我に返ってあいさつした。
「凌君の家庭教師の藁谷燎です」
 熊、のような大男はご飯を口に入れたばかりで、しゃべれない。口をもぐもぐさせるだけだ。なんだか気まずくて会釈すると立ち止まることなくキッチンに向かった。馨はいない。馨にわかるように紙袋を置くと、燎はなるべく熊を見ないように居間を出た。
 部屋を出る口実だったのだが、落ち着くためにトイレに入った。
「下に男の人がいたけど…」戻って凌に聞いてみた。危うく“熊”と言いそうになった。
「父さ、父です」
「あ、そう」馨の遺伝子の完全勝利だと思った。
 凌の父親とこれまで一度も会わなかったのは、てっきり帰りが遅いからだと思っていたのだが。
「今日は帰りが早かったのかな?」
「うーん、遅いときもあるけどだいたい七時くらい。あ、今日は土曜だから休みです」
 凌の父親は刑事だ。事件でも起きれば遅くなったり、休日出勤したりすることもあるだろう。でも普段はそうか、午後七時くらいに帰って来るのか。いや、でもそれはおかしい。ここに来たらいつも七時すぎから夕飯を食べていた。先月一度も出くわさなかったのはどういうことだろう。
「先月は仕事が忙しかったの?」
「どうかなぁ。知らないです」凌はあまり興味がなさそうだった。
 
 結局この日の夕食も燎と凌、馨のいつもの三人だった。
「先生、お菓子ありがとう」
「いえいえ、いつもご馳走になってばかりなので…」
「あんまり気ぃ使わんといてね」馨は口ではああ言っているが、顔は嬉しそうだ。
 でも夫のことには触れようとしない。菓子折りが燎からのものだと知っていたので、夫とその話をしたはずだ。
「さっきはちょっと店に顔を出してたから…」許嫁や燎の父の失踪と同じく、凌の前では話したくないということだろうか。
 あれこれ考えながらだったせいか、食事もそのあとのデザートも味は楽しめなかった。人気の店で並んで買った焼き菓子だったのにもったいないことをしてしまった。
 凌と馨が玄関で見送ってくれる。外は少し風があった。これなら自転車を漕いでも、汗をかかずに済みそうだ。駐輪場で自転車に乗ると、千本通の坂をゆっくりと上り始めた。
 
 寮に着いたのは午後十時少し前だった。玄関でスリッパに履き替える。食堂の明かりは点いていたが誰もいなかった。学部生はほとんどがまだ帰省中で、今寮には十人もいない。
 テーブルに荷物を置いて、カップ式の自動販売機でカフェオレのボタンを押した。カップがセットされて氷が勢いよく落ちてくる。コーヒーが注がれている間に戸締りをしようと振り返ると、水上智絵が燎に手を振って、玄関に向かって消えた。施錠する音が聞こえる。智絵は食堂に入ってくると、自分もコーヒーを買って燎の向かいに座った。
「戸締りありがとう」
「帰って来るのが遅いよ、不良め」部屋の時計を指差しながら言う。
「なんか疲れたわ」燎はついテーブルに突っ伏してしまった。
「今日は家庭教師よね?生徒に何か問題?」
「ううん、生徒は本当に素直でいい子だから問題なし。それ以外のことでちょっとね」
「ふーん、許嫁君は今のところ合格点なのかぁ」
 燎は食堂の外を警戒して、智絵を睨んだ。智絵はお構いなしといった風で、芝居じみた音を立ててコーヒーをすすった。
「あー美味しい。この時間はもう誰も部屋から出てこないから、大丈夫だって」
 燎はため息をつきながら、テレビのリモコンボタンを押した。旅番組のようだ。旅人の紹介映像が流れている。
「あ、この人、あのわらしべ長者じゃない?」
 燎も見覚えのある顔だった。ネットの物々交換で有名になった男性だ。百円均一ショップで買った腕時計からスタートして、サイト上で交換を呼びかけ、取引が成立するたびにSNSで報告していた。
 最初はこれと言って話題にならなかったが、あるとき急に潮目が変わる。きっかけは、数万円するレアなトレーディングカードと掛け軸を交換したことだった。その様子を動画で公開すると、掛け軸を見た視聴者が大家の作品じゃないかとコメントした。数百万円の価値があると騒ぎになったので、次の動画では真偽を確かめるために鑑定してもらったところ、掛け軸は贋作で全く価値なしだということがわかったのだった。
 智絵はテレビが見やすいように、燎の隣に椅子ごと移動してきた。燎も少し横にずれてやる。旅人紹介は続く。
 振り出しに戻ってしまって、彼には同情や詐欺を疑う声が多数寄せられたらしい。しかし彼は、交換相手を選んだのは自分自身だし家の蔵に眠っていた由来が不明の掛け軸だと最初から聞いていた、と相手を完全擁護した。その人柄に好感を持つ人が多く、これを機に物々交換に協力する人がどんどん現れたのだった。
 その後、最終目標としていた高級車に到達するまでは、あっと言う間だった。達成したのはつい先月の話だ。
 物々交換品が順調に出世していく歴史の紹介が終わり、いよいよ旅が始まるようだ。山あいの村が目的地とある。旅自体に興味はないようで智絵は、椅子を元の位置に戻した。燎もそれに倣った。
 一連の動画が話題となり、彼は現代のわらしべ長者として一躍有名になった。燎も動画を何本か見ている。再生回数は今でも増え続けていると聞く。彼は時の人となり、今日のテレビ番組のようにメディアに引っ張りだこだ。そしてこの舞台となった物々交換サイトの人気にも火がついて、利用者数がうなぎのぼりだということもニュースになっていた。
「私もわらしべ長者になれないかな」
「何言うてんの。そんな甘ないって」多分彼の真似をしている人はすでにたくさんいるはずだ。もう彼のような成功を収めるのは難しいのではないだろうか。
「みんな帰ってきてる?」
「うん、さっき確認したよ。ガガちゃんも帰ってきたし入力したら終わり」燎は周りから“ガガ”と呼ばれている。
「了解。ありがとう。さて、部屋行こか」
 
