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いろはにほはねと

プロローグ #000000


  商店街に面した入り口からは想像できないくらい落ち着いた雰囲気の店内に、なんだか場違いな空間に来てしまったと少女は急に不安になった。連れて来てくれた友人は、そんな少女にお構いなしにどんどん奥に進んでいく。ガラス張りの中庭まで見えてきた。まるでお寺の石庭だ。
「ちょっと、ここ大丈夫?」
「これが京都どすぅ」少女が焦っているのを知ってか、振り返ってにこにこしながらわざと舞妓さんみたいな口調で答えるのが憎らしい。
 確かにここは日本全国にあるコーヒーチェーンの店だ。喫茶店に中学生が入ってはいけないということはない。でもそれが京都店ともなると、風情のある和テイストの仕上がりになるようだ。すると一気に高級感が増してくる。
 さすが京都だと少女は感心した。
「このお店はたまにママと来るねん。ここにしよ」
 友人は迷いなく席を選んで店員さんを呼ぶ。二人はカフェインレスのアイスミルク珈琲を頼んだ。その間も彼女は慣れた様子で堂々としていた。それを見ると、自分はまだまだお子様なんだと痛感させられてしまう。
 昨日は志望校のサマーオープンキャンパスに行った。中学二年生なので一年早いが、学校のことをよく知りたかったし、夏休み開催のおかげでしばらく京都にいられるのもあって、少女は迷わず参加申し込みをした。そしてその中等部に通う彼女に声をかけてこの二日間付き合ってもらったのだ。
 今日は寺町の商店街でお土産を買い、スイーツ巡りをした。プリクラも撮った。少女にとっては小学四年生のときに転校して以来、久しぶりの京都だった。そして小学一年生からずっと同じクラスで一番仲が良かったのが彼女だった。
「高等部、良かったやろ?」
「うん」
「そっかぁ。楽しみやなぁ。また一緒の学校に通えるんや」
 転校は少女にとっても突然のことだった。いつも一緒にいた彼女にさえ別れを告げられぬまま京都を離れた。何の音沙汰もないまま三年以上経過して突然連絡したにも関わらず、彼女は喜んで少女を迎えてくれた。昔と変わらぬ気さくさで少女は、本当にうれしかった。
「うちの入学試験けっこう難しいけど勉強してんの?」
「うん。受験までまだ時間はあるし、担任の先生も今のままならいけるって」
「すごいなぁ。うちは今の実力やったら絶対受かれへんと思う。中学受験頑張っといてほんまに良かったわ」
 これだけはママの言うこと聞いといて正解やったわ、ほんまに感謝と言いながら天井を見上げて両手をすり合わせている。
 涼しい店内で少し休んだあと、二人は喫茶店を出た。商店街をゆっくりと市役所方面に向かう。夕方も近い。そろそろ彼女ともまたしばらくお別れだ。また高校でね。
 
「これ本能寺やで、知ってた?」商店街の出口がもうすぐのところで、彼女が右手に現れた表門を指差した。
「こんなとこにあるの?」さすがに有名な寺なので少女も驚いた。
「そやねん。本能寺の変のあとここに移ったらしいで。うちも去年、歴史の授業で習って知ってんけどな」
 ちなみに寺の歴史などが書かれた紹介看板のことを駒札と呼ぶことも、自慢げに教えてくれた。これも授業で習ったらしい。ちょうど今、駒札の前にはスーツ姿の女性が立っている。たくさんの白無地の手提げの紙袋を足元に置いて、スマホをいじっている。
 あんなにたくさんの紙袋をどうやってここまで運んだんだろう。案外他にも人がいて、戻って来るのを待っているのかも知れないな。
 御池通との交差点に到着した。商店街はここで終わる。少女はこのあと母と合流する予定になっていた。
「そしたらうちはお稽古行くわ」
「昨日も今日もありがとう。帰ったらメッセージ送るね」
「うちも送る。受験勉強頑張りや。高等部で“待ってるで”」これ以上元気の出る言葉はないと少女は思った。
「うん。頑張る。ありがとう。じゃあね」
 別れたあと、母に頼まれていたお土産を買うためにすぐ近くにあった和菓子屋さんに入った。季節の生菓子を店の人にいくつか見つくろってもらった。店を出て時計を見ると待ち合わせにはまだ時間があったので、少女は気になっていた駒札を見に本能寺に戻ることにした。
 駒札には、本能寺の変後ここに移された経緯が書かれていた。移転後も火事で二度焼け落ちてしまい、昭和の時代に再建されたとある。歴史上の舞台が身近にある京都は素敵だと思う。こっちに帰ってきたら歴史の勉強も楽しくなりそうだ。
 ふと足元に白いものが見えた。駒札の前には背の低い石でできた柵があって、その内側に白い紙がもたれかかっていた。A4サイズのノートよりもひとまわり大きい封筒だった。拾って確認してみると表の下部分には、京都製薬株式会社と印刷されている。ロゴの他に本社や営業所の連絡先一覧も載っている。
 さっきのスーツの女性のものだろうか?少女は駒札の前にいた紙袋いっぱいの女性を思い出した。紙袋を持つのに一生懸命になりすぎて封筒を落とす様子がなんとなくイメージできて、思わず笑ってしまった。どうしよう、交番に届けるべきだろうか。
 少女もその京都製薬のことは知っている。京都にいた頃は毎日テレビCMで見かけた、京都を代表する大企業だ。スマホで調べてみると本社は御池通沿いにあるらしい。ここからなら歩いて行ける。落とした女性のことをおまわりさんにうまく伝える自信は、少女にはない。少し迷って、結局直接届けることにした。さっき堂々としてかっこいい友人を見たばかりだ。自分もしっかりしなければ。
 
