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いろはにほはねと

テレビのリモコン #f3f3f3


 燎はバスを降りた。小田倉に教えてもらった住所はすでに地図アプリに登録済みだった。と言っても、目印のお香の店がバス停の目の前だったので、地図に頼るまでもなかった。千本通に面した立派な店だ。
 『西陣 偸閑堂』と書かれた大きな看板が掛かっている。何と読むんだろう?自転車で行くなら店の駐車場に停めるようにと指示されていたので、次に来たときのために店舗の脇にまわってみると、駐車場の一角が駐輪場になっているのがわかった。そのままぐるっとまわり込むと、店の裏が住まいになっていた。
 事前に聞いていた通りだ。上月の表札を確認する。約束の時刻の少し前だ。ちょうどいい。燎はインターホンを押した。
 父と同世代の女性が迎えてくれた。父の親友という人だろう。つまり許嫁の母親ということになる。そう思うと一気に緊張した。だが女性は至って平然としている。女性は燎を居間へ案内すると、ちょっと待っててね、と言って出て行った。
「しのぐー、先生来はったわよー」二階にだろうか、声をかけた。
 間もなく女性が盆に冷たいお茶を載せて戻ってきた。後ろに少年がいる。制服姿だった。腕は日に焼けていたが、首元は白い。母親に似て色白のようだ。燎は立ち上がり、こんにちは、藁谷ですとあいさつした。
「先生、背ぇ高いですねぇ。170cmくらい?」女性は今気づいたように尋ねた。わざと少年に聞かせているようにも感じる。
「169です」
「しのぐは162cmやったっけ?」
 うん、と少しそっぽを向きながら答える。高一男子の身長ってどれくらいだっけ?高校時代の記憶を辿る。ちょっと小柄かも知れない。それにまだまだ幼さが残る顔立ちをしている。少年は女性の隣に座った。息子の凌です、と少年を紹介した。
 母親曰く、おっとりした性格で、部活はしていないらしい。成績に無頓着なので心配だ。できれば洛理に行ってほしい、というのが家庭教師を依頼した理由だった。そのあとも母親が一方的に少年の話をして、それが終わると一方的に燎に質問した。
 その間、少年はときおり長めに目を閉じることがあった。眠っているとか話に興味がないというのではなく、精神を集中しているといった感じがする。まるで瞑想でもしているようだった。
「それじゃ先生にお願いしていいよね?」母親が少年に尋ねる。すると少年は顔を上げ、燎をしっかりと見つめた。
「よろしくお願いします。」頭を下げる。
 紹介なのでよほどのことがない限り、燎で決まっていたはずだ。少年にしてみれば家庭教師が誰かなんて、自分の意見は反映されないことになる。だから不満気で投げやりな態度になってもおかしくはない。
 でも少年はしっかりと燎を見つめて、自分の意思を伝えてくれた。少年に気に入ってもらえたような気がして、燎は少し嬉しかった。
 
 母親の提案で、今の実力を知っておくために、急きょテストをすることになった。燎は何も準備していなかったので、少年が普段使っている数Ⅰのテキストの章末問題をさせることにした。
「先生、時間はどれくらいにしはります?」
 ざっと問題を見ると、数学が得意なら三十分もあれば十分だろう、でも彼はそうではなさそうなので一時間に設定した。
「そしたら六時二十五分までやね。時間までしっかり考えるんよ」掛け時計を見ながら、少年に発破をかける。燎も、途中の計算式も書くように、とだけ念押しした。
 母親は、少年を居間から送り出し、階段を登って自室に入るのを見届けてから居間のドアをゆっくりと閉めた。テレビをつける。夕方の情報番組をやっていた。
 百円均一の腕時計が、四か月あまりでとうとう高級自動車になりました。現代のわらしべ長者、目標達成です!――音量を少し大きくする。もう一度、ドアを開けて二階の様子を伺ってから、ゆっくり燎の前に立った。
「今まで連絡せずにごめんなさい!」と謝った。燎は突然のことで驚いた。
「えっ、どういうことですか?」
「優君、いえ、小田倉君から聞いてない?私たち、あなたのお父さんととても仲が良かったの」
「はい、それは聞いています。でもそれと連絡どうこうとは…」
「ううん、違うの」燎を遮ってきっぱりと言った。
「藁谷君がいなくなったって聞いたとき、何が何でもあなたを助けに行くべきだった…何を差し置いても、親友のピンチに駆けつける、それが当然の関係だったのに…それなのに、小田倉君に任せっきりになってしまって…」少年が隣にいたときとのあまりの変化に面食らった。だが返って、今日はここまで表面的に無理していたのだということが想像できた。
「私の夫の上月十三は西陣署の刑事なの。そして私、小田倉君、藁谷君の四人は洛理の理学部の同級生で大親友だった。小田倉君から事情を聴いたとき私はとても驚いたわ。身近な人の身にそんなことが起こるなんて考えたこともなかったから。それでも夫は、必ず藁谷を見つけてやるって意気込んでいた。だけど成人男性の失踪人探しについては警察は消極的らしくて…。藁谷君の場合も事件性はなかったって言ってたし。つまり自分の意志で消えたのなら、仕方がないってことらしいのね。でも藁谷君は理由もなく、娘を一人にしていなくなるような無責任な人では絶対にない。それは私達三人ともそう思ってる。だからまず見つけ出して理由を聞かなきゃ、娘のあなたに説明させなきゃって…。結局署では夫一人だけが無理言って担当させてもらうことになったんだけど…私も夫の気持ちを尊重してあなた達を再会させることを最優先にした。でもそれが四年経っても見つからないなんて…。本当にごめんなさい。」
「いいえ、気にしないでください。でも父のことを大事に思ってくれてありがとうございます」
「必ず見つけてあなたに会わせてあげるんだって、夫はずっと手がかりを探してる。だから多分今は、あなたには合わせる顔がないと思ってるはずよ。もしかしたらあなたとは距離を置こうとするかも知れないけれど、それは許してあげてね。」
「はい、わかりました」
「でもね、今回の家庭教師のことで、やっとこうしてあなたとお話しする大義名分ができたような気がするの。これで堂々と会えるものね。これからは私達のことを頼ってちょうだい。親友の娘は私達の娘も同然よ。小田倉君もそうだったでしょ?」
 もう卒業して三十年近くになるのに、この絆は何なんだろう?この人たちはどんな学生生活を送ったんだろうか?
「それに凌とのことは小田倉君から聞いてるんでしょ?」なんだか急に意地の悪い顔になったような気がした。
「実際に近い将来、“義理の娘”になるんだから、ね?」にこっと笑う顔に燎は身震いした。
「凌には大学に合格したら伝えるつもりなの。だから燎ちゃんもまだ言わないでね!」
 そこには有無を言わせない雰囲気があった。燎はただ、はい、と答えるだけで精いっぱいだった。

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