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いろはにほはねと

レモン #e3e548

 
 翌日、小田倉から夕飯招待のメッセージが来た。智絵も誘っていいか尋ねてみたが、一人で来るようにと返ってきた。
 小田倉からの返信画面を見せると
「ガガちゃん、これは許嫁問題だね」智絵は一人で勝手にうんうんと頷きながら燎の肩を叩く。
 燎も全く同じ意見だった。そして嫌な予感しかなかった。 
 
 約束の時刻に訪ねると小田倉夫妻が玄関で迎えてくれた。約ひと月前にも見たような光景だ。夕食はいつも通りだった。これも同じだ。ただ今日の小田倉は食後に酒を飲まなかった。前回よりは落ち着いているように見える。
「上月の家庭教師はどうだい?」
「順調です」
「そうか、それは良かった。向こうの母親も君のことをいい先生だって言っていたよ」
 それを聞いて、燎は少し安心した。
「昨日、十三に会ったんだってね」
 燎は脳裏に浮かんでくる熊の食事シーンを必死に振り払いながら答える。
「はい、でもびっくりして、ちゃんとあいさつできませんでした」
「まあ、それは気にしなくてもいいと思うよ。それで昨日、母親から電話があったんだ」一気に緊張が走る。
 馨が言うには燎が帰ったあと、鼻息荒く居間に入ってきた十三は
「これからは夕食を一緒に食べる」と高らかに宣言したらしい。
「どういうことですか?」燎には意味が分らなかった。
 小田倉は、全くそうだねと同意する。
「十三はこれまではずっと君に会わないようにしていたようなんだ。君のお父さんを見つけられない負い目もあるんだろう」
 馨も初めて会ったときにそう言っていた。家庭教師を始めてからも、やはり避けられ続けていたのだ。
「ただ昨日、偶然にも君と鉢合わせたことで吹っ切れてしまったようだと馨さんは言っていた。」
 呼び方が、母親から馨さんに変わった。前は奥さんと言っていた。普段は何と呼んでいるんだろう、燎はふとそんなことを考えた。
「前にも少し話したけど、許嫁の話は藁谷と馨さんが約束したことだ。運悪く、十三には事後報告になった。十三だけ除け者にしたとか、そういうことじゃない。たまたまそうなってしまったんだ。でも心配はいらないよ。上月家は馨さんが圧倒的に強いからね。惚れた十三は馨さんに絶対服従だ。今も尻に敷かれている。」
 ただここ数年で雲行きが怪しくなってきた。十三が馨と同じくらい、もしかするとそれ以上に息子を溺愛しているという。馨にはなんでも言いなりだった十三が、凌の許嫁には難色を示しているらしい。
 溺愛などしていなくても、許嫁に反対したくなる気持ちは燎にもなんとなく想像できる。
 馨は許嫁の話を進めるのは息子が大学生になってからと考えていた。その上で当人たちの気持ち次第…と強制するつもりはない。十三については凌が成長するにつれて、自然と子離れができるだろうと楽観的に考えていた。ところが燎が凌の家庭教師になってしまった。予定より三年も早く出会った計算だ。
 溺愛真っ盛りの十三にとって、燎は息子を騙してひどい目に遭わせるドラマの女詐欺師くらいに思っているのかも知れない。十三は刑事だから、犯人みたいなものだ。
 家庭教師のある日は、いつも心配で仕方がないらしい。最近ことあるごとに許嫁には絶対に反対だと言い出した。それでも夫婦だけの会話だったので、馨は時間をかければ解決できると思っていた。
 ところが昨日、十三は凌のいる前で夕食を一緒に食べると言い出した。凌は許嫁のことも、十三が燎を避けているせいで最近夕食を一緒に食べていなかったことを知らない。凌はポカンとしていたそうだ。
「いや、あいつが何を考えているのか僕にはわからないよ、子どもみたいなところがあるしね。馨さんも見当が付かないと言っていた」
 ただ単純に燎を避ける意味がなくなったと考えている可能性もあるにはある。
「でも、もし結婚すれば舅になる男だから、先に十三のことを知っておくのは君にとって悪いことではないと…」
 燎は気がついた。同時に小田倉も燎の顔を見た。
「邪魔するつもりですか」
「ああ、あり得るね。考えたくはないが…」小田倉は頭を抱えている。
 方法はわからないが燎と凌を不仲にするとか、破談の口実を探すためなら燎に接触するのは、間違ってはいないと思う。
 腐っても十三は刑事だ、正義感だけは強い男だ、人格者じゃないが悪人ではない、僕が保証する…と小田倉が燎を安心させるために言葉を並べれば並べるほど、燎はどんどん憂鬱になっていく。
 小田倉の妻、美咲が燎の傍らに立ち肩にそっと手を置いてくれた。
 燎が顔を上げると
「ビール飲む?」と聞いてきた。燎は美咲の手に自分の手を重ねて首を振った。
 
