「神」は十人もつのが良い。誰かを「神」と崇めることは、「神」に最も遠ざかる逆説的な行為であるということ。

師匠というか、尊敬する人を持っているということは、とても幸せなことだと思います。
「自分」以外の視点をどれだけ持てるかというのは、その人の器の広さであり、ある一定以上の人を巻き込んで、何かを成す際には必須なことだと思います。

反面、すぐに何かなした人を「神」と崇めるSNS中心にした風潮にものすごい違和感をもってならないわけですが。

すなわち、「神」と崇めるときに、両手をあげて自らを明け渡すようなスタンスは、ただの弱さの表出でしかないと思うわけです。

「弱い人」は「神」から最も遠い人です。

どれだけ「神」に憧れたとして、「神」とは真逆な人です。
どれだけ「神」の言葉をありがたがっても、「神」とは異質であり、ありがたがればがるほどに、その距離は遠ざかります。

「神」の言葉を聞いて、それを真似して語ったところで、まるでその言葉は違うものでしかなありません。
当たり前のことですが、この逆説をどれだけの人が理解しているのだろうと思います。

例えば僕はニーチェを読むわけですが、象徴的で好きな言葉として次の言葉。

しかし、わが友よ。君たちにわたしの心をすべてさらけ出してしまえば、こうなる。もし神々があるとすれば、その一人でないことにどうして耐えられようか。
ゆえに神はいない。

ツァラトゥストラはかく語りき

僕は、手軽に誰かを「神」と崇める人(誰か一人を心棒する人)をみるたびに、いつもこの言葉を思い出しています。

ましてやニーチェの言葉をありがたがっている人など、決してニーチェにはなれず、ただただ別人となっているにすぎないわけです。

ただしくは無数の重要参考人(上昇への示唆を与えてくれる人)のうちのひとりとして捉えるというのが正しいありかたです。

重要参考人を持つことはとても素敵なことであることも確かなこと。

そのうえで大切なことは、彼らを「友人」として相対化し、つまりたくさんの「友人を持ち」、彼らを参考にしながら、
誰に理解されずとも、ありふれた言葉ではありますが自分自身の意見と考えをもつこと、そこへの志向ではないかと感じています。



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