 京都製薬本社ビルはすぐにわかった。入口の自動ドアを抜けると大きなロビーが広がっていて、正面奥に受付が見える。事情を話して封筒を渡すと、受付の女性は中身を確認してどこかに電話した。
 しばらく待っているとさっき本能寺にいた女性が走ってやってきた。封筒の中を覗くとほっとした表情で大事そうにそれを胸に抱きしめて、今にも泣きだしそうな顔で少女に礼を言った。少女はすぐに帰りたかったが、引き止められ半ば強引にエレベーターに乗せられた。エレベーターの中でも何度も礼を言われた。女性は、澤部と名乗った。エレベーターを七階で降りて、澤部さんに仕方なくついて行く。途中、澤部さんが持っていたのと同じ白無地の手提げ袋を見かけた。首から下げる青色の長いストラップが付いた名札入れの束がちらりと見えた。通されたのは応接室だった。
 お尻がぐんと沈み込む柔らかいソファに居心地の悪さを感じていると、ノックとともに別の女性が入ってきた。
「こんにちは」軽く会釈しながら、封筒を手に少女の正面に座る。続いて入ってきた澤部さんは急いで冷たいお茶を少女に出すと、その女性の隣に座り小さくなってしまった。正面の女性が名刺を出した。人事部課長と書いてある。
「この度は拾って届けてくださって本当にありがとうございました」立ち上がって深々と頭を下げる。少女は、そんな…気にしないで…としどろもどろになってしまった。
 課長さんの話によると、研修で使う資料や備品を外注していたがどうしても急ぎで必要になったため、納品日より早く澤部さんに商店街まで取りに行ってもらったのだそうだ。ただ想像していた以上に荷物の量があったようで、一人で行かせた上司である私の責任だ、と課長さんは澤部さんにも謝った。
「名札が入っていたの」中身を出して澤部さんに渡した。
「確認をお願いします」
「はい」澤部さんは名札の束を受けとり、名簿らしき書類を使って一枚ずつ照らし合わせ始めた。確認したらボールペンで名簿にチェックを入れて、名簿の脇に名札を重ねていく。名札には顔写真と名前以外にも文字が書かれているようだが、少女からははっきりとは見えない。
「この名札はとても大切なもので…」課長さんは言い淀んで、続けるのをやめた。
「これがもし誰かに悪用されたりしたら、私がクビになるくらいでは済まないところでした。だからあなたが親切に届けてくれて、本当に感謝しています」
 確認の済んだ名札が徐々に積み上げられていく。名簿はA4用紙で二枚、もしかしたら三枚あるかも知れない。名札の束は百人分くらいありそうだ。ただ名札は元々名簿順に並んでいるようで、さほど手間取ってはいない。それに上司と少女を待たせている緊張感もあるのか、チェックはスピードを最優先にしているのがわかる。その代わり、積み上げる作業のほうは少々雑だ。少女はその様子を見ながらあぁ、くずれそう、とやきもきし出した。
 澤部さんは二人の会話がそろそろ終了しそうな空気を感じて、もう少しで終わります、と言いながら一瞬顔を上げた。そのせいで手元が狂い、積みあがった名札の端を指先ではじいてしまった。名札の山が少女のほうに崩れる。
 上のほうの数枚は勢いがついてしまい、少女の足元にまで飛んできた。少女は水滴で濡れてしまわないように、急いで冷たいグラスを移動して足元の名札を拾い上げた。
 課長さんに渡そうとしたとき、少女の目の前がふいに揺れた。課長さんが視界から消えていく。澤部さんが立ち上がって、自分に何か言っているようだった。少女は意識が遠のいていくのを感じながら、自分の体がお茶のグラスに当たってこぼしたりしませんようにと祈っていた。

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