「もし十三に何かされて嫌になったら、許嫁の話は断ればいい。十三を御しきれないようじゃダメだ。それは上月の家の問題だからね」
 帰り際に小田倉は燎を勇気づけるように言ってくれた。
 ずるい、そんなことを言われたら、逆に断われない。
 前と全く同じだ。燎にできることはほとんどない。凌に勉強を教えて、洛理に合格させるだけ…。そう、これだけなんだ。
 また深いため息が出た。
 
 月曜日の授業が終わり、凌と一緒に夕食の席に着いた燎はホッとした。十三はいない。
 馨は、おかわりあるわよと言ってテーブルの真ん中にから揚げの大皿を置いた。
 しばらくすると部屋の外で気配がした。居間のドアが開く。十三だ。やはり熊のような大男だ。ちらと時計を見ると午後七時十五分だった。
 凌と馨が、お帰りと言う。
 燎はもう一度しっかりあいさつしようかとも思ったが、凌も馨も前回会ったことは知っているので止めた。
「お帰りなさい」軽く会釈する。
 燎の声を遮るように、十三は大声を出した。
「ただいまー」
 しのぐーただいまー、と何度も凌の顔の前で鬱陶しい絡みをする。凌は慣れているのか、手で払うだけで完全に無視している。
 言葉を遮られたと思ったのは燎の気のせいだったか。
 十三は隣の部屋に入ると、さっさと部屋着に着替えて馨の隣、つまり燎の斜め前に座った。
 十三はご機嫌そうだが、燎を一切見ようとしない。
 凌と馨が相手にしていないので、燎も気にしないことにした。
 馨の料理はおいしい。から揚げは凌の好物らしくこれまで何度か出てきた。燎もついつい食べ過ぎてしまう。
 おかわりしようと取り箸に手を伸ばそうとすると
「しのぐー、母さんのから揚げうまいなー」と十三が先に取り箸を取った。何気なく十三の皿をみるとまだから揚げが残っている。
 ん?と燎は思った。
 十三は取り終わると取り箸を元の場所ではなく、燎から一番遠いところに箸置きとともに移動させた。
 なんだか嫌な感じだ。仕方なく燎は凌にごめんと謝って手を伸ばす。そしてから揚げを取り終えるとまたごめんと言って、取り箸を箸置きに戻した。
 ついでにソースを足そうと辺りを見回すと、それは十三の手元にあった。そこは手を伸ばしても届かない。レモンや塩もいつの間にか移動していた。
 これはわざとやっている。多分嫌がらせのつもりだろう。でもそれにしては地味な攻撃だと思った。
 燎は取るのを諦めた。皿に残った少ないソースでなんとか食べていると、凌が気づいてソースを回してくれた。ありがとうと受け取るときに十三を見たが、こちらは見向きもせずに、しのぐはよく気がつくなーと褒めていた。
 なにかあると覚悟していたので、それほど動揺することはなかった。しかし親友の娘に対して、息子を取られたくないからといって、刑事でもある大の大人がすることかと思わずにはいられなかった。
 小田倉が、あいつは子どもみたいなところがあると言っていた。本当に子どもじみている。熊のような図体のくせに器が小さい、小さ過ぎる。帰ったら智絵に愚痴らないと気が済みそうにない。
 
