不足ではなく、充足から始める夢の見方について

 不足から派生する思考や言動はどこか歪で、それによって本当に望むものには至らない、という朧な信念が自分にはある。
 反面、充足から派生するものは自然でおおらかで美しく、良きものへと至る、と昔から思っているし、これはまた自分の実体験でも正しいと感じている。

 私だけでなく、成功法則をかじる人は、だから「感謝」を志したりしているふしがあるように思う。
 けれども、無理やり捻り出した「感謝」ほど、不自然で気持ち悪いものはない。ありがとう、ありがとうと千度唱えたところで、その芯が「感謝しないと、自分は満たされない」というものであれば、ただのメッキであり、いつその感謝が覆るか危ういもの。そもそも、それは「感謝」ではないだろう。

 感謝とはごくごく内発的なものであるはず。
 何かを得たいがために上部だけで感謝したところで、いつか自分でも自分が嫌になるものではないか。

 自身の環境に対しての誰ともない感謝であればまだしも、それが人に向けられた感謝である場合、そんな偽りの感謝を受ける人は迷惑極まりないことだと思う。

 これもまた本質的には、「不足」から出発しているがための滑稽な倒錯の一つだろう。

 先に、望むゴールに臨場感をもって浸り、そのなかで日常を生きる、という趣旨のことを書いた。これが倒錯をさける、一つの正しい道のような気がしている。

 いろいろなものを合わせて書いたが、少し切り出していくと、望むゴールの瞬間だけを望み続ける場合、不足の埋め合わせがメインになってしまいがちではないか。
 単純な例で言うと、お金がないので、お金が欲しい。十億円手にする、というゴールで手にする瞬間だけを夢見るならば、それは不足の埋め合わせでしかない(不足から派生するものは歪で不自然なもの)。
 さらにその先まで、その先の何気ない日常までありありとイメージして、そのなかで生きて初めて充足からの思想や言動に触れられるのではないか。

 その世界の中で歯を磨き、椅子に座り、窓を開けて外をながめ、テレビをつけて、明日の出来事などを考えていく。
 そういう何気ない日常まで、夢に見続けることで不足ではなく、充足からの生まれるものを感じ取れるのではないかと思う。

 もっというと、その夢に見る日常が、いつしか今の日常と地続きにつながっていくなかで、自然と表出されるものがあって、それがワクワク感であったり、環境や人への感謝ではないかと思う。

(ちなみに、地続きとするテクニックの一つとして有効だと思えるのは、夢の中の自分になって過去を語り始めるというものがある。その振り返る物語が、今につながったとき、それは夢と地続きとなったと言えるのだと思う)

 

 

 

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