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いろはにほはねと

生写真 #006888

  
「おい、何寝てん?」
 燎は目を覚ました。いつの間にか眠ってしまったらしい。朝、実験の準備で早起きしたせいだ。
「何寝てん、おい!」
「おい!」
 振り向くと食堂の入り口に、見慣れた顔が並んでいた。水上智絵と今藤蛍(けい)だ。二人ともニヤニヤしている。
「ポタぁ、あんたを待ってたんやろ!」
「ガガ姐、うそやんか~」
「ほんま口悪いなぁ」
 ごめん怒らんといて~、と謝りながらベタベタ甘えてくる。
 蛍は工学研究科修士課程一年、燎たちと同じ院生だ。ただ彼女は現役合格なので、一浪の燎や智絵より一つ下になる。そしてここの寮長代理を務める三人のうちの一人だ。
「関東遠征お疲れ様でした」智絵が三人分のお茶を持ってくる。
「ところでなんで智絵も一緒やったん?」ありがとうとお茶を受けとり、ひと口飲む。
「いきなり、ポタちゃんが京都駅に迎えに来いって…」不服そうに蛍を指差す。
「荷物いっぱいでしんどかってんもん!」
 智絵はいわゆる、いいところのお嬢様だ。自分専用の車を持っている。メタリックオレンジのスポーティーなドイツ車だ。もちろん親からの誕生日プレゼントである。
 その車は、寮で必要なときは他の寮長代理も自由に使ってよいことになっている。代わりに寮の駐車場使用が許可されていた。智絵は夜遅くにいきなり蛍に呼び出され、渋々愛車で迎えに行ったようだ。
 そう言えば、さっき智絵も両手に荷物を持っていた。あれは蛍のだったのか。それらは今、隣のテーブル脇に並べられている。
「ガガ姐、お土産いっぱいあんで~」燎の視線に気づいて、蛍が荷物をほどき始めた。
「これが学会で行った横浜の…」
 蛍は情報システムの分野で将来を嘱望された逸材だ。洛北理科大の次世代の教授候補と目されている。学会でも有名人らしい。この“甘えた”がそんなにすごいとは燎には到底信じられなかった。
「たくさんあるね。食堂に置いといて皆につまんでもらおう」智絵は土産でいっぱいの紙袋をうれしそうに抱えて、調理場のほうへ消えた。
「そんで、こっちがメイン」よっこらしょとキャリーケースを持ち上げゆっくりと開いた。
「頼まれてた生写真」ライブグッズと写真入りの封筒をテーブルにきれいに並べていく。
 蛍はある女性アイドルグループの大ファンだ。筋金入りの“ヲタク”と言える。蛍のたゆまぬ布教活動により寮には信者、つまりファンが多い。蛍ほどではないが、燎も智絵も沼にハマっている。
 今回、蛍は九月初めの横浜の学会に出席したあと、第二週から第四週の週末に開催されたそのアイドルグループの東日本各地のライブツアーに参戦していた。
 その間ずっとホテル暮らしだったはずだ。実家が金持ちだという話は聞いたことがない。そんな費用をどこから捻出しているのだろう。
「なんか着替え少なくない?」一か月の旅なのに荷物のほとんどが土産やライブグッズだった。
「三日分もあったら着回しできるで。あとは現地調達してるから」
「買ったのはどうしたん?荷物にないやん」
「帰って来る前に古いのは捨てたけど」事もなげに言う。
「あんた、そんなお金どこにあんの?ライブのたびにいつも疑問に思てんねんけど」
「ライブに向けてずっと貯金してんの!危ない仕事もやってるしな。いつも警察と戦ってるし…」とニヤッと一瞬悪そうな顔をしてファイティングポーズを取った。はぐらかされて、燎はそれ以上問い詰める気が失せた。
「それで、ライブはどうやったん?」
待ってましたとばかりに、蛍は身を乗り出す。
「もうな、すごかったで!ライブは毎回毎回、前回を越えてくんねん。メンバーがどんどん成長してるのが、めっちゃわかるんよ。ダンスもセットリストも演出も、先週見たのとちょっとずつ違うねん。良うなってんねん。でもな、そやから言うて先週のがおもんないのかって言うたら、そうと違うわけよ。みんな毎ステージ全力でやってるから、私らも毎回満足できんねんな。そんで次はもっとすごいねん…」伝われへんよな~、とうまく言葉にできないのを悔しがっている。
「でもな、今回私思ったわ。推しててこんなに幸せ感じられるグループあるか、って。ここ一、二年はほんまにええ雰囲気やわ。なんか幸せ過ぎて震える」
 そう言った蛍は、本当にうれしそうだった。
 ファン歴は一年と浅いが、燎も智絵もグループのこれまでの道のりや、蛍のグループに対する熱い思いをしょっちゅう聞いている。
 燎は見てもいない今回のライブの感動を、蛍と共有できている気がした。変に飾らない真っ直ぐな表現の言葉に、智絵もうるうるしている。きっと同じ気持ちだと思った。
「これやから、このグループ推すのをやめられへんねん!」
 蛍は残念なくらい言葉を知らない。高校時代の夏休みに短期留学した経験しかないのに帰国子女だと言い張る。そう言わないと辻褄が合わないほど語彙力が乏しい。中学生並みだ。今みたいに興奮すると、小学生以下になってしまう。なのに思いだけは十分伝わるから不思議だ。
 そう言えば大学入試の国語もひどかってんと笑っていた。しかしそれでも洛理に現役で合格して、今では将来教授になることを期待されている…。
 だからきっと凌も大丈夫だ。燎は確信にも似た自信を持った。ひとつくらい苦手教科があっても、どうってことはない。
 ま、でも私は国語もできるようにするけどね、と脳内ではすかさずツッコミを入れていた。
 
 生写真の開封イベントでひとしきり盛り上がったあと、蛍は急に燎と智絵に向かって姿勢を正した。
「ガガ姐、智絵ちゃん、一か月もの間、寮の仕事を任せっきりにしてごめんなさい。これからは精一杯頑張ります」
 燎と智絵は吹き出した。
「ポタ、柄にもないことをしない」
「そうよ、大して忙しくなかったしね」
「そうなん。良かったぁ」
「あんたはそんなん気にせんと、私らにイジラれてたらそれでええの」
「イジラれキャラはガガ姐のほうやんなぁ、智絵ちゃん」二人で笑っている。こんなこと、お互い様だ。燎も二人に頼らないといけないことはたくさんある。
 それでも、言葉にして感謝の気持ちを伝えてくれるのは嬉しかった。
「でも昨日は帰寮がピークで大変やったなぁ。智絵と“たった二人”でずっと受付してたからなぁ」
「晩ごはん食べたの九時過ぎてたもんねぇ」
「ほんまや、ペコペコで死ぬかと思たわ」
「どっちやねん!今、気にせんでええ言うたやんか。ええい、肩でも揉みましょうかね、お姉さま方?」
「あ、そう?なんか無理に頼んだみたいで悪いわぁ。そしたら智絵から揉んだって。私は腰のマッサージ頼むわ」
「おう、あとで思いっきり踏んだるわ」
 これで寮の運営も完全に通常に戻った。明日から十月だ。
 


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