 水曜日は最初から十三が食卓にいた。迪もいる。燎のあいさつは、十三のしのぐー、お疲れさまーにかき消された。
 燎と凌が座り、向かいに馨、迪、十三が座った。上月家が全員揃ったことになる。今日は焼き魚と煮物で、大皿はない。ソースやしょうゆも必要なかった。迪がいるせいか十三も大人しい。
 平和な食事になるかと思ったが、突然その期待は裏切られた。
「凌、学校の授業はどうなんや。数学とか英語は難しいんか?」少し真面目に十三が切り出した。
「うん、まあまあかな」
「頼りないなあ、大丈夫かいな。国語は何やってるんや?」
「古文とか…」
「お、“ミレシレカメ”やな」
「うん?」
「ええっ!?こんなんも知らんのかいな」驚き方が大げさだ。
 授業の方針や進捗状況は馨に逐一伝えている。数学と英語はまだ学校の授業に追いついていないし、国語は後回しになっている。十三も馨から聞いているのだろう。わざとそこを追求しているようだ。それに茶化すような口調になってきている。
「なんか数学も英語も成果出てへんなあ。夏休みに遊んでたんとちゃうか?」
「そんなことないよ、一学期の範囲はわかるようになってきたし」
「しのぐー、父さんが教えたろか。教えんの上手いで」
「いらん」
「夏休みの間、苦手な国語の勉強やってないんやろ?洛理に入ろうと思たら、国語もいるで。国語の家庭教師がいるんとちゃうか?」
 しのぐー、夏休みもったいないことしたなー、と大声で独り言を言っている。
「洛理の家庭教師っていうから期待してたのになー」
 ここは燎自身が説明したほうがいいと思ったときだった。
「それ今言わなあかんこと?先生ここにおんねんで。できへんのは僕の責任やろ?先生に悪いと思わんの?」
 凌は静かに箸を置いた。
「ごちそうさま」
「もうええの?まだ残ってるやん」馨が驚いた顔で聞いた。
「もう父さんと一緒に食べへん!」そう言って出て行ってしまった。
 普段大人しい凌からあんな反撃を食らうとは、十三も思ってもみなかったようだ。
「十三!」馨と迪が同時に怒鳴る。
 呆然としていた十三が我に返る。立ち上がって居間のドアを開けようとしたところで燎は声をかけた。今しかないと思った。
「上月さん」
 このタイミングでなんだ、という顔で燎を見る。やっと目が合った。
「上月さんは私が気に入らないようですが、家庭教師は辞めたほうがいいですか?」
「えっ!?」
 馨が十三をきっと睨む。
「ひぃっ」
「燎ちゃんが聞いてるよ。家庭教師は辞めたほうがいいですか?」
 迪も十三を睨んでいる。
 これはごまかしは利かない状況だと観念したようだ。
「今後とも凌のことをよろしくお願いします」さっきまでの陽気な大声熊キャラから一転、消え入るような声とともに十三は渋々頭を下げた。と言っても家庭教師のことだろう。絶対に許嫁のことではないはずだ。
「はい、頑張ります」燎も頭を下げる。燎もあくまで家庭教師のつもりで答えた。
 十三は力なく凌を追いかけて出て行った。闘いに負けた熊の背中だ。同情はしない。頭を上げた燎は十三に向かってベーと舌を出した。
「燎ちゃんやるねぇ」馨は笑っていた。
「一昨日は、よう我慢しましたな」迪は月曜のことも知っていたようだ。
「さ、凌は十三に任せて、私らはご飯食べましょ」
「はい」
 凌には次回フォローを入れよう、そう思いながら燎はソースをたっぷりつけてから揚げを頬張った。

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