 現在、この寮に住み込みの管理責任者はいない。先代の寮母は今年の春から高齢の母親の介護をするため、業務に専念できなくなった。以前は夫と住み込みで寮の管理をしていたが、十数年前に夫が亡くなってからは寮母が一人で寮生の面倒を見てきた。燎も寮母には随分と世話になった。
 今年の初めに寮母から相談を受けた大学だったが、女子寮の管理者という特殊な仕事のため適任者をすぐには見つけられずにいた。小田倉からそのことを聞いた燎は、すぐに他の寮生とともに動き出すことにした。せっかく大学院進学が決まったのに、寮生活を乱されるのはご免だったからだ。
 これまで寮母が毎日作っていた朝食と夕食の手配が最大の懸案だったが、寮生がつてやアルバイト先に働きかけて、仕出し料理屋とおばんさいの店から格安で食事を提供してもらう約束を取り付けた。また気分転換にちょうどいいからと先代寮母が定期的に清掃業務に当たると申し出てくれた。共用部分の日々の掃除やその他の雑務は寮生の手を借り、アルバイト代という形で還元すればやっていける。食事代、先代に支払う謝礼、アルバイト代が寮運営に必要な経費になると大まかに予想することができた。
 寮母の通常業務のほとんどを引き継ぎ、費用も寮母に支払われていた給料よりも少なく抑えられる見通しが立って、燎たちは大学に新年度からの寮の運営案を提出した。それを受けて大学は、院に進むことが決まっていた当時四回生の寮生に寮管理の業務委託を決定した。希望者を募り面接を経て、燎と智絵を含む三名が寮長代理に任命された。代表には燎が選ばれた。
 ある程度忙しくなることは、燎も覚悟の上だったが、慌てて余計な仕事を増やしてしまわないように準備だけは万全にしておきたい。そこで他の寮長代理とともに、春休みに業務の改善やシミュレーションを行なった。
 日報と毎月の収支報告は理系女子の本領を発揮して簡単なシステムを構築後、アプリと連携させてスマホで操作できるようにした。設備の故障など何か問題が起きれば、業者を手配して立ち会えばいい。よく考えてみれば燎が入寮して五年、近隣との揉め事含め面倒なトラブルなんて起きたことがない平和な寮だったと気づかされた。
 防犯対策にしても、女子専用なのでもともとオートロックである。夜に帰寮と施錠の確認をすれば、防犯セキュリティの作動ボタンを押すだけ…とふたを開けてみれば、寮長代理の仕事はびっくりするほど燎たちの負担にならなかった。
 三人合わせて住み込みの寮長(母)相場の四分の一程度の給料が支払われることになったが、仕事量を考えればむしろ多すぎるくらいだった。三人は話し合いそれらをプールし、寮のために使うことにした。
 先代寮母は寮から徒歩すぐの家に住んでいるので、何かわからないことがあればすぐに教えてもらえるのも心強かった。
 新年度から大きな変化のあった藁谷燎の生活だったが、とくに問題もなく過ぎていった。そして夏に上月凌と出会ったのだった。

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